2020年11月28日土曜日

古賀市の篠林地区

 古賀市の篠林地区開発で、前方後円墳ではないかと調査されていた遺跡は、二つの円墳が接近しているものと判明したそうだ。残念ながら古賀市初の前方後墳発見の夢はながれた。

この地区で五つの円墳が発見されたそうで、新たな遺跡として登録されるはずだ。しかし跡地は物流センターとなるので、小さな石碑がたてられる程度だろう。


2020年11月27日金曜日

オリンピック組織委員会

 大河「いだてん」で組織委員会の津島会長と事務総長の田畑が、喧嘩両成敗で辞めさせられた。その理由は当時の新聞にもでなかったが、ドラマでは詳しく演じられた。

事務総長の後任には、外務省の役人だった与謝野晶子の次男与謝野秀がえらばれた。
しかし会長の後任の人選は難航して、4ケ月以上空白だった。最初の候補の石坂泰三が断り、つぎの足立正も辞退した。
S38年の正月の財界会合で、安川第五郎はたまたま隣の席にいた組織委員の高石信五郎に、「まだ会長の目星はつかないですか?」と軽い気持ちで質問した。「貴方がやってくれんか?」という返事に驚いて、話題をかえたという。
1ケ月後に石井光次郎の訪問をうけ、「皆で話し合った結果、あなたにお願いしようということになりました」と告げられた。とんでもないと断れば、石井さんの顔をつぶすことになると思い、「少し考えさせてくれ」と返事した。
この話を知っているのは、石井、川島の二人だけと聞いていたが、川島が口を滑らしらしい。
翌日ゴルフ場にいくと、もう新聞記者が一人きていて、委員長の交渉をうけていますか?と質問してきた。知らぬ存ぜぬでにげたが、プレイと入浴後、帰りかけた玄関には、NHKがカメラを構えているし、妻が入院中の病院にいくと、玄関に記者がまっているし、妻はなにかスキャンダルか何か起こしたのかというので、実情をはなした。
家からは、新聞記者が取り囲んでいるから、帰らぬほうがいいと連絡がはいり、長男の家によって晩飯をすませ、遅く帰宅したら、まだ記者がいて、「今になって辞退したら、国民の袋叩きになるかも」と脅迫がましい言葉までいう始末だった。
次の日曜日の朝、親友の梶井剛からの電話で、「今度は君が引き受けねばならない。日本の名誉にかかわることだ。」という。日頃は、「君は何でも安請け合いをして苦労ばかりしている。キッパリ断ればいい。」と忠告していた梶井の言葉で、もう逃げられないと覚悟をきめた。
二人目の辞退者だった足立正と連絡をとったら、オリンピック終了後の赤字については、責任を持たないと条件をつけなさいとアドバイスしてきた。しかし引き受けるからには、それは責任のがれであるから、条件はつけなかった。・・・途中省略・・・
結果はオリンピックの記録映画の好評で、7億5千万円の黒字を出した。大蔵省は映画製作費を2億5千万円におさえた。
市川監督はカラーでとるには照明装置が必要で、1.5億不足だという。財界人も同意見だったので、財界寄付で1億円増やした。
映画の公開を映画会社に交渉したら、どこも2億5千万で引き受けたら赤字になるから引き受けない。東宝だけが半額にしろというので、収入が1億2千5百万円を超えたら、その6割をリターンする条件をつけて合意した。その結果が上記の黒字である。テレビ時代で記録映画をだれも見ないと思った映画社の判断ミスだった。
(第五郎の回顧録より抜粋):敬称略:
いだてんのドラマでは、与謝野秀は登場したが、安川第五郎は登場しなかった。


2020年11月26日木曜日

内田康哉:その4.大臣時代~晩年

 明治44年(1911年)、内田康哉は、第2次西園寺公望内閣で初めて外務大臣に就任。

中國で孫文らの革命がおこり、その対応に苦慮する時代であった。軍部の勢力がつよくなり、二個師団増設要求を拒否した西園寺内閣は、1年半で総辞職しました。

その後4年程、東京での生活が続き、大隈内閣から寺内内閣に変わったとき、内田はロシア大使に任命されます。ロシア革命の前夜で、社会情勢は不安に満ち溢れていました。政子の父が死亡したため、一旦帰国したが、再度出かける頃は、外務省が危険と判断して止めたようです。

