2023年12月31日日曜日

映画 カサブランカ の 背景

 


原作はマレイ・バーネット英語版ジョアン・アリスン英語版による上演されなかった戯曲『皆がリックの店にやってくる英語版』で、親ドイツヴィシー政権の支配下にあったフランス領モロッコカサブランカを舞台に、かつて深く愛し合った末に別れた男女の思いがけない再会と愛の再燃を描いてい

第二次世界大戦にアメリカが参戦した翌年の1942年に製作が開始され、同年11月26日に公開された。

第16回アカデミー賞にて作品賞監督賞脚色賞の3部門を受賞。配給ワーナー・ブラザース

第二次世界大戦中に撮影されたこの作品は、女性(バーグマン)への愛と、チェコスロバキアのレジスタンス指導者である彼女の夫(ヘンリード)を、ヴィシー支配下の都市からの逃亡を助けるかの選択を迫られるアメリカ人駐在員(ボガート)に焦点を当てている。

映画館やテレビで何回もみて、ストーリーや名画面はよく記憶しているが、製作後80年経過しても、世界的にまだ人気があるそうだ。

製作されたのが1942年で、第2次大戦で日本がミッドウエイ観戦で大敗したころである。

ハリウッドで撮影されたが、出演俳優は欧州各地からナチスの迫害からのがれてアメリカにきた35カ国の映画人であった。

映画監督はハンガリーからの亡命者であり、「バーグマン」はスエーデン生まれ、「ヘンリード」はオーストリア生まれのユダヤ人であった。

ナチスの迫害をうけた俳優が、ナチスの軍人を演じたりしたという。

アメリカへの飛行機に、夫婦が無事に登場できて飛び立つところが、ラストシーンである。

ボガードとルノー署長との会話は、あとで追加されたシーンらしい。

伊野天照皇大神宮

 伊野天照皇大神宮の由来

九州の伊勢と呼ばれ、神殿や建物の配置も伊勢を模した久山町の伊野天照皇大神宮。






 

当宮は正式には「天照皇大神宮」と称しますが、一般には「伊野皇大神宮」の名で親しまれています。また地名は明治以後「猪野」に固定しましたが、それ以前は「伊野」の地名でした。

この猪野の里に天照皇大神宮が鎮座しますに至った由来は、かならずしも定かではありません。

 その一説は、仲哀天皇・神功皇后の香椎御臨幸の時、皇后が近くの山上で撞賢木(つきさかき)厳御魂(いずのみたま)すなわち天照大神に神託を請われ、見事に遠征の目的を達成されたという有名な話が「日本書紀」にありますが、その山上とは神路山、所緑の地としてその麓を伊(猪)野の語源となった斎野(いみの)と称し、ここに天照大神の分霊を勧請したとするものです。

戦国時代、伊野が大友氏の支配下にあったころ、立花城主戸次艦連、後の立花道雪が、当時の那珂郡高宮村の内三十四町の田地を社領として皇大神宮に寄附した文書があったという記録があります。宛て書は伊野大神宮とされていましたが、そのころともなれば、当皇大神宮とされていましたが、当皇第神宮の霊験が広く人びとに知られていたことと思われます。


2023年12月29日金曜日

江戸は穢土?

 徳川家康が掲げた「厭離穢土欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」の旗印。

『どうする家康』で、松平元康が大樹寺で切腹しようとしたら、榊原康政こと小平太が「けがれたこの世を浄土とせよ」という意味ではないでしょうか、と解釈し、元康は切腹を思いとどまりました。

その後の徳川家康は乱世を終わらせるべく戦いを続け、天正十八年八月(西暦1590年)、豊臣秀吉の命により領地を三河など先祖伝来の地から、江戸を中心とした関東に移しました。

そこで気になるのは、当時まだ小さい港町だった江戸(えど)が、「けがれたこの世」の穢土につながるのに、改称しなかった点です。

古来から根拠地とする地名の縁起が悪いと判断したら縁起を担いでめでたい地名に変えることが珍しくないです。

家康も、元亀元年(1570年)、岡崎城から遠江国の曳馬城に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城としています。

関東での政権は、鎌倉幕府の成立以来、西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を、東国に通じた家康によって担わせようとした秀吉の考察でありました。
家康はこの命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城としました。
なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していたようです

そこで徳川家康は江戸は江戸のままの名前で、壮大な江戸城を築き、山を切り崩し海を埋め立て大規模な城下町の整備を進めました。

家康の死後も江戸の町は拡大を続け、約百年後には人口百万を超える世界最大級の都市へと成長していました。

かつては「けがれた地」であった江戸を「この世の浄土」にしたい、という家康の思いがあったのかもしれません。

明治維新以後、江戸は東京に改名されました。そして大戦での焼け野が原から復興しましたが、首都の政治の中心は、政治資金の穢土とよべる状態も生じています。

戦争のない浄土など、地球上にはなく、あの世だけにあるのでしょう。

衛生陶器と電信碍子

 東洋陶器(現在のTOTO)の衛生陶器は、いまや世界的に有名なっている。

戦時中に私が工場見学した頃は、家庭用の食器や、遺骨壺も多く生産されていた。

家内の弟がTOTOを就職希望先候補にあげたとき、家内は「便器の会社など辞めときなさい」ととめたという。古い人間の印象だった。

 北九州に本社を構えたのは陶磁器の原材料とエネルギー、技術の関係からだった。この原料となる粘土に適した土は熊本県の本渡のもの。焼き上げるときの火力として、筑豊炭田の石炭を利用していた。さらに、八幡製鉄所から排出される鉄の屑が耐火材として利用できた。加えて、輸出の際に便利な港に恵まれていた。
 
