先日「立花山城の戦国史」という講演を聴講。講師は九州大学の木島孝之先生。
立花山と言えば立花道雪で、吉永正春さんの話は何回も聞いた。
そのあとを継承された木島先生の話は2回目。学者で建築史の専攻だから、H12年のときは、地形や縄張りなどの詳細な計測がメインであった。
今回は、道雪は9代目の立花城主といういわれるが、8ケの独立した別城の一つ、松尾城の城番からスタートしたという新説であった。道雪の側室色姫が松尾殿と呼ばれていたのは知っていたが、別居状態でなく同居していたという。
大分の大友宗麟のもとでは正室の兄の田原紹忍(親賢)が、宗麟にこびた行政をしていたが、道雪は大友氏のために諫言などをしていたので、あまり気にくわぬ部下だったらしい。
大友宗麟が耳川合戦で大敗し、筑前内の大友勢(秋月・高橋・原田・筑紫・竜造寺ら)が離散していくなか、道雪・統虎は、小田部・大津留‣木付・箱崎座主・香椎宮武内・米多比・薦野らを一手にまとめて、筑前大友のリーダーとなったという。
現在残っている石垣などの遺跡は、小早川隆景が入城して織豊式山城の大改造した跡ということは、前回と同じ説であった。
九産大に勤めていた頃は、毎年研究室の学生を伴って登山していたが、詳しい戦国史は知らなかった。
現在は、マンションの最上階に住み、毎朝立花山の姿と対面している。
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