2021年11月7日日曜日

[博多](武野要子著)

 『博多』武野要子著、岩波新書  ー町人が育てた国際都市ー


武野要子先生は、子育て時代(S45~55年)に、古賀町に住んでおられた。その縁で古賀市での歴史講演をされたことがある。ご主人は、九大・九産大勤務であった。それで二人とも顔なじみであった。

(1~2章)
外務、防衛、経産省の出先機関である大宰府とその防波堤「博多」。
福岡市という呼称よりも、全国的には「博多」という方が分かりやすい。
その博多の成り立ちから現在までを簡潔にして要点を抑えた内容となっている。
意外にも、地元民すら知らないことが記してあり、トリビアもの満載の一冊。
なんといっても、この博多の街の特徴は朝鮮半島に近く、大陸にも近いという地理上の影響を多々受けていること。
歴史上で有名な金印が発見された志賀島、白村江の戦いの後に亡命百済人が構築した水城の堤防、元寇襲来によって築かれた元寇防塁。(1~2章)
地元民は、その歴史の上で生活しているのだ。
(3~4章)
江戸に幕府が設けられ鎖国の時代が長く続いた。しかし、博多の商人たちはそんな制度をすり抜けて密貿易で潤っていた。神屋、嶋井、大賀、末次など多くの博多商人の名前がでてくる。学友にも同じ姓がおおかった。博多山笠の流れという町並び名は、播磨にある。黒田官兵衛が石田三成とともに町割りを作ったときに作った名前である。

福岡藩の御用商人・伊藤小左衛門は朝鮮王朝との密貿易を密告され、処刑された。その密告は筑後の柳川藩である。伊藤家はもと大内氏の家臣で、木屋瀬が本家で、一時期古賀の青柳宿にもを構えていたという。その後、博多と長崎に進出していた。武野のかいた本もある。


この柳川藩とて豊臣秀吉が朝鮮を経由して明に攻め込む以前から朝鮮王朝との貿易で潤っていたといわれる。いわば、密貿易の利権争いから発展した事件だった。
博多という街が環境の変化に機敏に対応できたのも地理的なものからだろう。
幕末の維新の際、福岡藩の加藤司書、長州藩の高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛との密約の場を提供したのが対馬藩の御用を務める海運業の石蔵屋であった。いち早く時代の変化を読んでいたからだろう。
現代、博多と韓国の釜山とをジェットフォイルで3時間余。その昔は海底トンネルを掘るだの、橋を架けるだのとの壮大な話があった。もし、それらが完成すれば日本と朝鮮半島、大陸とのターミナルとして更にアジアとの交流が盛んになることだろう。
成田空港、羽田空港の拡張が追いつかないというが、博多港というもう一つのインフラの整備を考えても良いのではと思う。
尚、本書の中でおもしろかったのは、日本企業が好きな「社訓」の起源が博多の商人、嶋井家文書にあったということだった。(5章)

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