昨日のテレビで、国際日本文化研究センターの倉本一宏教授が、邪馬台国九州説の論考を発表していた。
魏志倭人伝を信じるなら、その総距離の1万2000余里から、途中の距離の記述に従って引き算すると、「伊都国(福岡県糸島市)から邪馬台国までは南へ千数百里残る。これは他の国々の距離から考えると数十キロ程度で、八女あたりになる。
当時の国家の成熟度を考え、文献を普通に読めばこうなる。
九州説なら、卑弥呼を女王にかつぐ倭国は九州の一勢力にとどまるが、畿内説だと、強力な王権が列島の広範な領域を支配していたことになる。
畿内説、それも奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡説の声が大きい。メディアもよく「邪馬台国の(最)有力候補地」と紹介する。
遺跡は大型建物や運河のような大規模な水路をもち、九州から関東まで各地の土器が多数出土した。最初の大型前方後円墳である箸墓(はしはか)もあり、ここが全国に分布する前方後円墳の核心部であることも間違いない。初期王権の王都とみる議論に説得力がある。
しかし倉本氏は「3世紀という古い時代、王権を一つと考えるのがまずおかしい。なぜ一つにまとめたがるのか?」と畿内論者に問う。6世紀の磐井の乱まで、九州の勢力を独立政権だと考えてよい。
前漢・後漢の時代にも倭国の文献が少しあるが、三国時代の呉や蜀の国の文献が残っていれば、もっと倭国の詳細が解っただろう。
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