櫛田神社 |
住吉神社 |
櫛田神社の概要
櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社である。
7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどの祭事をおこなう。5月の博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりになっている。旧社格は県社。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれている。
住吉神社の概要
社記(筑前国住吉大明神御縁起)では、この住吉神社が鎮座する地を住吉神の生まれた阿波岐原(あはきはら、檍原)の古跡に比定する。これをもって当社では、当社が上古よりの鎮座として「住吉本社」または「日本第一の住吉宮」であるとし、全国2千数百社ある住吉神社の始源である根拠としている。
中世絵図の「博多古図」には、当社の鎮座地が地形的には比恵川と那珂川の河口に突き出た冷泉津の岬の上に位置する様子が見られ、当地は航海守護神の祭祀地として適地であったと考えられている。
また『和名抄』では筑前国那珂郡に海人族の集落に共通すると考えられる古代地名「海部郷」の記載があるほか、境内からは弥生時代の銅戈・銅鉾(銅矛)が出土したとも伝えられることから、当地が古くから海人族にとっての聖地であったとする説もある。
なお『筑前国続風土記拾遺』では、当社の元地を現人神社(福岡県那珂川市)とする。
この伝承では現人神社の地まで海岸線であったとし、海岸線の後退とともに現在の博多区住吉に遷座したとしている。『式内社調査報告』では、住吉神社と現人神社の中間に奴国のものと思われる遺跡(須玖岡本遺跡など)が展開していたことから、那珂川の上流・下流に位置する神社として古代より両社の祭祀が結ばれていたとする説を挙げている。
また、全国的に住吉神を祀る神社に関して見た場合、『住吉大社神代記』や『延喜式』神名帳(927年成立)において摂津国・播磨国・長門国・筑前国・壱岐国・対馬国にそれぞれ住吉神社の記載があることから、当社含めこれらの社には朝鮮航路の要所に配置する意図があったとする説もある。この中で、住吉神は神功皇后の征討伝承と不可分であることから国家的な航海守護神に位置づけられていたとし、5世紀の倭の五王の頃からヤマト王権の軍事・外交に深く関わっていたとする説もある。
清田氏のコメント
先日、住吉社宮司に呼び出され際に、表に出ていない社伝の、いろいろを、聴かされました。なかに、櫛田社浜宮は、元住吉境外末社だと云う話が出ました。
櫛田神社浜宮 |
意外な話に?と、思っていたところに、歴代藩公の三社参りに話が変わり、その後も、多々、住吉社のみに伝わる話題が続いたモノだから、浜宮の件については、詳細を確認する事なく帰りました。
いずれの社の末社如何の話しの前に、大正期に海岸線が沖え前進していますから、それ以前の同浜宮の位置は、現在の昭和通りより南側であったろうと考えられます。
平安・鎌倉期に遡る話ですが、那珂川流域、そして博多湾全域に社領を有していた住吉社のコトですから、現櫛田社浜宮が、かつては、住吉社末社であったと云うコトは考えられるな、と、今の所、私自身は推測しています。
再度、住吉社宮司に会った時には、住吉社末社が、櫛田社浜宮へと変わった経緯について問おうと思っています。
ついで乍ら、現那珂川市山田の住吉社、また、福岡市西区姪浜の住吉社も、古くは博多区住吉社の末社であったわけです。こちらは、筑前續風土記に貝原益軒が、そうであると事情を報告しています。
なお、史料上に櫛田社が現れるのは、西暦で言うと、1200年代以降です。平清盛父・忠盛が伊勢から勧進した、肥前神崎櫛田社を、清盛が大宰大弐に任官したコトを機会に博多に勧進したと、博多祇園山笠振興会が昭和35年に刊行した調査報告書にあります。
平家に縁がある社と振興会報告は言うワケですが、実は、平家物語に筥崎・香椎・宗像社は出ても、櫛田社は出て来ません。
福岡市埋蔵文化財センターでは、その発掘実績から、櫛田社敷地は、清盛時代の蔵地跡だとの認識です。
九州大名誉教授服部秀夫氏は、櫛田社の存在が確認出来るのは、鎌倉時代以降とされます。
倉庫・蔵であったと考えると、櫛田社西門(川端通りへ出る門)前へは石段を十段は下らなければならず、東門前よりも低いとい地形上の状況は、江戸時代までは、那珂川河口と言うよりは、入り江の一部に築かれていた船掛への階段と考えると納得出来ます。
昨年には、櫛田社隣の旧冷泉小(母校なのですが)跡地から中世の港湾施設と推定される石積み遺構が出土しました。櫛田社が平家蔵地跡だという仮説を補強してくれる発見です。
このコメントを記している最中に思い付きました。中世住吉社領は、後白河法皇領でもありました。住吉社は法皇との強い関係がありました。
一方、櫛田社に接して、櫛田社を上回る敷地の境内をもち、熊野社が鎮座したと、筑前風土記拾遺に青柳種信が述べています。
私は、熊野社が櫛田社に隣接してあった事が事実であれば、吉野熊野社への参籠を繰り返した法皇との関係での事だろう。つまりそれは、法皇との関係が深い住吉社も関わっての事だろうと推測していましたが、櫛田社浜宮は、つまり、櫛田社に隣接して鎮座したとされる熊野社の関係の社なのかもしれません。
大正末年から昭和初期世代の方の間では、現櫛田社浜宮が、住吉社境外末社であった事をご存知だったと云う事ですね。
一方、住吉社の起源が佐賀だと云う話は初耳です。
櫛田社の起源が佐賀神崎なのですが、住吉社もと云う事ですね。
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