川中島の戦い・勘助の死(Wikipedia)
永禄4年(1561年)、謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するようを命じる。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。信玄はこの策を容れて、高坂昌信、馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。だが、この時上杉方では、暑さに倒れる兵が出てきており、これ以上味方の兵を苦しめるわけにもいかないとの謙信の判断で、夜中に妻女山を下山していた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻であった。偶然にも同じ日に両者は川中島に出たのである。
夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前を進軍していたのである。謙信も、武田勢2万を目にして驚いた。武田勢も上杉勢も、敵軍の動きに全く気がつかなかった。謙信は武田勢を突破するべく車懸りの陣で武田勢に死に者狂いの猛攻をかける。信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。その中に勘助がいた。『甲陽軍鑑』は勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。
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