2022年2月10日木曜日

縄文時代・弥生時代と土器(改訂版)

 日本の古代史は縄文時代、弥生時代からはじまる。

「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)が、1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。
この用語は矢田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。
続いて、「縄文土器」という表記が用いられるようになった。
時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。



なお佐原真はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している。

縄文時代にはまだ稲作はなかった。縄は稲から作られる から、縄文はおかしい。最初の索紋が一番適切な名称と思っていたが、辞書で確認すると、索は太いもの、縄は細いもの、稲のわらから作るのはわら縄というそうだ。

「弥生時代」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡 弥生町(現在の東京都文京区弥生:東大の近く)の貝塚で発見された土器が、発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来し、当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。
このように日本の考古学者は、時代の命名に一貫性がない。

弥生式土器は、縄文式土器より焼成温度が高いのが大きな差であるが、文様については、縄目(なわめ)、刻(きざみ)目、櫛で描いたような描(くしがき)文などを施している。
器形と文様には、時期差と地域差があり、例えば、櫛描文は長野県などの中部高地の系譜を引いており、南関東のものには、細かな縄文が施されるなどの違いがある。







弥生土器の変化


イギリスのように、石器、青銅器、鉄器と、利器による時代区分をしたいのだが、日本では青銅器、鉄器が同時に大陸からもちこまれている。

結局西暦による時代区分が一番わかりやすいことになる。
縄文土器

弥生土器


0 件のコメント:

コメントを投稿