2022年2月13日日曜日

足利義満の権力強化

 足利義満が将軍になった時t代、幕府における足利将軍家の力は貧弱であった。

当時の諸国の有力大名の配置図。




 義満はまず諸国の実情を知るため、諸国の視察旅行にでかけ、情報収集をした。


そして、義満は有力大名を次々と滅ぼしていったが、その作戦は鮮やかであった。

それは「相手を弱体化させて挑発し、相手が蜂起したところを制圧する」というものである。


康暦の政変

天授5年/康暦元年(1379年)、義満は反・細川頼之派の守護大名である斯波義将土岐頼康らに邸を包囲され、頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される。

後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。

しかし頼之に対しては追討令が下されるが、翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から、斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。


土岐康行の乱

義満は土岐頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した。

嘉慶元年(1387年)頼康が70歳の高齢で死去。土岐氏の惣領は養子の康行が継いだ。康行は従兄弟の詮直を尾張守護代とし、弟の満貞京都代官として義満に近侍させた。

嘉慶2年(1388年)義満は美濃国、伊勢国の守護職の継承のみを康行に許し、尾張国は満貞に与えてしまった。満貞は野心家で尾張守護職を欲して度々義満へ康行と詮直の讒言をしていた。義満はこの兄弟の不和を利用して土岐氏の分裂を図ったのである。



これに激怒したのが尾張守護代の詮直で、満貞は尾張国へ下向するがこれを拒んで尾張国黒田宿で合戦になり、満貞は敗れて敗走した。京へ逃げ帰った満貞は康行と詮直の謀叛を訴えた。

義満はこの機を逃さず、康応元年(1389年)4月に康行を謀反人と断じて討伐を命じ、土岐氏一族の土岐頼忠頼益父子が征討に向かった。翌明徳元年(1390年3月に康行は美濃国池田郡小島城岐阜県揖斐川町)で挙兵するが敗れて没落した。

明徳の乱

義満は、元中8年/明徳2年(1391年)、山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する。

1391年(元中8・明徳2)に山名氏清・満幸らが室町幕府に対して起こした反乱山名氏は南北朝時代、一族で11か国の守護職を保持して勢力を振るい、六分一殿(ろくぶんのいちどの)とよばれたほどであったので、将軍足利義満はその強勢を警戒し、機をみてその勢力を削減したいと考えていた。

1371年(建徳2・応安4)山名時氏の死後、一族分裂の兆しをみた義満は、氏清(時氏の子)・満幸(氏清の弟師義の子)に命じて、一族の時煕・氏幸ともに氏清の弟時義の子が但馬にあって幕命を奉じないのを理由に、これを追討させた。

しかし、時煕らは義満に取り入って氏清らを讒言し、義満がこれを用いて氏清らを抑えようとしたので、満幸は氏清を説き、氏清も兄義理を誘って幕府に反旗を翻し、京都に進出した。

義満はこれに対し、大内・畠山細川ら有力大名に追討を命じ、91年京都内野(うちの)(京都・二条城の北西、上京区と中京区にまたがる地域)の戦いで氏清らの軍を破った。

この敗戦で氏清は戦死し、満幸は出雲に逃れたが、94年(応永1)に討たれ、義理も敗走後行方不明になった。この結果、時煕に但馬、氏幸に伯耆(ほうき)の守護職が与えられただけで、残りの山名氏の旧領は、反乱鎮定に功のあった畠山・大内・一色・赤松諸氏に分与され、山名氏の勢力は一挙に削減された。

(官位の上昇)

義満は天授4年/永和4年(1378年)3月、右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら朝廷に出仕し、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。


自らの昇進により足利家の家格を准摂家まで上昇させることを目標とし公家としての称号(家名)を室町殿(西園寺流室町家や卜部流室町家を改名させ室町の称号を独占した)と定めた。花押も、上級公家になったことに従いそれまでの武士型のものから公家型に改められた。


義満は祖父の尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。弘和3年/永徳3年(1383年)には武家として初めて源氏長者となり淳和奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。

摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまでや天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。


明徳の和約

元中9年/明徳3年(1392年)、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微した。そのため、義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器北朝後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し、58年にわたる朝廷の分裂を終結させる)。


明徳4年(1393年)、義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が崩御し、自己の権力を確固たるものにした義満は、応永元年12月(1395年1月)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。

同年、従一位太政大臣にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。

応永2年(1395年)6月、義満は出家して、道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家、皇族常盤井宮滿仁親王まで追従して出家している。