内田も、日本のシベリア出兵に反対するため、病気保養の名目で帰国しましたが、寺内内閣は強行してしまいました。

大正7年(1918年)には、原敬内閣で、二度目の外務大臣となりました。

平民宰相として人気を得ていた原敬が、大正10年(1921年)11月4日に暗殺されると、11月13日まで内田康哉が臨時首相を務めています。

その直後の高橋是清内閣で三度目の外務大臣させるを務めました。

大正9年に、これまでの功績により、伯爵を授与されました。

大正11年、加藤友三郎内閣で四度目の外務大臣に就任しましたが、
加藤首相が在任中に死去すると再び臨時首相を務めています。
この頃やっと自分の手で、シベリア出兵の撤兵を完了させることが出来たと喜んでいます。

内田康哉は、原内閣から加藤内閣まで、5年間も外務大臣を務めたため、「政友会の万年外相」とよばれています。

昭和7年:斎藤内閣で五度目の外務大臣。
昭和5年(1930年)に貴族院議員に任命され、翌年には南満州鉄道の総裁となりましたが、このとき柳条湖事件(満州事変のきっかけ)が起こりました。
国内では五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、陸軍の斎藤実内閣が成立し、政党内閣が終わりを告げましたが、内田康哉は、斎藤内閣で五度目の外務大臣に就任しました。

昭和8年(1933年)に、斎藤内閣は満州国を承認しましたが、議会でこの問題が議論されると、内田は「国を焦土にしてもこの主張を徹することに於ては一歩も譲らない決心」と演説し、「内田焦土外交」と騒がれました。
また、満州問題で日本は国際連盟を脱退しましたが、ここでも中心に内田康哉がいました。

昭和11年(1936年)3月12日、日本の行く末を見届けることなく、72歳で病死しました。
内田康哉の生誕地に建てられた氷川町竜北歴史資料館があり、遺品や遺稿などが展示されています。

明治、大正、昭和前期の歴史を知ることができる人生行路です。


TIME誌に掲載された晩年の写真。





晩年の写真

内田 康哉(うちだ こうさい / やすや):その3.外交官時代

 清国公使:

明治34年、小村寿太郎清国公使が桂内閣の外務大臣に起用され、その後任に内田康哉が選ばれた。康哉36歳、政子30歳。

5年以上の長い期間、日清戦争後の清国の要路と連携して友好ムードをつくり、ロシアの陰謀画策を打破し、ついに日露戦争中の清国中立までに漕ぎつけた。

政子は西太后や要人との交流をかさね、一緒に写真をとるなどの活躍をしている。






明治38年9月、ポーツマス条約の締結で日露戦争はおわった。日清間でも満州での権益、遼東半島の租界と鉄道支線の譲渡問題などの交渉を終え、内田は清国公使の任務を辞した。


オーストリア大使:

明治40年に内田はオーストリア大使を命じられ赴任する。当時はハンガリーまで含む大国であった。

日露戦争で大国ロシアを破った東洋の小国日本の新任大使は、皇帝、政府、国民から暖かく
迎え入れられた。
清国のように神経をすり減らすような外交問題もなかった。
また内田は、清国での外交交渉の成果を認められ、男爵を授与された。
政子は男爵夫人として、多くの欧州皇族や、日本からの来客との対応に忙しい日々を過ごした。
とくに原敬が欧州視察のルートでオーストリアに来た時は、親しい内田のいる大使館に宿泊した。のちに原敬内閣で外務大臣に迎えられる縁となった。ここは2年間の勤務であった。

アメリカ大使:

明治42年に、小村外相からの電報で、アメリカ大使への転勤命令がとどいた。
満州問題をアメリカが批判しはじめており、また日米通商条約の改定問題も発生していた。
これらを内田大使は奔走して、2年の間に解決したという。
またワシントンに日本の桜が寄贈されたが、最初の2000本は環境があわずに枯れてしまった。政子の実家は奈良の造林技術にすぐれた人材が多いので、その力を借りて、2回めの桜移植を行い、見事に定着させたのも、この頃であった。

これらの成果で、内田は2年で帰国し、子爵の爵位を授与され、外務大臣となる。




内田 康哉(うちだ こうさい / やすや):その2.妻の政子

 その2

 内田(土倉)政子
 1871~1946、1889年同志社女学校本科卒

 内田政子の父は「大和の山林王」と称えられた土倉庄三郎である。
 彼は同志社に多額の寄付をしたのみならず、六男五女のうち、男子は全 
員、女子四人を同志社で学ばせた。

