2022年2月2日水曜日

加藤司書公下屋敷跡と犬鳴別館跡

 桜坂の近くに黒田藩家老の加藤司書屋敷跡の碑がある。

このあたりは、私の恩師の住宅があり、よく歩いたが、福岡地方史研究会の歴史散策の本には、月形居宅跡のみで、加藤屋敷跡の記載がない。



当時の福岡藩は佐幕派のクーデターである乙丑の変があり、筑前勤王党のリーダーだった加藤司書は自刀した。
もし、加藤司書が生きていたら、西郷隆盛、高杉晋作らと共に大きな痕跡を残していたと思われる。
早川勇らは幽閉されて生き残り、維新後の明治政府役人として登用された。


かって福岡市中央区桜坂にあったその加藤司書公下屋敷跡は、消滅してしまった。
 福岡市の外郭団体が地図に記載していましたが、これで「維新ロード」から、一つ、史跡が消えた。
 個人資産だから行政に文句を言っても何も解決しない。市民が共通認識として維新に関する史跡が多々遺っていることを知り、理解することが大事である。


生野の変の平野国臣を先駆けに、対幕、対薩、長州斡旋に動き、その結果、長州征討軍を解兵に導いた加藤司書、月形洗蔵、早川勇らも、筑前勤王党の志士。




高杉晋作の筑前亡命を手助けした野村望東尼も。
頭山満他、その後の玄洋社を構成する人々を輩出した、興志塾の高場乱も。



福岡藩は志士の先駆けとして、他藩より早く動いたばかりに、松陰、南州翁同様、明治まで生き残り、高位高官の職に就いた人がいなかったが、早川勇だけは、奈良府判事や元老院大書記官などを務めた
司書などは、大藩の国家老の立場にありながら、太宰府への諸藩志士の受け入れを進んで行った。討幕を早くから明らかにしている。
小商人・坂本龍馬や中岡が討幕へと傾くのは、太宰府潜伏が契機である。
福岡藩の志士は何故か、歴史の表にあらわれないのは、残念である。



犬鳴御別館
 幕末、福岡藩の家老加藤司書は、外国と戦争になった際に海に近い福岡城は危険だからと藩主を匿うために犬鳴の山奥に舘を建てました。
 当時の福岡藩は加藤司書らの勤王派と佐幕派が激しく対立しており、藩論が佐幕へと傾いた事により、犬鳴御別館は加藤司書らが藩主を幽閉するためにつくったものと誤解され、加藤司書らは処刑され、犬鳴御別館も使われる事もなく、現在は石垣のみが残っています。




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