2012年11月26日月曜日

首羅山遺跡と薩摩塔

今年度国の文化審議会が文部省に答申した中に、久山町の首羅山遺跡があり、来年2月には国史跡に指定される見通しとなった。
首羅山遺跡は中世の山林寺院跡で、最盛期には350の僧坊があったとされ、山頂には中国から持ち込まれた石塔(薩摩塔)や石駒の石造物などがあり、磁器なども出土している。



薩摩塔



その中でも薩摩塔は、中世時代の特殊な形をした石灯篭で、九州の西半分に分布していることがわかった。
最初に薩摩半島で見つかったので薩摩塔と名付けられているが、原石は中国産であり、形も中国福建省あたりのと同じなので、唐や宋時代の中国商人が九州に持ち込んだもとと思われる。


博多周辺では、堅粕の馬頭観音、久山の白山(首羅山)などで発見された。宝満山、背振山にもみられるようだ。
平戸島周辺、薩摩半島の枕崎から川辺に最も多いようだ。本の硫黄や木材と、中国の陶磁器の交易が盛んだった頃の在住中国人の信仰の証だったという。
薩摩、平戸、博多周辺に多く分布しているようで、放送大学では、1年前の放送よりさらに新しい調査結果がふえていたようだ。しかしまだ解からないことが多い。 
日本にチャイナタウン(当房、東方など)があり、その住人の信仰の対象であれば、中国にもっと同じものが残っている筈だが、本拠地での変化が激しすぎるようだ。

博多周辺の国際交易が盛んだったことの実証遺跡で、保存状態が非常によい。
2012年11月23日 
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今日は久山町白山288mの山頂付近にある宋風の薩摩塔・獅子などの石造遺跡が残る首羅山遺跡の見学会に参加した。来年2月に国指定の史跡となる予定で、250人位の見学者が集まっていた。地元の人の猪汁の炊き出しを味わい登山の疲れを解消した。

久山町では、首羅山遺跡が国指定になり、そのPRをかねて雅楽の東儀秀樹さんをよんでイベント祭りをおこなった。

遺跡の山腹の林のなかで東儀さんの笙の笛での演奏がはじまると、周辺から鹿の鳴き声がおこり、東儀さんは驚き、そしてよろこんだそうだ。
ビデオ撮影の監督尾登さんも感激したと話されていた。



2012年11月20日火曜日

時代の変化

年末の選挙で、なんだか大きな時代の変化がおこりそうだ。
民主政権への期待は大いにはずれたが、今度の選挙でどんずまり状態の日本がどこまで変わるか?多党乱立で国民は迷うばかりだが、
1)自民がトップとなって、民主との連携がなりたつか?
2)維新中心の第三極がトップをとれるか?
1)ではやや好転するが、おおきな変化はなさそうだ。
2)では政治家の顔ぶれはかなり変わるが、長くはもたない政権となろう。
「石・橋を 叩いて渡る 自公民」 という 川柳 は石原と橋下の連合をを批判している。
この間にアメリカが 新ガスエネルギーの普及とメイドインアメリカの復活をどこまで推進できるかで、時代は変わっていくだろう。

2012年11月12日月曜日

耳川の戦(今日の歴史11月11日)

耳川の戦いで島津軍が大友軍に大勝、戦死者四千を出した大友家は以後衰亡の一途を辿る。
 この年の十月二十日、離反した日向松尾城主・土持親成を討伐した大友宗麟は、日向北部にキリシタンの楽園(ムジカ)を建設しようと、家臣の反対を押し切って再度出陣した。
田原紹忍(親賢)を大将とする四万の兵が高城(宮崎県木城町)を囲み激しく攻撃したが、守将の山田有信はしぶとく粘る。
この事態に島津義久は薩摩から三万の大軍を率いて救援に駆けつけ、佐土原(宮崎県佐土原町)に本陣を敷いた。義久の弟で猛将として知られる義弘も、都於郡城(同西都市)に出陣、高城へ救援の兵を送る。ここに戦いのスケールが大きくなり、大友勢は十一月十一日の夜に軍議を開いた。
 総大将の田原紹忍は慎重論を唱えるが、田北鎮周らは直ちに攻撃すべきと主張、軍議は決裂した。そもそも大友家の軍師として知られる角隈石宗も、この戦い自体宗麟の厄年に当たること、不吉である未申の方角への出陣であること、去年より彗星が現れ光の尾が西へ靡いていることなど数々の凶兆を挙げて反対したが、宗麟は耳を貸さず出陣した。
 その後、この夜のうちに一部の武将らが、続いて翌未明には田北鎮周が出撃していることから、紹忍が結局大友軍をまとめきれなかったことが窺われる。さらに佐伯宗天・斎藤鎮実・吉弘鎮信らも次々と出撃、命令指揮系統がほとんど機能しない状態で島津軍との激突が起こる結果となった。
 一方の島津義久は九日に義弘も交えて佐土原城で軍議を開き、十一日には高城と小丸川を挟んだ根白坂へ兵を進め、万全の体制で待ち受けていた。
 もはや勝敗は既に決していた。この日両軍が衝突するや義弘の伏兵が起ち、出足の止まった大友勢の横合いから義久の本軍が襲いかかる。
 劣勢となった大友勢が退却を始めると高城からも兵が出て追撃を開始、ここに大友勢は四分五裂となり佐伯宗天はじめ多くの将が戦死するなど惨憺たる大敗北を喫した。
 務志賀(延岡市)に布陣していた宗麟は、敗報に接すると同伴していた宣教師たちを置き去りにし、這々の体で豊後へ逃げ帰ったと伝えられている。
 従軍した軍師角隈石宗は田北鎮周らに進言を無視され、死を決して秘伝の書を焼き捨てて出陣、力戦ののち戦死したということだ。