2019年11月20日水曜日

古賀市の青柳宿:その昔と今(改訂版)

唐津街道の宿場町の青柳宿は、古賀市の史跡として最も身近なもので、郷土史のテーマとして何回か企画展示されてきた。

平成12年の企画展の資料によると、慶長10年(1605)頃から、承応2年(1653)のあいだに、上町、下町、新町の三段階にわけて宿場が広がったようだ。
茶屋、町茶屋、郡屋、構口などがある。託乗寺の姉妹寺は三苫にもある。その後何回か大火災があり、また再建された。
1653年頃の地図

江戸末期の宿場の想定図:
博多屋、箱崎屋など唐津街道のつながりを思わせる宿ができている。江戸時代には、伊能忠敬の測量記録や黒田・島津藩主や、西郷隆盛など要人の宿泊記録もある。

伊能忠敬
 

為息庵は元禄16年の建立だが、火災の後小規模のものとなり現存している。
江戸末期の地図
青柳宿に宿泊乃至休憩して通過した有名人は、豊臣秀吉、26聖人、老中松平信綱、水戸光圀の家臣佐々助三郎ら、小林一茶、遠山左エ門尉景普ら、河井継之助、伊能忠敬、九州諸大名、歴代長崎奉行などが記録に残されている。

明治大正時代の地図:
小学校、高等小学校、郵便局、派出所、村役場などができて、裏糟屋郡の中心地として栄えた。病院、薬局、酒造、醤油、鍛冶、呉服などの商店もあつまった。
鉄道の古賀駅が海岸部にできると、古賀地区の中心は次第に西の海岸部に移りはじめた。


明治・大正時代の地図

昭和40年頃の地図:
鉄道の古賀駅が海岸部にできて、昭和になると青柳地区の
発展は停滞してきた。古賀の郷土愛研究会で数回この地区を案内してもらったが、昔の繁栄のあとが感じられなかった。
昭和40年頃のゼンリン地図

昭和末期・平成初期の地図:

昭和末期に私は青柳に近い場所に住むようになり、青柳の歴史に興味をもった。当時の森市長の住居が上町の角にあり、そのお向かいに学友の子息の福岡歯科医院があった。また赤星病院のあとに堤病院があり、どちらにもよくお世話になるようになった。
当時は青柳宿の掲示板もなく、構え口跡の石碑だけがあった。
平成初期のゼンリン地図
また下町にあった博多屋の御子孫と家内が知り合いになり、青柳宿の昔話をきくことができた。
平成になり、青柳宿の掲示板やいくつかの案内板ができて、史跡らしくなった。
令和元年には、ラグビーワールドカップで、福岡歯科の息子、福岡堅樹選手が大活躍して、古賀市や出身の青柳小、古賀東中の名が日本中に知れ渡った。
そしてその母上も、現在の歯科病院の土地にあった崎村家の出身で、東郷の崎村医院の娘さんだったことも伝えきいた。
4個のトライをあげた福岡選手


古賀市に凱旋した福岡選手



しかし古賀市にはラグビーポールのある競技場が見当たらないので、せめて青柳町四つ角にポールを建てたらどうだろうか?

2019年11月12日火曜日

皇居前広場の歴史



江戸城周辺は武家地で固められていた。
今の宮城前広場も武家屋敷がびっしり並んでいた。
明治維新直後は軍隊や政府機関の建物が多く建てられた。
皇室苑地をへて現在のような国民公園として開放されたのは、戦後昭和24年からである。

2019年11月6日水曜日

沖縄の城と首里城

今回の首里城の炎上は大きなニュースとなった。この機会にその歴史と思い出をまとめてみた。

沖縄県立埋蔵文化センター 所長 安里嗣淳氏の講和(2002年)のレジメや、手持ちの資料より その歴史をみる。

1)琉球王国の成立以前の琉球
10~12世紀に農業と鉄器が普及し、12世紀末には各地にグスクを拠点にする地方首長層が登場し、勢力争いを展開。
2)14世紀には、抗争をへて琉球が三つの勢力にまで統合が進む。「三山時代」
  北山:今帰仁城を拠点  中山:浦添城を拠点  南山:島尻大里城(大里城)を拠点
今帰仁城

浦添城

大里城


3)15世紀初期、中山尚巴志が首里城を居城にし、1429年に琉球を統一
  第一尚氏は以後7代63年間つづく。
  1454年 布里の乱で首里城炎上  1458年 護佐丸の乱   1469年 重臣金丸の乱
4)尚王円統
   金丸が尚円王となり、2代国王尚真が中央集権制度を確立。
   各地のグスクの「按司」を首里に集めすまわせる。
5)独立琉球王国の滅亡
   1609年 7代国王尚寧のとき 薩摩の侵攻
   王国の体裁は薩摩の支配下でも維持 首里城の機能継続
6)明治以降の首里城
   琉球処分 1879年3月29日 首里城明け渡し
   19代 409年の第2尚氏王朝の滅亡
   以後 熊本鎮台の駐屯地 工芸学校の設置 沖縄神社 をへて
   正殿の老朽化で廃棄し風呂屋に売り渡し決定
7)再建 1925年 文部省により国宝指定

