法隆寺夢殿救世観音 |
先週のテレビで、奈良時代と平安時代の代表的な仏像を紹介していた。
1)奈良時代の仏像:
法隆寺の仏像の中で最も謎に満ちた仏は、救世観音像であろう。739(天平11)年に八角堂の夢殿に納められた救世観音(造仏推定年代は629-654年)は、長い間、誰もその姿を見ることを許されない秘仏であった。
江戸時代には、約200年間、法隆寺の僧侶さえ拝むことができなかったという。理由は未だ明らかではないが、僧侶たちは、封印を解けば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊するという迷信を信じていた。
1884(明治17)年、東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサ(1853-1908)は調査のために法隆寺を訪れた。
フェノロサたちは、明治政府の元で、公式の宝物調査を行っていたのである。後の文化財保護法の制定や国宝の概念は、この時行われた調査結果に基づいて生まれたものだといわれている。
クスノキ材、一木作り、漆箔塗で、仏師は不明である。昭和26年に国宝に指定された。
737(天平9)年、都で天然痘が流行し、藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなった。
これを聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人々は、太子が亡くなってから100年以上を経てから、夢殿を建て、太子の供養をしたのではないかという推論されている。
それほど太子の霊が強力で、何らかの形で強い影響力が残っていたということなのだろうか。
この時に夢殿に祀られた救世観音は、太子の等身であると伝えられており、太子は当時としてはかなりの長身だったということになる(像高は178.8cm)。
2022年は太子の没後1400年となり、太子信仰のおおくの信者が、その慰霊に詣でるであろう。
三十三間堂の本尊 |
2)平安時代の仏像
千手観音坐像
手観音坐像は蓮華王院(三十三間堂)の本尊で、仏師、湛慶(たんけい)とその弟子たちによる作品。左右1000体の立像の中央、高い位置に安置されている。
高さ3.35m、 背後の光背まで含めると約7mにも及ぶ大きな坐像はヒノキ材の寄木造りで、漆を塗った上に金箔が施されており、国宝に指定 されている。42本の手で「千手」を表現し、尊くも暖かい表情が特徴的だ。
その両側の階段状の仏壇には、1000体の「木造千手観音立像」が安置され、本尊背後にも1体の「木造千手観音立像」が置かれている。
1001体の「木造千手観音立像」は、2018年(平成30年)に国宝に指定された。
堂の左右の端には、「木造風神像」と「木造雷神像」が、千体像の前には千手観音の眷属である「木造二十八部衆立像」が置かれている。
1001体の「木造千手観音立像」は、2018年(平成30年)に国宝に指定された。
堂の左右の端には、「木造風神像」と「木造雷神像」が、千体像の前には千手観音の眷属である「木造二十八部衆立像」が置かれている。
この時代は、仏の一本の手が、1人の人間を救えるという思想で、多くの手をもった仏像を並べることで、大衆の救済を願った。
そのため、大勢の仏師の分業体制で、寄木方式の仏像が多量生産された。
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