2013年1月30日水曜日

毛利と黒田

筑前国は秀吉時代に毛利(小早川)隆景・利秋が領有し、家康時代に黒田如水・長政が領有した。



毛利は元就以来の大豪族に対して、黒田は黒田村の小豪族から秀吉に仕えて身をおこした。
播磨時代ではいち早く主君小寺氏に、織田側につくように進言し、毛利の水軍と戦って、浦宗勝の軍隊と戦ってこれを破っていたことを最近知った。
その後秀吉の毛利攻撃の軍師をつとめて、信長の本能寺事件のとき大返しを提言して明智を討ったのは有名である。
小早川の水軍は村上水軍であり、名島城時代は名島城下に駐留していたが、福岡の黒田藩時代になると黒田に就いて若松城下に駐留していた。
毛利時代は14年、黒田時代は260年以上で、筑前では黒田の歴史が圧倒的にながいが、どこか目薬売りの印象がぬけていない。
隆景の墓は宗像に、宗勝の墓は唐原に、如水達の墓は福岡市にある。
昨日の敵は今日の友の歴史である。

2013年1月28日月曜日

少年使節の派遣

■【天正遣欧使節出港】天正十年(1582)1月28日

今日は大友宗麟・有馬晴信・大村純忠が欧州に向けて4人の少年使節を派遣した日。
1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された天正遣欧使節の肖像画。
九州のキリシタン大名として知られる大友宗麟・有馬晴信・大村純忠は、ローマ教皇グレゴリウス13世に拝謁させるための使節として四人の少年を選び、彼らはこの日イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとともにローマに向け長崎を出港しました。
少年使節は正使に伊東マンショ、以下千々石(ちぢわ)ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの四名で、マンショは伊東義祐の孫、ミゲルは有馬晴信の従兄弟(大村純忠の甥)にあたるものの、さほど身分が高い少年ではありませんでした。

長崎を後にした彼らはマカオよりマラッカを経てインドへ至り、さらに喜望峰を回ってリスボン・マドリードを経て、三年に及ぶ航海の末にローマに到着します。
現地では歓迎されて教皇への拝謁も滞りなく済み、ローマの市民権をも与えられました。彼らは無事に大役を果たして天正十八年(1590)六月二十日に帰国、活版印刷や銅版画の技術をもたらすなど産業面での功績を残しました。

しかし、当時の日本は彼らを歓迎しなかったようです。
同十五年六月には豊臣秀吉がバテレン追放令を出しており、彼らは公然と布教できる立場にはありませんでした。慶長十九年(1614)三月には江戸幕府がキリシタン百人を海外追放するなど弾圧は続き、マンショは布教に従事することを得たものの、ミゲルは棄教し、マルチノは海外追放され、ジュリアンに至っては処刑されるという不遇な晩年を迎えることになります。

伊達政宗の少年使節派遣は有名ですが、九州からの派遣は埋もれているようです。 

2013年1月26日土曜日

苅田火力発電所と古賀さん

九州で戦後初めて建設された苅田火力発電所は、昭和30年頃米国ウエスティングハウスからの技術導入であった。
私の大先輩で、当時技術課長だった古賀作一さんは現在98歳だが、当時の思い出をしっかり記憶されていて、産経新聞の記者にかたった内容が2日間にわたる記事となって大きくとりあげられた。
この記事をA4紙3頁に編集しなをす作業を依頼されたので、今日半日かけて終了した。CG技術が大きく役に立った。


流し読みするよりも、しっかり記事を読み直したので、当時のご苦労が本当に伝わってきた。

2013年1月24日木曜日

佐々成政の失敗

昨晩のテレビで登場した佐々成政は、一時は肥後一国の領主だったが、前田利家と肩を並べる武将のライバル対決は、戦国の乱世での失敗の連続だった。
1)信長が本能寺の変後、信勝を担ぐ。
 自分のリーダーに織田家の信勝を選んだ。これは家康と同じだから誤りではないが、廻り道となった。
2)前田利家の末森城を攻撃。
 前田領の分断を狙い、能登七尾の末森城を大軍を率いてあと一歩のところまで攻めながら、利家の奇襲にあい敗走した。武将としての失敗も大きいが、攻め落としていたとしても、秀吉と前田の連合軍に取りかえされていたかもしれない。
3)肥後で国人の一斉一揆にあう。
 その後秀吉に服従し九州征伐で功をあげたので、肥後一国の領主となったが、太閤検地を急ぎすぎて、国人の一揆がおこり秀吉の怒りをかい、切腹させられる。
前田利家との差は、時代の読み方の差であった。