8)沖縄戦で地下に軍司令部地下壕設置、南山地区にも陸海軍地下基地設置
  米軍の攻撃による首里城の木造部分と城壁の破壊
9)戦後 琉球大学の建設による破壊
10)1972年5月 沖縄の日本への返還が成立
   その直後首里城は 国指定史跡となり、琉球大学の各学部が順次移転することになる。
   一部で発掘調査  完全移転後に本格的発掘と整備
  (私は順次移転当時の琉球大学を訪問したが、当然首里城はなく、1958年に再建された守礼門だけが存在していた。大学の先生により北山地区や中山地区の城跡も案内さてもらった。)

11)1992年に首里城の再建が行われた。1997年に沖縄出身の学生城間君が琉球大学での学会発表を行うときに再度訪れたが、立派な首里城が再建されていた。その後退職後にも家族と観光旅行で再度訪れた。

今回の消失は残念なことだが、沖縄のシンボルを再建の希望は強く、再度の再建を政府も明言している。

2019年11月2日土曜日

古賀の近代工業のあゆみ

明治維新後に、日本各地では近代工業化の道を模索してきた。
群馬の富岡製糸工場や福岡の八幡製鉄所のように、国家指導で工場建築が行われた場所もあるが、大半はこれまでの職人による家内制手作業の延長で、工場制工業がはじまった。
わが古賀地区でも、明治時代は瓦作りや蝋燭作りからはじまり、明治中ごろに養蚕改良飼育が行われた。
明治末期から大正初期に小規模の清酒や焼酎の醸造や醤油製造がはじまった。
大正8年に本格的規模の日本調味料醸造(株)が古賀駅東側に設立されて、社名はニビシ醤油に変わって、今年百周年をむかえる。

この機会に古賀の近代工業の歩みをふりかえってみる。(H11年。特別展の資料による。)

1)昭和10年代までに設立された工場
2)昭和30年代までに設立された工場
3)その後の工業団地の開発



4)私が多少関わった工場(*印)


2019年10月2日水曜日

福岡堅樹ラグビー選手のファミリー(改訂)

先日のラグビー:アイルランド戦の勝利!!!
古賀市出身の福岡堅樹選手が後半戦にメンバーに入り、逆転のトライをあげた。



終盤で再度福岡選手が相手のパスをインターセプトしてインゴール付近まで持ち込んだが、惜しくもはばまれた。

彼は私の旧制福中時代の同期生福岡義孝君のお孫さんである。


祖父の義孝君は、筑紫野市正行寺の雅楽御堂「筑紫楽堂」の再建や維持活動に貢献され、大宰府の都府楼跡で「梅花の宴」を演じたり、ロンドン大学との交流事業で雅楽を披露したりする活動をつづけられた。

筑紫楽堂

両親は古賀市青柳宿の四つ角近くで歯科医院を開業し、わが家の夫婦はいつも歯の治療でお世話になっている。
父親の綱二郎さんは、学生時代からのラガーマンで、開業後も、地元青少年のラグビー活動のコーチをつとめ、幼少期の堅樹君の指導もされていた。
伯父も、古賀市日吉で、循環器内科医院を開業されている。
また母親の父も、宗像市で内科医院を開業されている。


堅樹君のfaceは両親にはあまり似てなくて爺様似であり、爺様や田辺古賀市長と福高の同窓生でもある。

オリンピック終了後は、整形外科医師をめざすという予定であったが、東京五輪の延期を受けての引退表明と、今回のトップリーグ優勝で、最後の花を飾った。
いま古賀市や福岡県の最大のニュースメーカーである。



2019年9月20日金曜日

宗像氏貞の後継者

宗像氏貞は若くして病死し、承福寺近くの丘のうえで、静かに眠っている。




宗像氏貞が死亡したあと、宗像氏はすぐに断絶したとされている。
宗像大社

しかし、一時的には後継を、氏貞の後妻の「宗像才鶴」がつとめたという説と、小早川隆景の重臣「草刈重継」が代行したという説がある。 草刈重継は氏貞の次女の娘婿である。また才鶴は男性という説もある。

1)「宗像才鶴」については、石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊の連署で、島津の侵攻により荒廃した博多津中整備への協力をもとめる天正15年4月23日付の書状の充所に、龍造寺正家、原田種信にならんで「宗像才鶴」と記名された書状によってこれまでは、知られていた。