技術的には、有田焼の焼成技術が生かされていた。この有田焼の技術は、明治時代、電信の碍子(がいし)にも生かされた。
絶縁効果のある碍子だが、この技術があったことで優良品を国産で賄うことができた。

電信が日本に導入されたとき、輸入品だったが、不良品も多く、なんといっても高かった。
そこで、国産化を図ったのだった。

当時の日本の電信技術のリーダーは肥前藩出身の石丸安世で、当然有田焼の技術に着目し、国産化を成功させた。


深川製磁の碍子



 築地~銀座界隈に電信用碍子の検査をやったという記念碑がある。


その後電力用送電の高電圧碍子の需要もひろがり、多くの碍子企業ができた。

2023年12月28日木曜日

歴史人名辞典最初と最後の名前 安威:椀屋

  あいうえお順の人名辞典では、「あ」のつく名前がトップとなる。

 朝日新聞社編纂の歴史人名辞典では、安威氏がトップに登場している。

茨木市に豪族安威氏により築かれた安威城がある。

秀吉の右筆として仕えた安威了佐にあてた秀吉の書


  私の個人的な知人では、愛甲氏が最初の人物である。

名簿の最期は、「わん」になる。

椀屋久右衛門


大坂堺筋の豪商で椀や皿を商った。遊女松山と深い仲になり、豪遊のすえ発狂して水死したと伝えられる
没したのは菩提寺円徳寺の過去帳によると、延宝4年(1676年) 7月31日とあるが諸説ある
井原西鶴はこの稀代の放蕩者をモデルに浮世草子『椀久一世の物語』を書いた
その他、演劇や舞踊の素材としても好まれて数多くの作品が作られた(椀久物
紀海音浄瑠璃『椀久末松山』や、長唄『其面影二人椀久』などが有名である


私の個人的知人では、渡辺氏が何人かいる。

2023年12月23日土曜日

第三の男

昔みたこの映画の紹介が、テレビでながされた。映画をみて何年かあとに、ウイーンに旅して、プラーター公園観覧車に乗ったり、公園を巡ったりした。映画のストーリーを再確認するために、しらべてみた。

 第三の男』(だいさんのおとこ、原題: The Third Man)は、1949年アえレクサンダー・コルダデヴィッド・O・セルズニックによって製作されたミステリー映画

キャロル・リード監督作品。第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール

光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いたプロットで高く評価されている。また、アントン・カラスツィター演奏によるテーマ音楽や、ハリー・ライム役のオーソン・ウェルズの印象深い演技でも知られている。



あらすじ

舞台は第二次世界大戦後、米英仏ソによる四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。当時ウィーンの酒場で人々に親しまれたツィターのメロディ(アントン・カラスによるテーマ曲)をBGMに物語の幕が開く。

アメリカの売れない西部劇作家ホリー・マーチンスは、親友ハリー・ライムから仕事を依頼したいと誘われ、意気揚々とウィーンにやって来た。ハリーのアパートを訪ねるホリーだが、管理人はハリーが前日、自動車事故で死亡したと彼に告げる。



ハリーの葬儀に出席するホリーは、そこでイギリス軍のキャロウェイ少佐と知り合う。少佐はハリーが街で最悪の密売人だと告げるが、信じられないホリーはハリーへの友情から事件の真相究明を決意する。

事件の関係者を調査すると、ハリーの恋人であった女優のアンナ・シュミットと出会う。ホリーと彼女は2人で事件の目撃者である宿の管理人に話を聞き、現場に未知の“第三の男”がいたことをつきとめる。

しかし貴重な証言を残した管理人は何者かに殺害され、ホリーがその容疑者だと疑われて逃走。さらにハリーの知人であるポペスコからも追われ、キャロウェイ少佐に助けを求める。そこで初めてキャロウェイからハリーが粗悪ペニシリンを売り捌いて多数の人々を害した実態の詳細やその証拠の数々を見せられる。

友情・愛情と正義感の間で行き詰まったホリーは酒で気を紛らわせたが帰国を決意。酩酊状態のまま、別れを告げるために寄ったアンナの下宿の近くで、“第三の男”ハリーと邂逅するが、まるで幻かのごとくハリーは消え去ってしまう。

ホリーはハリーを目撃したことをキャロウェイに報告。キャロウェイは疑っていたが、念のためにハリーの墓を掘り返すと、別人の遺体だったことが判明し、ハリーの生存を確信する。一方、国籍を偽っていたアンナがパスポート偽造の罪でソ連の憲兵に連行されてしまう。