 
 そのうえに、二女の政子を私費でアメリカに留学させた。
 同志社女学校卒業生の中で留学生第一号であった。明治23年、19歳の時であった。

 留学先はプロテスタント・クエーカー系の名門女子大学、
 ブリンマー大学と決まったが、その予備校として選ばれたカークス・スクール校長アビー・カークも 
 「驚くほどの先見の明と決断力、自制心の持ち主で、日本の誇り」
 と政子を絶賛した。

留学中3年間は、再度渡米してきた津田梅子と一緒であった。政子の姉

富子が、有名な実業家原六郎の妻であり、二人が渡米してきて政子や梅子にあい、富子だけがしばらくホームステイして、二人の世話をした。

このころ渡米した実業家松本健次郎も、政子、梅子の二人の在学生と交流している。

七年に及ぶブリンマー時代に英・独・仏語をマスターしていた政子は、

 帰国後、挨拶に行った外務省で通称局長の内田康哉に出会う。
 
彼は政子に一日で魅了され、上司の陸奥宗光を介して即結婚を申し込んだとされているが、原六郎が多くの銀行や会社の社長を務めており、陸奥宗光とも親しい間柄だったので、内田康哉のことも知っていて、義妹の結婚相手にふさわしい考えたのであろう。

 婚約時代の二人は英文で恋文を交わしたと伝えられている。

 政子が本場アメリカで身につけた流暢な英語力と抜きんでた社交の才により、公使夫人として最初の赴任地となった北京では、
 社交界の中心となり西太后の絶大な信頼を受けた。


内田の姉:原富子は、原六郎と結婚。尊王武士だったが、維新以後は実業家。
内田の妹:鈴木治子は、鈴木裕三と結婚。海軍中将、軍医長。

 


2020年11月25日水曜日

内田 康哉(うちだ こうさい / やすや):その1:独身時代-結婚まで。

 内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日慶応元年8月10日〉- 1936年昭和11年〉3月12日)は、日本外交官政治家栄典従一位勲一等伯爵

明治大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物で、戦前の日本を代表する九州出身の外政家だが、あまり知られていない。

私の先輩で八代出身の山口氏の縁戚になり、詳しく調査されているので、その概要をまとめた。

1)独身時代:

熊本藩医内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国八代郡竜北(現・熊本県八代郡氷川町)に生まれる。

八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。東大に進学。

明治20年、東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省。

明治21年、ワシントン公使館勤務。陸奥宗光公使の助手となる。

明治23年、帰国。陸奥宗光が農商大臣となり、その秘書官となる。また陸奥が外務大臣となると庶務課長になる。

明治26年、英国勤務。

明治28年、清国勤務。

明治30年、帰国し、通商局長に任命される。

明治32年、米国留学(明治23~30年)から帰国した土倉政子と結婚。



注)その後の要職歴:


日本の旗 第24代 外務大臣
内閣第2次西園寺内閣
在任期間1911年8月30日 - 1912年12月21日
日本の旗 第34代 外務大臣
内閣原内閣
高橋内閣
加藤友三郎内閣
在任期間1918年9月29日 - 1923年9月2日
 ヴェルサイユ条約締結、ワシントン会議の成功により伯爵授与
日本の旗 内閣総理大臣臨時兼任
内閣原内閣
在任期間1921年11月4日 - 1921年11月13日
内閣加藤友三郎内閣
在任期間1923年8月24日 - 1923年9月2日
日本の旗 第44代 外務大臣
内閣齋藤内閣
在任期間1932年7月6日 - 1933年9月14日



2020年11月17日火曜日

半島難民

 政府は朝鮮半島から多数の避難民が押し寄せた場合を想定して、その収容所を九州に置くことを検討しているらしい。

敗戦後の引き揚げ港博多湾、二日市保養所、江戸時代の出島に通じる発想らしい。


2020年11月16日月曜日

2020年11月13日金曜日

大嘗祭と新嘗祭

 新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。

毎年11月23日宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。同じ日に全国の神社でも行われる。

戦後は、勤労感謝の日にかわって、新嘗祭の名前も忘れられている。

新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告をし、これらを神からの賜りものとして自らも食する儀式である

なお、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭という。昨年は令和の年で、11月13日に行われた。



