2021年11月15日月曜日

古賀市 青柳地区 2 南部の史跡


 
青柳地区の山城跡
尾東山に尾東山城と古子山城の跡がある。いずれも立花城の軍勢の出城か砦f瓜であったようだ。

楠浦・中里遺跡
古墳時代後期の遺跡で、飾り外装の大刀3振りが出土。
また鉄地金銅製の辻金具、水晶製の切子玉と耳環、ガラス製管玉など、被葬者の装身具などが多数出土してます。
楠浦・中里遺跡(工業団地凸版印刷敷地)

大日如来像

雲慶九代弟子の銘があり、地域の人が長い間祀ってきた木像。青柳の寺浦の大日堂に祀られている。

高さ、73.3cm、頭部と躰内に墨書銘があり、文明七(1475)年などの文字が残されている。

仏師のわかる仏像としては1番古いものである。頭には天冠台、手印は智拳印を結び、足は結跏趺座をとっている。



五所八幡宮
五所八幡宮は、青柳にある市内随一の大社。
境内の碑には、神功皇后が三韓御神幸の砌り、竜輿を休められた所。
應神天皇・神功皇后・玉依姫命・保食神・墨江三前神の五柱を祭ることから五所八幡宮と称する。
戦国時代の名将、立花城主の立花道雪は崇敬の念篤く、天正十一年(1583)に社殿を造営寄進した。
歴代の黒田藩主の尊崇も篤く、参勤交代の都度必ず社参、二代忠之は社殿を、六代継高は神殿を、十一代斉溥は拝殿を造営寄進した。



色姫の墓

古賀市の史跡のなかでも、一番悲劇的ロマンにあふれているのが、この色姫の墓であろう。
戦国時代に立花城の立花道雪と宗像城の宗像氏貞の間で何度かの争いがおこり、和睦の条件として氏貞は妹の色姫を人質として道雪の側室に送った。
その後再度の争いがおきて色姫は自殺をしてしまう。
今は付き人として来ていた清水家の庭先にその墓が残っている。
清水家には色姫の遺品の衣類なども保存されている。

西方浄土筑紫嶋: 天正時代の筑前立花城 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)



清水家:
清水家は色姫が宗像氏から立花に嫁ぐときの付き人としてきた家柄です。その子孫が青柳に住みついて、農村の発展に貢献したので、顕彰碑が建てられています。
清水家石碑1
唐津街道沿いに清水喜一郎翁の石碑があります。
彼は大正初期に農村経営のありかたを研究するため他国を調査してまわり、一村一家主義をとなえ、農業組合や、農協の前身の組織を提案して、小竹村の農業の安定した繁栄に貢献し、県会議員などもつとめました。
清水市郎右衛門氏の兄で、柑橘栽培のヒントを弟に与えたようです。この功績に報いるための石碑です

清水家石碑2
唐津街道沿いにはもひとつの石碑がにあります。

清水市郎右衛門翁の石碑です。彼は地元の農業の新種について研究し、この土壌に適した柑橘類を最初に着目しました。
そして中国よりその苗木を取り寄せて、まず自分の農地でためして、結果がよいことを確認したうえで、青柳、小竹村に奨励しました。今日の立うえの花蜜柑の最初の基礎をきずいた功績を称える石碑です。

当初は別の場所でしたが、現在は唐津街道沿いに、二つ並んで建てられています。



野田勘慶の墓
立花家の家臣、野田若狭の墓で天正11(1583)年3月14日の銘がある。色姫の世話役であったという話もある。

西方浄土筑紫嶋: 古子山と三柱神社 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)



長泉寺

長泉寺は岳越山の南側山裾に伽藍を構えている。旧唐津街道青柳宿の西構口を出てほどない所である。

門前の唐津街道は今年(2012)に道路の拡張工事が行われ道幅も広く、綺麗に舗装された。 昨年までは門前の街道沿いには古い建物が数軒あったが、工事のために取り壊された。 

糟屋郡志によると「正保元年(1644)の創建にて開基を林沢と云ふ」。 お寺の方の話でも開基は林沢とのことで、境内には親鸞聖人像があり、お寺の東側部分は、ベンチ、イスもあるミニ芝生公園風で、他では見られないものである。











0 件のコメント:

コメントを投稿