今回熊本県で発見の書状は、氏貞の家臣で宗像清兵衛として熊本に移った多良木町にある清兵衛の子孫宅で発見され、秀吉から「宗像才鶴」にあてたもので、天正14年10月10日付と推測される。清兵衛も氏貞の娘婿の一人であったらしい。

島津北上に対抗した功績にたいする感状で、その5月に九州へ上陸した毛利・小早川・吉川・黒田連合軍に合流して、遠賀から豊前方面の島津方諸城(古賀・帆柱・浅川・劔・香春岳各城)を、宗像氏貞のもの後継者の宗像才
鶴の管理下におくというものである。
香春岳
もう一つは軍事に関しては浅野長政に相談するように伝える朱印状である。

才鶴の名前は、大宮司関係の系図には記載がなかったが、氏貞のなき後、実質的に宗像家を任された人物だったようだ。





2)草刈重継は小早川隆景の家臣で、のちに美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下)主となるのが草刈重継である。

天正11年、秀吉の中国平定戦・毛利攻略の最終段階で頑強に抵抗した地生えの草刈重継に対して、これを抑えるべく、毛利方との折衝にあたったのは黒田官兵衛孝高で、その抵抗ぶりが気に入ったのか、その後宗像家との縁組を秀吉に提案して、実現した。

ただ気骨の人らしく、秀吉の命による宗像家相続については気に入らなかったようで、自身は宗像姓を名のることは一度もなく、子に一時期、名のらせていただけだ。ただ宗像文書を受け継いでいたので、現在まで存続することになった。

その宗像文書は、秀吉没後に重継が移り住んだ周防・萩に、いっしょに移り、天明7年(1787)に重継末孫・長州萩藩士・草刈胤継がこれを宗像大宮司・深田兵部少に返還した。

宗像社伝来の『草刈胤継什書奉納状』には、「吾が祖草刈対馬守藤原(草刈)重継、宗像氏貞卿片(正しくは片に旁)縁の来歴、及び宗像の家系・什書、吾家の次第について留め」とあり、重継が宗像社の相伝文書を有し、伝えていたことを述べ、これらを返還し奉納したことが述べられている。

現在、地方の社としては異例の数で中世文書を宗像社が伝えるのは、美作の猛将・草刈重継との縁によるものである。


筑前を黒田一族が領有する時代になり、宗像氏は武家ではなく、大宮司専職の家系となった。

その他の説もいろいろあるようだ。
肥後の人吉付近の多木町に分家があったという説もあるようだ。

昨日は歴史講座で、宗像氏貞の話をきいた。もと県立図書館勤務の桑田氏の話で、数年前にも一度受講したが、今回は詳しい資料や地図や古文書をプロジェクタで示された。
宗像一族が、大内派と大友派に分かれた経緯や、大友との和睦交渉の詳しい内容の文書が、多く残っているようだ。
また戦国時代の武将の仕事は、戦死した部下の家族への手紙、頸をとった部下への恩賞、傷を負った部下への慰問など、多くの手紙を書くことだったが、実物をみてよくわかった。
藤野正人氏の講演参加記録。:
十月十日熊本県多良木町において肥後宗像家文書シンポジウムが行われ私も参加しました。
十月十日は、天正十四年豊臣秀吉が宗像才鶴に薩摩島津氏の北上を防いだことを称賛する文書を発給した日になります。
断絶したと思われていた宗像大宮司家の直系の子孫が多良木町に存在していたことがわかったとともに、貴重な文書を代々引き継ぎ大事に保管していたことにより諸説あった謎の人物「宗像才鶴」が文書の調査にあたった九州大学の花岡先生により益田景祥であることが実証されました。
このことは宗像氏研究において非常に意義のあることだと思います。
ただ、宗像市においては、歴史に関する視点は古代に偏り中世戦国期については今一つ市民の関心が薄いように感じています。
『肥後宗像家文書』は、九州が豊臣政権の支配下に組み込まれる激動の時代の宗像氏の動向を明らかにする貴重な文書群です。
このようなシンポジウムが今回だけに終わらず、いつの日にか多良木町と宗像市の共催で行うことによりさらに宗像氏研究を深めるとともに多良木町宗像市に住む多くの人にさらに知っていただければと感じています。




2019年8月31日土曜日

日韓の精神文化比較論

日韓の精神文化比較論
20年前の渡部・呉氏対談「韓国の激情・日本の無情」をよみなおし、現在での私見をまとめた。





島国日本は、海峡を隔てた島国だから、他国からいろんな文化が入ってきても、古い文化を保存しつつ、良いものは受け入れ、悪いものは取り入れないという自主性があった。


半島国の韓国は、大陸からいろんな文化がはいってくると、今までのものを捨てて、新しいものにきりかえるという切実な習性があった。



仏教伝来以前の韓国にも神道の神社があったが、仏教が伝わると神社がなくなった。そして儒教が盛んになると、仏教もなくなった。易姓革命の思想で、旧来のものを一新する伝統が強い。

