2021年11月6日土曜日

船原古墳の埋葬者と船氏

読売新聞の記事

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船原古墳は6世紀の古墳である。我が国における馬の飼育と使用が活発になるのは5世紀以降である。馬具や馬形の埴輪が古墳から出土しはじめる。

当時の権力者は、高句麗との戦闘を経験して、騎馬の有利性を認識し、馬文化の導入により、軍事力や政治力の強化に努めた。

高句麗から南下してきた騎馬の風習は、新羅・百済に波及し、わが国にも波及してきた。

騎馬民族渡来説もあるが、身体的変化や言語学的変化の裏付けがなく、断定できない。


5世紀末まで、上の図のように朝鮮半島南部の任那地区に、倭国勢力の封地が認められていたが、高句麗の南下によるゆさぶりで、範囲を狭められてしまう。

赤線の、たり・さた・むろ・こもん・たさ等の地区の権力者が、倭国に渡来した可能性は高い。


 船氏(ふねうじ/ふなうじ)は、「船」をの名とする渡来人系の氏族である

船氏本拠地は河内国丹比郡野中郷(現在の大阪府藤井寺市野中及び羽曳野市野々上)と推定され、野中寺は氏寺とされている。

日本書紀』によると、欽明天皇14年(553年)7月、天皇が樟勾宮に行幸した際に、蘇我大臣稲目宿禰は勅を受けて、王辰爾を派遣し、船の賦(みつぎ)を数え、記録させた。

この時、王辰爾を船の司とし、の氏姓を授けた、現在のの祖先である、とあるのが「船氏」の史料における初出である。

一族に、推古天皇16年(609年)6月の使裴世清の来日時に中臣宮地連烏摩呂らとともに掌客(まろうとのつかさ=接待役)となった船史王平(ふね の ふひと おうへい)、同17年に、難波吉士徳摩呂とともに百済からの漂流僧の集団を訊問するために筑紫太宰府に派遣されたという船史竜(ふね の ふひと たつ)がおり、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変の際に船史恵尺は火中の蘇我邸より『国記』を取り出して、中大兄皇子に献上している。

日本の法相宗の祖である道昭は恵尺の子にあたる。


船史(ふねのふひと)氏は、天武天皇12年(683年)10月にを賜与されており、奈良時代には多くの下級官人を輩出している。

河内地区では、馬飼が盛んであったことも明らかである。

この一族が、船原古墳の地区に拠点を構えていた可能性もあるだろう。

上田正昭先生の「帰化人」を読んで、の文字からの素人の想像である。

その他、研究者の間では、船原古墳に葬られた人物について、「朝鮮半島から亡命したか、ヤマトの政権に招かれた人物」という見方や、「地元から中央政権に加わり、対朝鮮半島外交における重要な役割を持った人物」、「対朝鮮半島政策のためにヤマトの政権が派遣した人物」などの見方が出ている。

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