東アジアの稲作地帯では、皇室行事の新嘗祭に似た祭りは広く行われている。
日本では7世紀に新嘗祭から分離して、皇位継承に伴う儀式として大嘗祭(だいじょうさい)が始まった。 新天皇が即位の後に新穀を神々に供え、自身もそれを食する儀式で、その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することである。
この新穀は、2ケ所の斎田でとれた新米が使われ、昭和の大嘗祭では滋賀、福岡、平成の大嘗祭では、秋田、大分の斎田が選ばれたが、令和の斎田は栃木、京都であった。
少し前に秋篠宮が皇室行事だからも少し小規模な儀式にしたらといういう発言があったが、いまはその声もないようだ。

 新嘗祭の唱歌

        作詞 小中村清矩
        作曲 辻  高節


  民やすかれと 二月(きさらぎ)の。
  祈年祭(としごひまつり) 験(しるし)あり。
  千町(ちまち)の小田(おた)に うち靡く。
  垂穂(たりほ)の稲の 美(うまし)稲。
  御饌(みけ)に作りて たてまつる。
  新嘗祭(にひなめまつり) 尊しや。


2020年11月12日木曜日

福岡平野の周辺の鉄滓遺跡と多々良遺跡

 福岡平野を中心に環博多湾地域の古代製鉄遺跡の考古学的調査は、中山平次郎、深江嘉和、大場憲郎、大沢正巳、柳沢一男らの報告がある。その代表的な鉄滓出土遺跡分布図は次の図である。


鉄滓 出土遺跡 製錬跡 鉄滓供献古墳 性格不明跡などを含めて、つぎの地区ごとにその遺跡数を示す。

糸島・今宿  57

早良     100

福岡     13

太宰府     8

粕屋      8

津屋崎     15

福岡市の西部に製鉄遺跡が圧倒的に多い。

製鉄関連遺跡の年代の明確なものは、次のとおり。

     古墳鉄滓・出土鉄滓               製錬遺跡

6C (今宿大塚古墳鉄滓) (大叉住居跡鉄滓)

7C   (古墳供献鉄滓)               コリノ遺跡 野方遺跡

8C  「和白遺跡」 「笹栗遺跡」           下山門遺跡  野方遺

9C                          下山門遺跡 門田遺跡

13C  多々良遺跡                   鹿の脇遺跡

上の地図のように、多々良村にも鉄滓出土遺跡(no.77)の比較的に新しい13Cの遺跡がある。調査結果では、方形の溝で区面された鍛冶場と推定され、ほぼ中央部に火床が検出された。地方歴史書では、蔵の元・津屋・古川あたりに遺跡があったとかかれている。

多々良という地名: 

地名学者によると、たち、たつ、たて、などは台地、傾斜地を示し、ラは、そこら、あちらの場所をさす。

多々良の地名が、古代製鉄所跡という説もあるが、タタラの地名が北部九州に16か所あるなかで、多々良村だけに製鉄所跡があり、また他の製鉄所跡の地名に、タタラがないので、この説は疑問視されている。

しかし、多々良遺跡が注目される歴史的釣り鐘がある。

京都の妙心寺は、花園天皇の離宮があったところで、この寺にある国宝の梵鐘は、多々良村で作られたものとされている。研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされている。



鐘銘によれば、時代は698年(日本最古)で、場所は「粕屋」、工匠は「広国」と記されている。当時粕屋の評造だった舂米連広国が鋳造させて寄贈したらしい。

高さ約1.5m、口径約86cm、重量約830kgの古鐘には記念銘があり、そこには「戊戌年四月十三日 壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」と書かれている。春米連は粕屋の屯倉を管理していた豪族であった。

細川幽斎の「九州道の記」にも、

 船を遥かなる干潟のさきへまわして、多々良浜に徒にていきて、

 「いにしへは ここに鋳物師の跡とめて 今もふみみたる たたら潟かな」とよんで

いる。幽斎も多々良の鋳物師の歴史を知っていたらしい。

この鐘は7Cに鋳造されたから、前述の13Cの多々良遺跡で作られたものではない。

名島の多々良地区には、その他の遺跡が多いが、考古学的に7Cの多々良製鉄遺跡が、明確に発掘調査されることを願うものである。

2020年11月8日日曜日

映画:最高の人生の作り方

 10月下旬の映画会は、「最高の人生のつくり方」だった。

2014年の米国映画で、原名は「And So It Goes」
自己中心的で頑固な変わり者の不動産エージェントのオーレンは、妻を亡くして以来ひとりきりで暮らしてきた。偏屈なオーレンはアパートの住人ともなかなか打ち解けないでいた。
そんな彼のもとに、音信不通だった息子が突然現われ、それまで存在さえ知らされていなかった9歳の孫娘サラを預かってほしいと頼む。 オーレンは途方に暮れながらも、親切な隣人女性リアの助けを借りて孫娘と一緒に暮らしはじめる。
サラの実の母親の所を探しだしてつれていったり、リアの仕事を探してやったり、アパート住人の出産を手伝ったり、などのどたばた劇がつづくが、リアや孫娘サラの存在が、オーレンの頑な心を少しずつ解きほぐしていく。そして息子の裁判の弁護士を雇い、釈放にみちびく。最後は隣人リアと結ばれてのハッピーエンド。


