2017年8月23日水曜日

三谷幸喜のメモ(真田信繁を活躍させたい)

ドラマでは真田信繁は秀吉の馬廻(うままわり)衆(いわゆる護衛)を務めている。
専門家から歴史の捏造(ねつぞう)だと指摘されたが、これは決して僕の創作ではない。馬廻をしていた事実は、つい最近になって分かったこと。歴史は日々成長している。
小田原征伐で、信繁を活躍させたいと思った。この戦に参加しているのは確かだが、どんな役目を果たしていたかは、定かではない。
そこで、「北条氏政に降伏を促すため城に潜入」というエ
ピソードを思いつく。

★だが実際は降伏の交渉をしたのは黒田官兵衛。史実は曲げられない。
官兵衛は秀吉の命を受けたオフィシャルな交渉係。その裏では、徳川家康らも密(ひそ)かに開城交渉をしていたらしい。
★官兵衛とは別に、信繁は家康の命令で非公式に氏政に会うというのはどうか。考証の先生たちの意見を踏まえ、プロデューサーが考えて
くれた。
では、なぜ家康は信繁に託したのか。そこからは僕の仕事。その前の回で、秀吉の前で信繁と舌戦を繰り広げた、北条の外交担当板部岡江雪斎と、家康の軍師本多正信を思い出す。
信繁の知恵と度胸に惚(ほ)れ込んだ彼らが動いたことにし
よう。こうしてようやく物語が動き出す。そんな感じで毎回やっています。
複数の交渉が同時に行われていたことは、あまり知られていないので、
★官兵衛ファンの方は、信繁が手柄を横取りしたとお怒りかもしれませんが、そうではないのです。描かれていないだけで、ちゃんと官兵衛も頑張っているのです。~

2017年8月21日月曜日

江戸時代の海外政策

(1) 江戸幕府初期の古賀地区

今年は江戸幕府が開かれて400年、徳川将軍家15代のスタートの年です。
当時を郷土史の観点から振り返って、思い付いたことを幾つか書いてみます。

1600年の関ヶ原の戦は戦国時代の優勝決定戦で、勝利をおさめた徳川家康は 、全国に譜代の大名や同盟の大名を配備して、安定政権を確立します。

筑前には黒田長政が入国し、西軍についた立花宗茂は一旦奥州にあずけられたあと 柳川にもどされています。

黒田長政は福岡に城を建設したので、かって立花城の城下町だった小竹、青柳、 こも野などは政治の中心から遠ざかり、一国一城の制度で、こも野城も廃城と なってしまいます。

かって栄えた博多の貿易港も、江戸幕府の政策で長崎港に移されて、豊臣時代の 幹線であった唐津街道も、その後に整備された長崎街道にお株をとられていまい ます。

現在の古賀地区は平凡な農村にもどり、おそらく人口も減少したでしょう。
1658年には花鶴浦の漁業権も新宮浦と福間浦に分譲されて、消滅しています。

唐津街道も、唐津海道とよばれ、九州西南部の藩の参勤交代の道路となり、青柳宿場も1700年頃は100軒程度、1800年頃は200軒程度まで増加しました。
1819年の大火で89軒に減少したが、その後150軒程度にもどりました。
たまに外国人が宿泊、休憩することはあっても、海外との交流は全くなかったようです。


(2) 天皇と将軍と幕府

将軍とは正式には征夷大将軍のことで、天皇が任命する軍隊の長官を示す役職名です。
しかし天皇が貴族化し、武家が実質的に政治の指導権をもつようになったときに、 天皇と分離した幕府政治を最初に発想したのは、源頼朝です。