前方後円墳も、日本での衰退期になってようやく韓国でも真似られ出現し、事実上日本が支配していた任那4県において築造されていた。

韓半島は、大陸と地続きだからすべて飲み込まれ、唐以後は文字も制度も大陸のものを全て取り入れた。

日本の百済救援のための軍勢が唐・新羅連合軍の前に大敗を喫し、その後新羅は高句麗も攻め滅ぼし、朝鮮統一を成し遂げた。しかしこの統一が外勢である唐と結託し、血を分けた同胞国を不意打ちする形で実現したために、却って中国への「慕華思想」や「事大主義」、「宗族利己主義」の原型を作った。
例えば唐の元号を採用するかたわら、それまで二字姓だった名前を中国式に一字姓に「創氏改名」し、高句麗の領土であった満州を放棄するなど、中国への属国化を強める結果に陥った。

蒙古来寇の時は、蒙古の手先となって日本攻撃の戦端となった。

稲作文化が韓国から日本に伝わったというが、東北地方の気候に近い半島南部で日本より先に稲作が普及したはずはない。古代では、半島在住の漢民族の努力によりようやく普及した。

日本は、大陸文明への劣等感はあったが、こちらにも日本語があるという対抗感の基盤をもち、万葉集などを残した。
神道の神社も残しながら、仏教伝来後100年間で530も寺院を建設した。

19世紀に、圧倒的にすぐれた西欧文明が流れてきた時、中国、印度、アフリカ、南米などは手も足もでなかった。
日本だけがすばやく対応して、王政復古をやり、西欧式近代文明化の消化に成功した。
その差が日韓併合にまで進んでしまった。

韓国語と日本語には、殆ど共通語彙がない。もともと古代コリア語が残っていない。ソウル大学が出来て、小倉教授が古代コリア語を調査しはじめたが、13世紀の新羅歌謡14首だけが解明されただけだった。

韓国で国文学というと、1900年以後の近代文学が中心になる。
日本の源氏物語からみれば、10世紀の差がある。

韓国もある時期から、漢字を追放した。ハングル文字の採用である。それは有る程度大陸を追放しないと、アイデンティティが守れないと考えたからだ。

日本では、和語で書く伝統が確立されているから、漢字でも横文字でも、どんどん取りいれる余裕があった。

韓国では、漢字の音読みしかないが、日本では音読みと訓読みで、そのまま読み下す方法をつくりだした。

戦後の韓国は、よきにつけ悪しきにつけ日本を意識し、日本との対抗関係に情熱を燃やし続けてきた。


かって、日本政府が日韓併合が円滑であるように、日本人の韓国への好感度を上げようと、韓国の伝統文化を称揚し振興し、日本への貢献を誇張した時代があり、李方子妃殿下が言葉も風俗も違う韓国の王宮に、日韓融和の国家的使命を秘めて単身で嫁がれたこともあった。
そうした日本の朝鮮統治の『負の遺産』が、対抗意識への情熱に火をつけている。
竹島問題やワールドカップなどで、日本を追い越せ!、日本に勝て!式の克日の炎がもえあがり、いまや慰安婦問題、徴用工問題で、日韓関係は最悪の状態になっている。

韓国の学者のなかには、大和国家は百済の植民地だったとの説を唱える人もおり、百済人と古代日本の王族は親戚だと考える韓国人も増えてきた。これが拡大されて、日本列島の人も文化もすべて韓半島から行ったものだという主張にもなっている。

対等な日韓同祖論でなく、韓国民優位主義に立ち、奈良や京都の素晴らしい文化は、我々の祖先がつくったものとか、日本が経済大国になったのは、韓民族の優秀な血が流れているからといった論評が多くなっている。劣等感を裏返しにした優位主義で、屈折した論理である。

しかも最近韓国は、日本に対しては何を言ってもいいというムードができている。Wカップの時も、「神は我々を選んだ」(日本は呪われた)という表現をした。

韓国の知識人やジャーナリストは、民衆に対して必要なときには反日思想を基盤にして日本との競争を煽り、国際的な非難をあびそうになると、対面を保つように民衆を説得にまわる。

こんな両班的なシーソーゲームで民衆をあやつる反日思想の悪循環がつづいている。政治家は反日的なことを言わないと選挙に勝てない状態である。

私も1993~1998年に間に5回ほど韓国を訪問し、国内でも学会交流の先鞭をつけたが、個人的には多くの親日の学者たちと交流することができた。当時は現在のように、日韓関係が悪化するとは予想もしなかった。

今後は日韓の精神文化の差が根深いことを、真剣に考えながら折衝・交渉をしていく必要がある。