同年、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。

応永6年(1399年)、西国の有力大名大内義弘を挑発し義弘がで挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。


(応永の乱)

まざまな策を弄(ろう)して、大名たちの弱体化を図った義満だが、そのやり方が、“人生最大のピンチ”ともいえる応永の乱(1399年)を招く。

義満の右腕として活躍していた西国有数の守護大名・大内義弘が、東日本を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)や、義満が没落させた守護大名の残党を誘って巨大な包囲網を作り上げ、義満排除を唱えて謀反。義満は大包囲網を前に、和睦すべきか、戦うかを迫られた。

大内義弘が家督を相続した頃、義満は将軍の権力を増強すべく、前述のように有力守護大名の弱体化を図っていた。

 天授5年/康暦元年(1379)には、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、また元中6年/康応元年(1389)には、土岐康行を挑発して挙兵させ、これを鎮圧し降伏させています(土岐康行の乱)など。

そんな義満が同年、厳島神社参詣のために瀬戸内を西に下ってきた。これに対して義弘は、周防三田尻(現在の防府市)で義満を歓待し信頼を得て、義満に従って上洛することになる。

元中8年/明徳2年(1391)、義満は11カ国の守護を兼ねて「六分の一殿」と呼ばれた山名氏の弱体化を狙い、一族の分裂を図って挙兵させ、これを討伐して3カ国の守護へと縮小させることに成功(明徳の乱)。この乱には義弘も出陣し、山名氏討伐に加わった。また翌年、義弘は南朝との仲介役を務めて、南北朝合一にも尽力した。

これらの功績により、義弘は和泉・紀伊の守護を兼ねることになる。さらに瀬戸内海の交易権では細川氏と対立しつつも、九州探題を解任された今川貞世に代わって、朝鮮や明とも独自の貿易ルートを確保し、畿内から中国、九州へと勢力を大きく拡大した。

義弘の幕府と将軍への忠誠心は強く、応永2年(1395)に義満が出家すると、40歳の義弘もそれに従った。

しかし2年後の応永4年(1397)、義満が北山第の造営に諸大名家へ人数の供出を求めると、義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するもの」として従わず、義満の不興を買った。

義満が義弘の勢力を危険視し始めるのは、この頃からで、同年末、義満より九州の少弐貞頼討伐の命令を受けた義弘は、2人の弟・満弘と盛見を向かわせたが、苦戦の末に満弘が討死。しかし幕府からは満弘の遺児への手当ては一切なく、一方、少弐を背後から支援して大内討伐を行なったのは義満であるという噂が流れて、義弘は不信感を募らせた。

さらに応永6年(1399)、「義弘が貿易で莫大な私利を得ている」との近臣の讒言もあり、義満は義弘に圧力をかけ、上洛命令を発して挑発。「和泉、紀伊守護の剥奪」「上洛すれば誅殺される」という噂も流れる中、義弘は義満との対決を決断するに至った。義弘は九州探題を一方的に解任されて失脚していた今川貞世を仲介役として、鎌倉公方・足利満兼と密約を結ぶと、義満によって没落させられた土岐氏、山名氏、京極氏、さらに旧南朝方に挙兵を呼びかける。そして同年10月、義弘は弟・弘茂とともに一説に5000の軍勢を率いて和泉国堺ノ浦に上陸。堺に城砦を築いた。これが応永の乱の始まりである。

義弘はすでに死を覚悟しており、自らの葬式と49日法要を済ませていました。また国許の老母にも形見を送り、留守を預かる弟・盛見には、守りを固めることを指示しています。義満自ら東寺に出陣し、3万を超す幕府軍主力は11月29日、義弘の拠る城砦に総攻撃をかけました。しかし、城砦は落ちず。時を同じくして、義弘と連携した鎌倉公方、土岐氏、山名氏(宮田時清)、京極氏もそれぞれ動き、幕府軍の背後を脅かします。 意気揚がる大内勢でしたが、12月21日、幕府軍は火攻めによる総攻撃を行ない、義弘もこれが最後の戦いになると覚悟。自ら大太刀を振るって畠山満家の陣に斬り込み、奮戦の末、「天下無双の大内入道である。討ち取って将軍の御目にかけよ」と大音声を発して討死した。享年45。

大内家は弟の盛見が継承するが、幕府の言いなりにはならず、実力を示して周防・長門・豊前・筑前の守護に任じられることになりる。

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