2021年11月10日水曜日

江戸城の天守閣

 

江戸城の天守は、慶長12年(1607)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。
慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。
家康の天守閣

元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
元和の天守は元和8年(1622)、二代将軍秀忠の本丸改造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
秀忠は、家臣の登場数の増加や、御殿の拡張増築のため、天守の改築を行ったが、
外観はほぼ同じでした。



寛永の天守は、寛永15年(1638)、三代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。
「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層

宮内庁作成模型

家光の時代に、足尾の銅山の開発が進み、外壁に銅板をはり、さび解けに黒色塗料を塗ったので、外観が大きく変化しました。

この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍家綱の叔父である保科正之が、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。


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