それまでは、武家の平氏は藤原家と同じように、天皇家との婚姻政策で政治の中核に近付いて政権運営をしていました。

西洋では武力革命をしたものが王家となり、政権を獲得してきましたから、頼朝の 幕府政治は世界史上ユニークな政治形態だと評価していいでしょう。

義経などはこの政治形態を理解できずに天皇家に近付いたために、頼朝との溝が深まったと思います。

家康はかねてから頼朝の政治形態を理想モデルとしていたので、征夷大将軍となり江戸に幕府をおいて、天皇家と距離をおいた政治を行いました。

天皇と将軍の2極政治は、外国からみると分りにくく、みかどと将軍の使い分けに苦労した例がいくつも出てきます。多神教的な日本にしてはじめて成立した政治形態といえます。



(3)将軍と対外政策

わが国の歴史教科書には、徳川三代将軍家光の時代に「鎖国令」が出されたと例外なく書かれています。そのために日本は近代化に遅れをとり、明治維新になってやっと西欧諸国に追いつけ追い越せと努力したというのが通説になっています。

しかしこれは歴史の一面であって、他の一面を無視した見方だと思います。ここでは将軍側にたって少し別の一面を考えてみます。

鎖国という言葉を幕府が使用した史実はなく、長崎商館のドイツ人医師ケンペルが、その著書日本誌に「to keep it shut up」と表現したのを、1801年に通詞志筑忠雄が「鎖国」という新語をつくって翻訳したのがはじめです。

幕府の正式文書は寛永十年の令、寛永十六年の令であり、たしかにキリシタン禁止令、海外渡航の禁止令、貿易の国家統制令をだしましたが、将軍には鎖国という言葉がもつ「国を閉ざす」ような閉鎖的意志は全くなかったようです。

将軍の意志は、外国のあやしげな領土侵略をめざす宗教を断固拒絶し、独立国家としての体制を確立した外交政策でありました。拒否した外国とは当時すでに落ち目のポルトガル、スペインで、新興で領土侵略のないオランダとの貿易に制限しますが、その貿易額は寛永時代以後のほうがむしろ増大しているくらいです。

朝鮮の李王朝や沖縄の琉球王朝との交流も再開しており、明国やその後の清国との貿易も継続しています。オランダとの交流には、取り引き商品のほかに、欧州の情報を伝える「オランダ風説書」が重要視され、西洋事情に関する書物の出版点数は江戸時代にはいってから急増していることでもわかるように、決して国を閉ざして、泰平の眠りをむさぼっていたわけではありません。

むしろ鎖国を失政といいだしたのは、右翼的思想家徳富蘇峰で、昭和初期に日本が植民地分割競争に遅れをとったのは鎖国のためで、国家利益の大いなる損失であったという説です。
また戦後に和辻哲郎が、敗戦の原因を科学的精神の欠如として、鎖国が西欧の合理主義的精神の欠如をもたらしたと論評しています。

しかしこれは歴史を無視したイデオロギー論であり、その根底には西欧文明に対する劣等感があります。

将軍は日本の国家安全保証上の観点から交流国の制限はしましたが、世界と断絶するような愚かなことはしていません。中国におけるアヘン戦争のような国際状況を監視しながら、海外進出をしなくても、国内での生産性を高め、金、銀、銅の貨幣素材を国内で自給し、鉄砲を捨てて国内平和をなによりも大切にしてきたことが、徳川300年の平和につながり、現在の敗戦後の日本繁栄の基盤になっていると思います。



(4) 将軍と李朝国交回復

太閤秀吉の死後、将軍家康はなんとか朝鮮国王との国交を回復しようと試みました。
その交渉の任務にあたったのが対馬藩主宗義智です。

秀吉の朝鮮出兵のあとですから、この交渉は当然難航します。3度送った使者は、明の駐留軍にとらえられて北京に送られてしまいます。当時の朝鮮李王朝は中国の明の支配下にありましたから、明の意向が重要な指針になっていました。

4度目の使者がようやく返書をもらって帰国しましたが、講和の条件ととしてまず、俘虜の返還を要求してきたのは当然です。宗藩主は李朝と江戸幕府の間にたって再三の交渉を重ねて、1605年に将軍家康と李朝の使者を伏見で引き合わせて、俘虜3000人を返すことで、交渉は軌道にのりました。