2020年11月6日金曜日

名護屋城 陣営跡

名護屋城本丸は勿論、豊臣秀吉の陣営であるが、大河「麒麟が来る」、「どうする家康」などに登場する主な人物のなかで、名護屋城の陣営に参加したものの跡をさがしてみた。

当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人となるが、文禄の役で動員された25万〜30万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。なお、豊臣秀吉の四国征伐時の豊臣軍の兵力は約10万、九州征伐時は約20万、小田原征伐時は約20万であった。



陣営配置の詳細図のブロッグhttp://hizen-nagoya.jp/bunroku_keicho/index.html







                                              半島の北部
足利義昭
 文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。

織田信秀(信長の6男:祖父、信長の父と同じ名前)

文禄元年(1593年)の文禄の役には御後備衆の筆頭として300人を率いて従軍したが、前年3月5日に発布された同軍役之定により、江・尾・濃・伊の4カ国の大名は1万につき350人を出すという規定であった。

文禄3年(1594年)5月26日、名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際には、同室はしなかったが、次之間にて木下勝俊ら以下9人と共に控えていた。


細川忠興

文禄元年(1592年)からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。翌文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。

                中央部 徳川家康は本陣近く


 

徳川家康
 文禄元年(1592年)から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった。『家忠日記』にはこの時に伊達政宗南部信直上杉景勝佐竹義宣が家康の指揮下にあったと記してある。       
               南東部
             最南部 

毛利輝元

文禄元年(1592年)2月、輝元は秀吉の朝鮮出兵に応じ、朝鮮へと渡海するために広島城を出発し、4月に小西行長が先陣として朝鮮に入ると、諸将もそれに続き、輝元率いる3万の軍勢は六番隊として朝鮮に入り、5月に星州に布陣した。

6月、輝元は開寧に陣を進め、五番隊と連携して日本軍連絡線の守備に就いた。開城陥落後、諸将は漢城で軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、輝元は七番隊として慶尚道を制圧することとなった。輝元は同月の茂渓の戦いや8月の第一次星州城の戦い、9月の第二次星州城の戦いなど、慶尚道において朝鮮軍と激戦を繰り広げた。

文禄2年(1593年)3月、日本と朝鮮の援軍たるとの間で講和交渉が進められると、8月に輝元は朝鮮から帰国した。

文禄4年(1595年)7月、秀吉の甥で関白・豊臣秀次高野山で切腹させられる、いわゆる秀次事件が発生した。この事件は、輝元と秀次がかつて交わしたという誓約が発端となっているとされてきた。しかしながら、輝元と秀次が誓紙を交わしたとする確証は存在しない、とする反論もある。

同年8月、輝元は秀次事件を克服しようと考える秀吉より、徳川家康らとともに五大老に任じられた。

同年10月18日、長らく実子がいなかった輝元に嫡子・秀就が誕生しが、輝元は従兄弟である秀元穂井田元清の子)をすでに養子としており、秀吉からも輝元の後継者として認められていたため、その処遇が問題となっていた。慶長2年(1597年)2月、秀吉は明との和平交渉が決裂したことで再度の朝鮮出兵を命じ、西国諸将に動員令が発せられた。だが、輝元はこのとき病身のため出陣できず、養子の秀元が代わりに出陣した。この時の兵力は文禄の役と同じ3万であり、秀元もまた輝元と同様に各地で奮戦している。


織田信雄(信長の次男)
  出羽国秋田八郎潟湖畔、次いで伊予国へと流されたが、文禄元年(1592年)の文禄の役の際に家康の仲介で赦免され、御伽衆に加えられて大和国内に1万8000石を領した。
肥前名護屋城にも兵1500を率いて着陣したという。
この際、嫡男・秀雄も越前国大野に5万石を与えらた                  
               南西部

本丸跡
  



清田角兵衛の陣跡も、たしかに本丸の西北部(小早川隆景の北部)に記録されている。