2021年11月22日月曜日

厩戸王子(聖徳太子)一族の九州支配と 撃新羅将軍久米王子

筑紫の太宰と地方豪族: 酒井 芳司 (第2部より)

no02-02.pdf (kyuhaku.jp)

この文献の地図によると、古賀市あたりは、舂米部の管理地であったようだ。(要点のみ抜粋)


厩戸王子(聖徳太子)一族の九州支配と 撃新羅将軍久米王子  

6世紀の倭王権の韓半島出兵は、欽明天皇23年(562)正月、加耶諸国が新羅に滅ぼされて失敗に終 わる。

しかし、その後も倭王権は加耶の復興を企図して新羅に軍事的圧力をかけ続けた。

崇峻天皇4年(592) 11月、紀男 麻呂・巨勢 猿・大伴嚙 ・葛城 烏奈良を大将軍として筑紫に出兵させる。

これら四氏族は用 明天皇2年(587)7月に蘇我 馬子 の呼びかけに応じて物部 守屋 の討滅に参加しており、この出兵を契機 に物部氏から九州の支配を奪っていった。 


その後も加耶諸国復興は進まず、また九州には複数の中央豪族が進出し、地域社会の支配は複雑さを増していったものと思われる。

推古天皇8年(600)2月、軽部臣 と穂積臣 が将軍として派遣され、同 10年(602)2月、厩 戸 王 子 (聖徳太子)の同母弟である久 米 王 子  が 撃 新羅将軍として派遣され、4月 には後の筑前国嶋郡に駐屯し船舶を集めて軍粮を運んだ。

嶋郡や早良平野を含む博多湾西側は、新羅・ 加耶・百済からの土器が搬入されており、7世紀第2四半期まで対外交渉の拠点として機能し続けてい た。

さらに元岡・桑原遺跡群では鍛冶道具を副葬した古墳があり、6世紀から7世紀にかけて製鉄工人の存在が想定され、7世紀後半には中央政権主導による鉄生産方法が導入され、8世紀まで存続した。

このように嶋郡周 辺は対外交渉と鉄生産の拠点であったことから、久米王子も戦争準備のために駐屯したのであろう。


実 際、『肥前国風土記』三根郡条には、久米王子が物部若宮  部をして物部経津主神を物部郷に鎮祭させ、 また忍海 漢人 を漢部郷にすえて兵器を造らせたと伝えており、久米王子は嶋郡以外の地でも地域支配領が置かれ、総領のもとで律令制地方支配組 織が成立して行く。総領は、『常陸国風土記』に東国惣領がみえるほか、『日本書紀』に吉備、周芳、伊 予、筑紫の総領がみえる。

九州北部においては、6世紀以来、那津官家(筑紫官家)が筑紫・豊・火(肥)三国の屯倉を統括し、 韓半島における対外戦争の拠点となっていた。この三国の屯倉は、それぞれ所在する地域の中小豪族が、 伴造や県稲置となって支配下の人民を率いて経営し、これらを統括する那津官家を、筑紫国造となった 筑紫君が管理した。そしてこの那津官家と豊・火国にも飛び地的に散在する統括下の三国の屯倉に奉仕 させられていた人間集団の総体が、筑紫国造の筑紫国の実態であった。 筑紫国造たる筑紫君の支配下には、その影響下にあった中小豪族が私有する人民も含めて、多くの私 有民が存在した可能性がある。したがって、評の編成によって、那津官家が筑紫評となり、その統括下 の三国の屯倉、例えば、糟屋屯倉であれば、これが糟屋評となったとしても、那津官家が三国の屯倉を 統括する体制、すなわち国造の国としての筑紫国は容易に解体できなかったであろう。ゆえに、九州北 部においては、筑紫評が糟屋評など旧三国の屯倉由来の評を重層的に支配する体制が維持された。筑紫 君は筑紫評造として、国造国としての筑紫国を支配し続けたのである。

筑紫大宰と筑紫総領は、大化改新後も那津官家(筑紫評)において、筑紫評造たる筑紫君と協力して、 地域支配を行っていたが、白村江の敗戦後、水城や大野城、基肄城などの国防拠点が現在の太宰府市近 辺で構築され、その司令部となるために、筑紫大宰は、新たに建設された大宰府政庁Ⅰ期古段階の建物 へと移転した。しかし、筑紫評造が、依然として那津の筑紫評において、国造国としての筑紫国を支配 していたので、九州の統治を担う筑紫総領は、筑紫評を離れることはできなかった。

筑紫大評は、那津官家推定地である福岡市比恵遺跡群の南側に隣接する那珂遺跡群 に所在したと推定されている。筑紫君が筑紫評造を解任された後の筑紫評は、おそらく筑紫君の下で筑 紫評の実務を行っていた中小豪族である筑紫三家連が評造となり、所在する周辺地域を支配する官衙 が (後 の筑前国那珂郡衙の前身)としても機能したであろう。 

この段階でようやく、筑紫総領が筑紫評を離れる条件が整ったとみられ、天武朝後半から持統朝にか けての時期(680年代後半)に、筑紫総領は現在の太宰府市近辺に移転したであろう。




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