(1)平野國臣
西公園光雲神社にある平野の銅像 |
1940年頃付属小学校時代によく訪れた場所である。
道路に近い場所に、遺愛の松があるが、まだ若い松である。
かっては平野邸に大きな松があり、ここが福博電車路にかかったとき、この松だでは国臣の魂が宿る木だから切るべからずということになり、複線の中間に残されていた。
しかし後に鳥飼神社に移されたときいている。
(追記)鳥飼神社と九州電力
銅像の製作者は地元彫刻家安永良徳で、安川・松本一族の親類であり、修猷館に在学していた。
今川にある鳥飼神社 |
今川にある平野神社 |
今川の平野誕生の地 |
国臣の有名な歌碑 |
今川には、平野神社と鳥飼神社がある。小学生時代はときどき遊びにでかけた所である。
平野国臣の生誕地が今川で、いまの平野神社になっている。
久しぶりに出かけてみたが、平日で人影はなかった。
有名な桜島山の歌碑があるが、いま桜島も噴煙が濃くなっているらしい。
道路に近い場所に、遺愛の松があるが、まだ若い松である。
かっては平野邸に大きな松があり、ここが福博電車路にかかったとき、この松だでは国臣の魂が宿る木だから切るべからずということになり、複線の中間に残されていた。
しかし後に鳥飼神社に移されたときいている。
電車もなくなり、道路も拡張されて風景はすっかり変わってしまった。
そんなエピソードを伝えるために、新たな遺愛の松が植えられたのであろう。
(追記)鳥飼神社と九州電力
鳥飼神社の境内に、九州電力の前身の九州電灯鉄道株式会社が寄贈した石碑がある。
石碑には大正2年12月(1913.12、松永翁38歳の時)建立とあるが、 九州電灯鉄道株式会社は松永翁が35歳(1910)の時に設立した会社のようである。
福博電気軌道会社と九州各地のガス会社とが合併して、九州電灯鉄道株式会社となるが、その寄贈理由は九州電力のかたもよくわからないということであった。
鳥飼神社との関係は、柳猛直さんの本によると、次のようなことが書いてある。
東西線が今川橋までのびたとき、地行の鳥飼神社の前の、道のまん中にあった松の木が邪魔なので切り倒そうとした。
しかし実はこの松は勤王の志士平野国民の屋敷内にあった松だということで、「勤王の志士の遺愛の松を切り倒してすむと思うか!」という反対の声が高くなったので、とうとう松はそのまま残されて、複線のまん中にしばらくたっていたそうだ。
この後、鳥飼神社の敷地も線路にかかったか、または平野国臣の碩碑を鳥飼神社に造ったときかに、九州電灯の石碑も献上されたのだろうと推察される。
松永翁は九州の電力の鬼といわれた実力者で、戦後の電力業界の再編成の時にも、大きな貢献をされた。
九電OBの古賀さんによると、虹の松原の別荘は今もあり、庭に石碑があり東邦電力寄贈と刻んてある。
恐らく松永翁の寄贈でしょう。
恐らく松永翁の寄贈でしょう。
又別荘には翁の『一州』、『耳庵』の揮毫の掛け軸もあるそうだ。 この別荘はいま建て替えられて九電の宿泊施設として利用されている。
旧福岡藩士・中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町58番地(現・中央区荒戸)の伯父・中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。
中野家は代々福岡藩の御船方であり、父・泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。
平野國臣の生誕地の近くである。
師範附属小学校の高等科で教えていた柴田文城先生は、頭山満の縁戚で、学校へ白馬で通っていた。
中野の組は非常に悪かったそうで、柴田先生はある日、中野を呼んで「君は元気があっていい。君は将来偉くなると思う。でも、今のようなことではつまらん。弱い者は助けなければならない。君があの子を守ってやれ」と言われ、それから人間が変わったように、強い者には立ち向かうが、弱い者は助ける、というふうによくなったという。
中野の組は非常に悪かったそうで、柴田先生はある日、中野を呼んで「君は元気があっていい。君は将来偉くなると思う。でも、今のようなことではつまらん。弱い者は助けなければならない。君があの子を守ってやれ」と言われ、それから人間が変わったように、強い者には立ち向かうが、弱い者は助ける、というふうによくなったという。
中野正剛は政治家となって「東方会」を結成し総裁となって活躍した。東條英樹の終戦処理不在に反対し、憲兵隊に逮捕されたが、国会会期だったので拘留はまぬかれた。しかし戦局末期の不安や兵役中の子供らへの心配もあって、自宅で自決した。
中野正剛の壮絶な切腹死は、大戦末期(1943年10月27日)で、西公園にあった平野国臣の銅像が廃された頃である。その頃は中野の居は鳥飼神社の横に移していた。
その居住地跡に、正剛会有志により銅像が建てられたのは、国臣像の再建と相前後してである。
その居住地跡に、正剛会有志により銅像が建てられたのは、国臣像の再建と相前後してである。
私は小学5年生の時に中野正剛が母校訪問にきて講演をしたことを覚えているし、100周年記念誌にも記載されている。柔道熱心で膝をいため、その後の悪化で左足は義足のため、杖を突きながら歩いていた。話の中には平野國臣の勤王志士としての活躍も含まれていた。
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