ハリーのことを信じたいホリーは、彼とプラーター公園観覧車の上で話し合うが、改めて彼の非情ぶりを悟る。その後、キャロウェイからハリー逮捕の助力を促されたホリーは、親友を売るもやむを得ずと決意し、アンナの保釈を条件に承諾。

ホリーとキャロウェイの計らいで釈放されたアンナはホリーを烈しく罵る。アンナのハリーに対する愛を知ったホリーはキャロウェイへの協力を一時断念するが、病院を視察してハリーの流した害毒を目のあたりにしてハリー狩りに参加することを再度決意し、囮となって彼をカフェに待つ。

店の裏口から現れたハリーは警戒を知るや下水道に飛び込み、ここに地下の追撃戦が開始される。

キャロウェイの銃弾で重傷を負ったハリーはその後、銃を手にしたホリーに追いつめられる。銃を向けるホリーに対してハリーが頷く。下水道内に一発の銃声が響き渡る。

その後、場面は、“第三の男”であったハリー本人の埋葬に。葬儀の後、ホリーはアメリカへ帰国する飛行機の出発時刻が迫っているにもかかわらず空港へ送ってくれる少佐の車を降りて、墓地の路傍でアンナを待つ。しかし、彼女は表情をかたくしたまま一瞥もせず彼の前を歩み去って行く

黒田斉清:博物大名

 黒田藩8代の藩主、斉は蘭学本草学に詳しく、富山藩主・前田利保とともに博物大名として知られた。特に鳥類に強い関心を抱き、幼少のときからアヒルを飼育したという。

江戸時代の「愛物産」番付け表には、東大関の富山藩主「致知春館」前田利家に対して、西大関に筑前藩主「楽善堂」黒田斉が選ばれている。

著書に『鵞経がきょう』、『鴨経おうきょう』、『駿遠信濃卉葉鑑』などがある他、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の補訂書である『本草啓蒙補遺』を残した。のち子孫に鳥類学者を出すなど、黒田家歴代当主の鳥好きの先鞭を付けたといえる。

文政2年(1819年)、蘭学者で藩士の安部龍平を直礼城代組に抜擢し、長崎詰役とした。文政5年(1822年)、斉清は若年ながら眼病を患い、薩摩藩主・島津重豪の九男・斉溥(後の長溥)を娘・純姫と婚姻させ、婿養子という形で迎え養嗣子とした。

文政10年(1827年)、安部龍平の蘭学の師である志筑忠雄が口述訳した「二国会盟録」を提出させる。

文政11年(1828年)、長崎に派遣された藩兵を視察した際にオランダ商館を訪問し、商館の附属医であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに、薬学から動植物・世界地理・文化風習など広く本草学分野に関して対話した。

シーボルトは斉清に対して、本来は医師などが行えばよい博物学を藩公が自ら学ぶ意義について質問したところ、斉清は「外国ノ形勢、風俗ノ淑慝、人類ノ強弱、法政、蕃育ノ得失、奇品異類ノ形状」を知ることで国防に役立てようとしている、と答えている。

これらの問答を龍平に編集させ、『下問雑戴』にまとめさせた。さらに、シーボルトに礼として、参勤交代の途中で蒐集した押し葉標本を与え、この標本はライデンの国立ハーバリウムに収蔵されている。

また、福岡市美術館には斉清筆と伝わる、原寸大の「鵞鳥図」が所蔵されている。また、藩の御用絵師、尾形洞谷に命じて藩祖の黒田如水縁の家臣団、黒田二十四騎図を新たに作成している。

2023年12月21日木曜日

大河のスルーパス

 


どうする家康の最終回では、南光坊天海のところに、何故か稲さんがいる。

南光坊天海は「吾妻鏡」を手に取とって、「あの源頼朝だって、実のどころどんなヤツだったか、分かったもんじゃねえ」と言った。


「仏教に帰依していた」という情報はあるが、「何故天海の所に?」の理由は見つからないという声が多かった。


天海役の小栗は、鎌倉殿13人の主役であったので、どうする家康の最期に天海として登場した。

三谷、古沢のキャッチボールでる。

本多忠勝の娘 稲は、家康の養女となり、真田信之と結婚した。江戸屋敷にいて、仏門に帰依して

いた。仏門の縁で、二人が対面する可能性は、なんとかありうるだろう。

本多忠勝の孫の本田忠刻は、大阪城を逃れたあとの千姫と結婚している縁もある。


来年の大河は、源氏物語の「光る君へ」。去年の大河は吾妻鏡の「鎌倉殿13人」。その原本

を、天海と稲で語り合う姿は、大河の継続性を示している。


「鎌倉殿の13人」最終回では、徳川家康が愛読書の吾妻鏡にお茶をこぼして「どうしよう」と言っている。「どうする家康」へのスルーパスだ。


どうする家康のラストシーンの風景に、現在の東京タワーや高層ビルの遠景が写しだされた。ここは徳川の菩提寺の増上寺がある地域で、家康が築いた江戸の街の現在の姿を示したのだろう。


来年の「光る君へ」の大石静さんは、この大河のパススルーを、どのように表現してくるか楽しみだ。