デカンショ節のルーツ

「デカンショ」といえば、デカルト・カント・ショーペンハーウエルの哲学者の頭文字をつなげた言葉と思い込んでいた。
今朝のテレビで、篠山市のデカンショ祭りが放送されたが、この語源の話がないままに終わったので、念のため篠山市との関係を検索してみた。
デカンショの起源と語源については篠山町七十五年史(1955)と
篠山町百年史(1980)の2冊にあり、百年史では「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言しているが、、七十五年史では「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」説を採っている。
デカンショ節は、江戸時代から歌われていた篠山地方の「みつ節」の変形したものというのが通説だが、デカンショ節が全国に普及した過程において見落としてはならぬものに、千葉県館山の江戸屋(宿屋)における東京一高の学生たちとの出会いがあるという。
旧篠山藩青山家の奨励によって、廃藩後郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成されたことは有名である。そして遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(1979年現在の館山市)を銷夏地と定めここにやってきた。
たまたま明治31年(1898年)の夏、江戸屋の二階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて元気よく唄ったのが郷土の盆踊りの唄であった。
ちょうど階下に居合わせた一高生の水泳部員たちがこれを聞き、唄の自然性や野性味、またその節廻しやリズム感がよく、たちまち気に入り、篠山出身の若者たちに付添い訓育に当たっていた亘理章三郎(後に東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放にこれを唄いまくったから、たちまち多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、全国に広まったといわれているそうだ。

2013年1月20日日曜日

熊本・鹿児島県境の戦

1月20日は相良義陽・菱刈隆秋が、島津氏に講和を求め、一旦休戦に持ち込んだ日。
 肥後相良城の相良義陽(よしひ)と 北薩伊佐郡太良城(鹿児島県菱刈町)の菱刈隆秋は姻戚関係にあり、長らく友好を保ってきました。
島津氏とは微妙な関係にあり、表だった大きな合戦はしていませんが、当時はまだ国人衆の勢力が比較的強く、反島津的な立場にいたと言えます。
享禄三年(1530)、相良氏と菱刈氏は連合して島津氏の大口城(同大口市)を攻略、以後大口城は菱刈氏の持ち城となりました。
 島津氏では貴久の代に三州統一に動き出しますが、渋谷一族(祁答院・入来院・東郷氏)や菱刈・蒲生北原らの諸氏は反発を強めます。
 島津貴久の家老伊集院大和守忠朗が大隅加治木城主肝付越前守兼演らと黒川崎で戦った際の古文書には、人々が新兵器「鉄砲」の登場に驚いていることが見え、おそらくこの戦いにおいて鉄砲が九州で初めて実戦で使用されたのではないかと考えられます。
 島津氏の勢いは日増しに強まり、永禄七年に北原氏を降伏させると矛先は相良・菱刈氏に向けられ、大口城へは島津氏の猛将・新納忠元を差し向けました。
相良・菱刈両氏はこの1月20日に講和を求め一旦窮地を脱します。
しかしその後も反抗的な態度を見せたため、三月に島津家久によって城を落とされ、以後大口城は島津領となり新納忠元が入っています。
アンダーバーをつけた人名は私の周辺の知り合いにいる人達で、また伊佐市には医師の孫がいるので、身近な歴史を感じます。

2013年1月18日金曜日

豊前での黒田と宇都宮の戦跡と館跡(改訂版)

 大河ドラマの主人公中津藩主の戦国武将、黒田官兵衛(1546~1604年)は、福岡市よりも、わたしの家内の故郷「京築地区」や大分県中津市とのゆかりが深い。
 とりわけ黒田家と合戦を繰り広げた豪族、宇都宮氏が拠点を置いていた築上町の観光関係者らは「古里をぜひ、物語の舞台に」と期待を寄せて、番組を地域おこしにつなげようと、すでに県境を越えた自治体間の連携も始まっているという。

