足利氏が京都に幕府を開いた室町時代。
竹田城は「応仁の乱」の西軍総大将としても名高い但馬守護山名宗全(持豊)によって1443年に竹田城は築城されたと言われます。
太田垣光景を初代城主とし、播磨と但馬の国境を守る拠点として、また播磨を攻撃するための出撃拠点として、重要な役割を担う山城でした。
安土桃山時代。羽柴秀吉(のちに豊臣秀吉)の弟秀長は、但馬の諸将制圧と生野銀山確保のため竹田城攻めを命じられ、制圧後に城代となりました。
その後、秀長の属将桑山重晴を経て、秀吉に臣従した龍野城主赤松広秀が、奇しくも竹田城最後の城主となりました。
1600年関ヶ原の戦いで西軍に属した赤松広秀は敗北を喫し、その後、東軍亀井氏の誘いで鳥取城攻めを行うものの、城下大火の責を負われ、家康の命により自害することとなります。
城主を失った竹田城は、江戸幕府の方針により同年廃城となりました。廃城後に建物はなくなり、現在の石垣だけが残る竹田城跡へと変貌を遂げました。
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