2021年11月15日月曜日

古賀市 青柳地区 1 北部の史跡

 農村の青柳村

実りの秋で、あちこち稲かりと脱穀がはじまっています。
このあたりの田圃は、旧唐津街道、青柳の五所八幡宮の近くで、
小字が神田、迎田、藤津田など古い地名がついています。
古賀市には、小字名が584ありますが、その語尾に「田」がつく名が80もあり、田園地帯であることを立証しています。青柳村は江戸時代1400石もある、穀倉地帯でした。

今年も豊作のようで、有難いですね。

青柳地区の稲田作業風景

青柳氏

近くの青柳地区の石互には今も青柳姓の古い農家が数軒おられます青柳の地名のルーツをたどると、中世には青柳氏という武将が領有者であったとされ、そのご子孫は神官となられ、分家が早良区の飯盛神社にもおられるようです。毎年恒例の鏑流馬の名手にも青柳氏があられます。






青柳宿場

唐津街道の青柳宿は、江戸時代の最盛期には100軒を超える宿屋があったという。
今はさびれて、昔の面影はない通りであるが、西の構え口の石積みが残っている。


最近市の町おこし運動で、青柳四つ角に、青柳宿の詳細な掲示板と灯篭が復元された。

古賀郷土研究会でも、ガイドマップを制作して、PRに力を入れることにしている。

青柳宿

西方浄土筑紫嶋: 古賀市の青柳宿:その昔と今(改訂版) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

為息庵(川原観音)
青柳宿の四つ角にある為息庵の聖観音の立像は、 川原の福王に祭ってあったものを承応2年(1653)藩主の命により青柳宿に移されたもので、本尊の聖観音は高さ8寸(24cm)立像で堂内の別の観音立像の体内に奉安されていることから別名(腹込の観世音)といわれています。その後、元禄16年(1703)堂の後に庭園を築き草庵を営みて為息庵と号し、求正玄了、ニ僧を住まわせしめ新原浄土院の末庵としました。 為息庵の扁額は博多崇福寺天庵和尚の筆によって書かれたもので、庭園の美しさと為息庵の扁額により広く名を高めたと伝えられています。文政2年(1819)明治14年(1881)の二回川原の火災で観音堂も類焼し、その後 明治34年(1901)現在の観音堂が新築されました。
為息庵


三柱神社
『青柳宿』の裏山にある『三柱神社』。林に囲まれた淋しいこの神社の片隅には『首なし塚』があります。

  この塚は、戦国時代九州屈指の山城『立花山城』の城主だった「立花鑑載」のものです。彼は、名将「立花道雪」に激戦の末攻め落とされ、首をとられたことから、首のない彼の体を祀るために築かれたものだと言われています。

三柱神社
川原天満宮
古賀市川原の天満宮の氏子は現在20軒に減少し、ふだんは無人の神社となっている。氏子代表落合博喜さんは、地元の若者に関心をもってもらえるように、由緒ある梅を頂きたいと大宰府天満宮に今年1月に要望した。
本来は門外不出だが、同じ天神様を祭る神社には協力しようと、2月初旬に紅白の若木各1本(高さ約3米)を贈られてきた。
川原天満宮では11日に神事を行い、拝殿前に植樹し、今後多くの方に美しい梅を見てもらいたいと、開花を心待ちしている。
川原天満宮

託乗寺

託乗寺は開基の僧を空西と云う。元文4年(1739)に、寺号木佛を許された。また、境内の金属製の寺伝では「(前略)空西ニ至リ亭(享?)禄4年(卯)(辛)4月26日天台宗ヲ改メ浄土真宗ニ昄ス。 大谷本願寺第10世住職証如上人法王ヨリ託乗寺ト賜フ是当寺濫觴ナリ」とある。年号の禄は禄の誤りのようである。享禄4年卯辛年は1531年である。

託乗寺

馬渡・束ケ浦遺跡(グリーンパーク)

グリーンパークの造成時に発掘された遺跡で、新聞によると古賀市の馬渡・束ヶ浦遺跡の出土品が今年度、県の有形文化財に指定されたそうだという。

銅剣、銅矛、まが玉、管玉などの出土品を一括して指定されたのは、弥生時代前期から中期の有力者の拠点あったことがうかがわられるし、クニの成立過程や埋葬状況を知る上で貴重な資料と評価されたからだ。グリーンパークのなかにある遺跡が、あらためて脚光をあびることになる。

http://www.lib-citykoga.org/museum/muse_hakutu.html#b
上記の市のホームページにも、現場の掲示板にも、まだ文化財指定のことは記載されていない。お役所仕事だから、4月すぎて夏ごろになるのだろう。


馬渡・束ケ浦古墳跡


坂田・野間ノ下遺跡

弥生時代から鎌倉時代まで、幅広い遺跡。甕棺2基、竪穴式住居16軒、土壙墓2基、木棺墓1基、掘立柱建物5棟、土壙9基など発掘された。その他青磁の貿易陶磁器、紡錘車、短刀なども出土している。


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