しかし双方の国書の交換段階で、日本側から国書を送って和を請う形式を、体面上幕府は承知しないため、対馬藩の智恵として偽造された国書をおくって、国交再開に漕ぎ着けました。背景には李朝も明の軍隊の横暴に苦しんでいたので、日本との交流を希望していた事情もあったようです。

講和条約が成立以降、朝鮮通信使は1607年から1811年の間に12回にわたり来訪して、江戸幕府で将軍に謁見していることは、日本史で有名です。

通信使は、釜山から大阪まで水路ですすみ、上陸後は陸路で江戸まで東海道をのぼって、将軍に謁見しています。

郷土史上は、その使節の旅程中に「相の島」での宿泊があり、黒田藩がその接待の任にあたっていたので、多くの資料が残されています。

使節団は約500人で、随伴者をいれると千人近い人数となり、一泊から天候次第で九泊の滞在となったので、その接待側の準備も大変でした。

黒田藩の領民とくに漁民は1年まえから準備にかかり、この行事のために費用を蓄積しておき、水夫などの役目のために、日々の生活をすてて動員されました。

しかし航海途上の宿泊であったため、郷土には李朝文化のなごりが殆ど残されていないのは残念です。


(5)ポルトガルとオランダ

ヨーロッパの大航海時代の先端をきって海に出て、戦国時代の末期に日本にやってきたポルトガルとオランダの本国の事情は、かなり異なっていました。

ポルトガルはイベリア半島の西端にあり、背後のスペインが次第に統一されて強国になり、その圧迫をうけました。リスボンのテージュ川河口や郊外のナザレー海岸の白浜にたって一面の大西洋をみると、海に出るほかに発展のみちがなかったことが実感されました。

リスボンの商人は大形貿易で巨大な利益をあげ、王室はその利益を関税を吸い上げて潤った反面では、農業などは荒廃して国民経済は衰退して、やがてスペインの属国化していきます。海にでた男性船員の死亡率はたかく、国に残った女性の悲しみが、ポルトガル独特の「ファド」という哀愁をおびた歌となって残っています。

オランダはライン川河口のデルター地帯に住みついた人々の市民国家的な色彩の強い国で、1581年に独立宣言をしてからその独立が承認されるまでに67年もかかっていますから、1600年に日本に来た頃はまだ正式の国家ではなかったわけです。

ナポレオンなどは1日で平定できると豪語していたくらいの狭くて条件の悪い土地ですから、やはり海にでるほかに発展のみちがなかったことは、ポルトガルと共通しています。

アムステルダムの博物館をのぞいたときに、沢山の古伊万里焼きが展示されているのに驚きましたが、江戸時代の日本とヨーロッパの貿易を殆ど独占していたのですから当然のことだと、あとで納得しました。

ポルトガルの商人は王家とキリスト教会の支援を得て、日本にやってきたので、貿易と同時にキリスト教の布教に熱心でした。やや十字軍的な気概にあふれていて、長崎では、信者となった大村藩主から教会領をもらいうけたり、日本の神社やお寺を焼き払うなどの行為を行いました。

またマカオでは有馬藩の御朱印船とトラブルをおこしてこれを爆破したり、最後には
「島原の乱」の後押しをしたので、完全に日本から追放されます。

オランダは市民国家でありプロテスタントですから、貿易に専念してキリスト教の普及には無関係なことを強調しました。幕府は島原の乱で原城の攻撃を命じて、オランダ船は実際に原城を砲撃しました。これが決定打になって、幕府はオランダとの貿易に決定しました。
司馬遼太郎さんによると、当時はポルトガルを「南蛮」とよび、オランダを「紅毛」とよんでいたそうです。たしかにポルトガル人は紅毛ではなく黒髪に近いほうです。江戸初期には「南蛮流外科」がはやり、やがて「紅毛流外科」の看板に変わったそうです。江戸末期のシーボルトの頃になると、「蘭方医学」となり本格的な近代医学に近付きました。