 官兵衛は播磨国(兵庫県)の出身で、豊臣秀吉の軍師として全国制覇を支えたことで知られる。
1587年(天正15年)の九州征伐の武勲で、京築地区や大分県北部などの豊前6郡12万3000石を与えられ、まづ馬ヶ岳城を拠点としたが、すぐに中津城を築城した。

中津城中心に周辺に築城


 翌’88年、築上町を拠点に一帯を治めていた宇都宮氏の最後の当主鎮房を攻撃し、その後中津城の和睦の会合の席で謀殺して、同氏を滅ぼした。
築上町でのシンポジュウムで、小和田先生の話では、黒田官兵衛は地元豪族にたいして、黒田に従えば現在の領土は安堵すると宣言していた。 宇都宮氏もそのつもりで安心していたのに、秀吉から四国への移封命令がでた。 しかもその正式書類も届かない状態が続いた。 そこで遂に反抗の兵をあげたようだ。
官兵衛も兵力戦では解決が長引き、肥後での佐々の失敗のようになるのをおそれて、謀殺の手をえらび、 自分も隠居して長政に家督を譲ったと思われる。
秀吉の死後、家康の勢力が増大し、関ケ原の戦がおこる。
長政の軍隊は関ケ原で東軍として活躍するが、九州では東軍はわずかで、西軍派が圧倒的だった。(下図の細川はまだいない時代)

官兵衛が軍資金を投入して兵を集め、急遽侵入してきた大友一族と戦い、石垣原の戦で滅ぼし、さらに周辺の城も平定した。






さらに加藤清正と組んで、島津攻撃まですすんだが、家康の休戦命令にしたがって、兵を収めた。
 黒田家はその後、関ヶ原の戦いを経て、筑前・福岡藩52万石に移ることになり、官兵衛も中津を去った。
 
京築地区には一連の攻防を伝える城跡や寺院などが多数あり、なかでも宇都宮氏の地元、築上町の観光、行政関係者らは「官兵衛に負けた土地で反感もあるが、歴史を通して、もっと地域を知ってもらいたい」として、ドラマによる地域おこしへの期待が大きいという。
 
 我が家も家族で、平成25年10月12日に求菩堤温泉にとまり、13日にそこの歴史資料館で如水の書を見る。
その後32号線で城井谷にでて、城井上城の巨岩をみる。3丁弓岩なども迫力があった。

東に下って天徳寺で宇都宮鎮房らの墓をおがむ。
さらに松丸の宇都宮館あとをみて、蔵内館を見学。蔵内は当時、宇都宮の家臣であったことを知る。
豊津(みやこ町)にでて、馬ヶ岳の登山口まで行った。
その後昨年のNHK大河ドラマの後半で、黒田長政に謀殺された宇都宮鎮房の寒田屋敷跡が、ドラマの後の史蹟紹介で放映された。(9月21日)
家内の叔母の家が寒田にあり、家内もその家に似ているなと一瞬思っていたらしいが、そのままに終わっていた。
正月に兄弟姉妹が集まった時にこの話がでて、叔母の子の報告で、やはり叔母の家だったことがはっきりした。
叔母夫婦は10年位前に他界して、家は古民家のまま放置されているのだが、寒田の郷土史研究家が、このあたりに宇都宮館があったらしいとでも言ったらしい。
叔父・叔母は祖先が宇都宮の家臣だったらしいことは聞いていたが、文書などの資料は皆無で、確証はなにもないし、子供たちは皆都会に出ていて、空き家のままである。その写真が今手元に無いのが残念だが、それがNHKで史蹟として放映されたのには、いささか驚いた。
じつは築城町の教育委員会は、少し下流の松丸に宇都宮氏館跡があり、中世では九州最大級であると、数年前発表していた。
私も2年前その館跡にでかけたことがあるが、発掘調査跡は埋め戻されて、普通の畑になっていた。
宇都宮氏館跡
NHKも、ここでは館跡の映像にならないとと考えたのであろうか。
宇都宮鎮房の長男朝房は肥後で加藤清正軍に殺されたが、清正はその地に宇都宮神社を建立している。
肥後木葉の宇都宮神社
黒田のあとに中津城に入った小笠原長円は、中津に城井神社を建立して、城井大権現を、城の守護神として祀っている。
中津の城井神社