(6) 貿易港;平戸、横瀬、長崎

織豊時代には、異国船の寄港先を特定する規則はなく、むしろ異国船のほうで港や領主の条件を選んで、交渉していたようです。

ポルトガル船を最初に日本に案内したのは、明末期の中国の貿易首領の「王直」という人物です。王直は薩摩の坊津にも唐人屋敷をもっていたくらいで、平戸にも出入りしていたので、まづポルトガル船を平戸につれてきました。

平戸の領主の松浦氏は、貿易は希望したがキリシタン嫌いで、鉄砲の輸入をするために部下を入信させたりしますが、交渉がなにかとうまくいかずに、ポルトガルは平戸をあきらめて、横瀬に移動します。

横瀬はあまり知られていませんが、西海橋の北西部にある湾で、佐世保湾を小形にしたような港です。領主は大村忠純で、即時に横瀬の開港をゆるし、横瀬浦の土地の半分を、キリシタン領として献上することを約束します。

早速教会ができて、忠純をはじめ多くの受洗者ができて、キリスト教と南蛮貿易の中心地となります。しかし大村藩のなかの反忠純派の後藤貴明を中心とする軍隊が、夜襲をかけて焼き払ってしまったため、横瀬港は約2年あまりで消滅してしまいます。

横瀬をおわれたポルトガル商船隊とイエズス会は、南下して一旦長崎湾の入り口の「福田」を錨港としますが、最終的には一番湾の奥の「深江」(現在の長崎)に上陸します。領主は忠純の家臣の長崎甚左エ門で、二人とも洗礼を受けていましたから、交渉は順調にすすみました。1571年の頃ですが、またまた竜造寺の勢力が攻撃をしかけてきます。

甚左エ門は2度にわたり防戦に成功しますが、忠純はいっそ教会領にしてしまえば、ポルトガル船隊が領土を守るであろうと考え、長崎を寄進してしまいます。

このままであったら、長崎はマカオのようなポルトガル領になっていたかも知れませんが、この頃秀吉の九州統一が進み、長崎の実体を知った秀吉は驚き、早速長崎の教会領をとりけして官領にします。

1600年に来日したオランダは、最初は空家になっていた平戸に入港して、オランダ商館をつくりここを拠点にしました。

秀吉の後を引き継いだ将軍家康は、当初は貿易を自由に行わせていましたが、次第に制限を強化して、長崎に出島をつくってポルトガル人の居住を出島内に制限します。最終的にはポルトガルを追放して、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移動させ、オランダだけを西洋の貿易国としたことは、前にのべた通りです。


(7) 長崎出島 

海外旅行といえば、わたしは今まですべて空港から出国したのですが、昨年はじめて博多港から高速船にのって釜山まで往復しました。 壱岐や対馬の島をながめながら魏志倭人伝のむかしからの航海ルートを楽しみましたが、将軍の時代は当然外国往来はすべて船によるものでした。

ポルトガル船隊が平戸から横瀬を経て長崎に移ったことは前に書きましたが、ポルトガル人も最初は長崎浦の町に居住していました。しかしポルトガルの船員たちが、異国の風俗習慣に慣れないためと、言葉の問題で意志の疎通を欠いだため、往々にして飲酒の上で乱暴狼藉を働くとか、日本女性との間にトラブルを起こすなど、とかく問題が絶えません。

そこで幕府は彼等を一ケ所に居留させて管理する必要があり、またキリシタン取り締まりのためにも、宣教師を閉じ込める効果もあるので、出島という人工島の築造を計画します。これにより出入国の管理と民事のトラブルや密輸禁止などを強化いました。

約2年の期間に、ほぼ4000坪の扇紙形の島を埋め立てて、当時の大形船が横付けできる桟橋と岸壁もできました。この建設にはかなりの費用がかかるため、幕府は民間資本を導入しました。