宇都宮鎮房の家臣は、黒田官兵衛が中津に入国した際に姫路から持参した阿弥陀如来を移した合元寺で待機していましたが、黒田軍に滅ぼされ、築城の城井城も落とされてしまいます。
宇都宮の家臣が黒田勢により暗殺された中津の合元寺の壁は血にまみれて赤く染まり、以後、何度塗り替えても赤く染まるため、ついには赤くしているそうです。

合元寺の赤い壁


2013年1月14日月曜日

会津の山川家兄弟



東大の総長を辞職したあと、九州大学や九州工大の総長を務めた山川健次郎氏はよく知っていたが、その一家のことをあまり知らなかった。

山川健次郎


妹の捨松のほうは有名人なので知っていたが、今回の大河ドラマで、健次郎の兄の大蔵が登場すろようだ。


大蔵は国家老・山川家の長男で、15歳で父を失い家督を継ぐ。八重とは同い年。子どものころから優秀な大蔵にとって、勝気な八重は目の上のたんこぶ。(しかし、ぶつかりながらも淡い初恋の相手として八重を意識するようになる役柄のようだ)。


18歳で物頭役(いわゆる侍大将)、一時期、尊王攘夷思想に感化されたが、ロシア留学を経て攘夷の非を悟る。


会津戦争では、西軍に包囲された鶴ヶ城に会津の伝統芸能「彼岸獅子」を舞いながら入城するという離れ業を演じ、敵味方に「知恵の山川」とたたえられる。


敗戦後、斗南藩の大参事として旧会津藩士たちをまとめ、朝敵の汚名をそそぐべく奔走したという。


兄弟全員が明治維新の歴史の中で、活躍した人物であった。

健次郎については、下記のブログに記載している。

http://gfujino1.exblog.jp/2971291/

今日、八重の桜の紹介雑誌を本屋で立ち読みしたら、健次郎も捨松もドラマに登場するようだ。楽しみにしておこう。

 
当時の逸話:
戊辰戦争で会津若松の鶴ヶ城から、凧が揚っていた。
 揚げていたのは、出羽房吉。後の海軍大将出羽重遠だった。

少年ながら、官軍を愚弄し、城内では弾丸運びなどをして活躍した。
 前述の會津白虎隊にいたといわれるのが山川健次郎。
 明治40(1907)年6月に明治専門学校(現在の九州工業大学)の総裁を務め、明治44(1911)年4月には九州帝国大学の初代総長に就任した。
 

この山川健次郎の兄は明治維新以後山川浩と名乗る。
山川浩

 西南戦争では官軍として熊本城に一番乗りを果たした。
 これを気に食わなかったのか、長州閥の某が、西南戦争後、山川を法務官に任じ、竹橋事件(近衛兵の反乱)での首謀者を裁かせた。(近衛兵でありながら、西南戦争後、天皇に直訴を試みた反乱部隊首謀者を裁く。)当然、かなりの人数の銃殺刑を下さなければならなかった。

2013年1月13日日曜日

正倉院展

今年も正倉院展が行われているが、老体ではでかける元気はなく、せいぜいホームページで拝見するだけである。
好きな画像を3点だけ転載してみる。
展示2


展示1


展示3
天平時代から奈良・正倉院に保存されている宝物の美術品には、天平文様とよばれる多くの図柄(デザイン)が施されている。
唐の時代の中国大陸をへて、わが国に渡ってきた宝物の文様を
奈良女子大につとめるうちの子が、現代的視点でCG技術を駆使して再構築して画集として出版している。
天平模様の表紙


読売新聞書評

















読売新聞の書評欄にトップで取り上げられ、先人の美意識が時代を超えても輝きを失わないことを賞賛している。
 著者としてのオリジナイティはあまり無い画集であるが、配置や着色などにはかなりセンスが盛り込められていると思うが、書評ではふれていないのが少し不満がのこるところだ。
 今年も正倉院展が始まっている時期だから、この時期には読んでくれる人が少し増えるであろう。
「よみがえる天平文様」の書評が、今朝13日の読売新聞に掲載。2013年

2013年1月11日金曜日

鹿部大池



現在のJRししぶ駅の前には鹿部大池があった。

昭和55年頃宅地探しでこの周辺を案内されたことがある。当時は水はけが悪そうなのでここは敬遠した。

平成のはじめ頃はこの周辺の草むらで、消防団が池の水を利用して放水訓練を行っているのを見たことがある。

ししぶ駅と住宅団地の計画がはじまって、その事前調査段階で、永浦古墳(平成9~10年)や粕屋屯倉遺跡らしいもの(平成11年)が発見され、何回か現地見学会に足をはこんだ。記念歴史公園の建設計画を喜んで、千鳥池のように池の保存の話には気が廻らなかった。

この地区で畑を耕作していた人の話では、平成12年6月まで畑が借りれたが、以後は造成のため中止となり、やがて埋め立て工事ははじまったという。

この工事は鹿部土地区画整理組合が造成した住宅団地で、「四季彩の杜美明」と名付けて分譲開始されたのは平成18年7月29日であったが、その前の平成17年10月頃には美明保育所が既に完成していた。組合関係者の話でも、埋め立て開始は平成12年ということが明確になった。

以上の経緯から、田辺県議のブログで紹介された「平成18年頃の池の写真」というのは存在しない筈であり、平成8~10年頃の誤りではなかろうか。

平成20年はじめ頃から駅の建築がはじまり、平成21年3月にししぶ駅は開業した。

ししぶ駅東口側には写真のようなモニュメントと記念碑があり、かってこの地にあった鹿部大池(通称レンコン池)を偲んぶもので、レンコンの穴を過去・現在・未来を往来する窓にみたててあるそうだ。

 埋め立てまえに生物調査をされた古賀市歴史資料館館長の石井先生の話では、大池には、ハスの花が咲き、レンコンが採れ、フナも泳ぎ、周辺の丘陵にはブナ科・マンサク科・クスノキ科などの照葉林が拡がっていたそうだ。

 歴史的には豊かな農地だった糟屋屯倉の遺跡、鹿部山から出土した経筒、玄界灘の磯でとれた魚貝類の遺跡、海上交通の要所だったことから兵士の甲冑の出た古墳などが発見さた。

 これらを8種のモニュメントにした柱が駅前広場に飾ってあり、この地の歴史と環境をイメージさせている。

江戸時代には、朝鮮通信使が相の島に宿泊したときには、鹿部大池の鯉がもてなしの料理に出されたという記録も残っている。

          保育所
    
     鹿部山
モニュメント

 
 鹿部大池の地図
鹿鹿部大池の写真
ゼンリンの地図

2013年1月7日月曜日

宮部鼎蔵

今年の大河ドラマで、いきなり肥後の勤皇派志士の宮部鼎蔵が登場した。最後は池田屋事件で新撰組に襲われて自決した人物である。


会津藩の物語なので、九州とは無縁と思っていたが、吉田松陰と一緒に会津藩まで出かけていたという話である。
真実かどうか調べてみたら、確かに歴史的事実である。
東北と九州は遠いようで、結構縁のある歴史物語が多い。
安倍宗任が筑前大島に配流されていた。
義経は壇ノ浦の活躍の後、平泉で命を落とした。

明治維新後は白虎隊生き残りの山川健次郎が九州大学の総長を務めたなどなど。
山川家は長男がドラマの関係人物としてHPに登録されているが、次男の健次郎や妹の捨松なども登場するかどうか楽しみである。
(最後のほうで登場した。)

2013年1月4日金曜日

玉せせり

締め込み姿の男たちが直径30センチほどの木製の玉を奪い合い、豊作か大漁かを占う正月3日の伝統の祭り、「玉せせり」が福岡市東区の筥崎宮で、行われました。
およそ500年前の室町時代から始まったとされる正月伝統の祭りです。
福岡市西区姪の浜の姪浜住吉神社でも3日、同じ伝統行事「玉せせり」が行われました。




博多湾の東西の箱崎浦と姪浜浦は同じ文化を持っていたという証明ですね。


2013年1月3日木曜日

政治家と武将

源頼朝が平泉の藤原氏を攻撃するとき、後白河院の命令による正当化を得ようとしたが、後白河院は命令を出さなかった。
そごで、「戦争時においては最前線の武将の判断が朝廷の判断に優先する」という論理で、勝手に軍をすすめて藤原氏を滅ぼしてしまった。
昭和初期の関東軍の参謀たちは、政府の不拡大方針を無視して、満州から北支那へ軍を進めていった。
「統師綱領」「統師参考」という2冊の秘密書があり、頼朝と同じ論理の自己規定を定めていたという。

2013年1月2日水曜日

源頼朝の幕府政治と政子

平清盛が終わり、源頼朝の時代となるのに10年かかっている。
平家追討の兵を上げ、関東で転戦して、富士川で勝利する。

源頼朝
その後平氏を壊滅させるのに5年、平家残党や義経支援派を壊滅するのに5年。
源義経
後白河院が亡くなってやっと征夷大将軍の冠位をもらい、幕府の組織や政治体制がととのった。
頼朝が作った幕府という政治組織は、清盛の武家政治の失敗を教訓として、多くの独創性を発揮している。アジア大陸や欧米にも見当たらない特異な形態である。
1)京都の朝廷と距離をおき、関東平野の鎌倉という要害の地に幕府の拠点をおいた。

そして朝廷と幕府による2元政治を創った。海岸にあった鶴岡八幡を中央部に移し、大仏を建立した。


左の旧大銀杏は倒れたが、右の新銀杏が育ちはじめている。

鎌倉鶴岡八幡

2)朝廷の冠位にこだわらず、貴族とも距離をおいた。冠位をもらってもすぐに返上し、朝廷や貴族との婚姻政策も殆どとらなかった。
3)清盛の交易振興や通貨制度を排して、土地と農耕の経済を主要なものとした。鎌倉幕府の後半に和賀江島に港を作り交易をした。
和江島記念碑

和得島遠景






4)個々の地方豪族を支配する平家の目代制度でなく、御家人制度(御恩と奉公の封建制度)により地方豪族を支配し、守護・地頭として各地に配した。
これらの政策の原点は、頼朝と北条政子の婚姻関係から出発していた。
伊豆で流浪の身であった頼朝は、地方豪族の娘と結婚し、その婿となるのを出発点と考えていた。
そして30歳で平家討伐の兵を起こすチャンスが到来し、関東武士団の頂点にのしあがった。
源氏族には義弟の範頼、義経、木曽義仲など、関東武士団には、三浦、比企、安達など多くの一族がいた。
頼朝が健在なうちは、一枚岩であった鎌倉幕府の政治も、彼の急死以後は波乱の運命をたどった。
生存中も木曽義仲とは、平家追討の戦で仲たがいをして、義仲を倒し、娘の婚約者だった義高まで殺害しため、娘の大姫は病死してしまった。義経、範頼との確執も有名で、すべて倒してしまった。
死後は若い息子二人の無能力で、直系の政治は絶え、武士団の合議制となるが、次第に北条氏が勢力をつよめる。



まづ頼家に近かった比企氏が倒され、政子の弟が執権の職につく。

鎌倉幕府の最大の危機は、後鳥羽上皇による承久の乱である。後鳥羽上皇は幕府打倒を計画し、1221年(承久3)5月、北条義時追討の院宣を発した。




このとき幕府側では、政子が、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。
そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
そのときの訴えの内容は、下記の写真のとうりで、心理的に武士団の魂をつかむ内容だった。

とくに三浦氏の一部が朝廷側についたが、三浦氏を逆臣として朝敵となるのを避けた表現が功を奏したという。
この5年後に政子もなくなるが、元寇の難を乗り越えて、鎌倉幕府は約150年続いたのには、政子の力がおおきかった。