即ち長崎の有力な商人25人にかなりの出資をさせ、その代償としてポーランド人から居住費用を年間80貫をとることや、貿易上の特恵待遇を与えるなどしました。出島にはカピタン(商館長)や職員、商人、料理人など約20人が居住できる住居と、貿易用の商品倉庫や食品倉庫など、2列の建築物が並んでいました。

商船は7月末から10月初めまで滞在しますが、船員はその間上陸出来ず、船の中で生活させられました。商人たちも出島から上陸するには厳重な規則があり、彼等の表現では「牢獄の出島」といわれていたようです。

やがてポルトガル人が追放されて、出島は空家になってしまいます。多額の先行投資をした長崎商人は困ってしまい、幕府に泣きつきます。そこで幕府は平戸にいたオランダの商館を長崎に移すことにします。

オランダ商館は出島の不自由さを知っていましたから移転をいやがりますが、幕府は無理矢理に移転を強行させます。そのかわりに1年間の居住費用を55貫目に引き下げたようで、これは幕末まで長崎商人の変わらぬ収入となりました。

現在は出島町の地名が残っているだけで、周辺はすっかり埋め立てられています。この記念すべき出島の跡地の周辺に「掘」を復活させて、そのなかに昔の建物を復元しようという長期計画が長崎市ですすんでいます。建物の一部は出来た様ですが、「掘」まで完成するのはまだ10年くらいかかりそうです。



(8) 長崎奉行  

長崎貿易を直接管理するのが長崎奉行で、秀吉が長崎を公領にしたときから設けられました。唐津藩主寺沢広高は名護屋城普請や明との講和条約などに活躍し、秀吉時代に最初の長崎奉行をつとめました。

寺沢は関ヶ原戦では東軍につき天草2万石を加増されますが、長崎奉行には徳川譜代大名の小笠原為宗が任命されます。将軍家康がいかに長崎奉行を重視していたかの現れです。さらに3年後には側近で腹心の長谷川藤広を長崎奉行に命じ、長崎貿易を幕府の直轄事業へと行政管理体制固めをしていきます。

たとえば当時ポルトガル船が運んできた生糸は、関ヶ原戦後の混乱期で殆ど買手がつかないために、まず幕府が必要な量を買い付け、あとは京都、堺、長崎の豪商グループに買い取らせて、他の商品の取り扱い権利を与えたりしました。これがのちの糸割符法のおこりとなりました。

貿易の行政管理には利権がともなうため収賄事件がおこりやすく、またその後のキリシタン禁止令の強化にともなう管理業務もふえたために、長崎奉行は2人制になり、多い時には4人制の時代もありました。

幕府内の組織といては勘定奉行(財務省)と町奉行(警視庁)に属する旗本が任命されることが多く、なかには大目付(総務省)の部下も選ばれています。任期も比較的に短くて、4年前後で交代しています。

遠山景普は、蝦夷、奥州、対馬などの海外防衛の指導で活躍したあと、長崎奉行に任命されて、赴任の路程で古賀市の青柳宿に宿泊した記録があり、最後には勘定奉行(財務大臣)にまでなっています。その子は後に北町奉行となった有名な遠山景元(金四郎)です。したがって長崎奉行は幕府官僚の出世ルートになる要職であったといえます。

(9) 長崎警備

長崎港で外国船の出入りには、いろんなトラブルが起ったので、その警備体制はいろいろの対策が行われました。

警備軍の役目は福岡の黒田藩と佐賀の鍋島藩が1年交代で努めることになっており、当番の年には船30隻と兵士約800人を駐留させることになっていました。

オランダ船が規定の時期に入港してきたときには、まず長崎湾の入口でその艦旗を識別します。旗も毎年変更して事前に定めた旗をかかげていることを確認します。つぎに通訳をなせた船で近付いて、オランダ語で話しかけて、オランダ船かどうかを確認します。さらに乗船人名簿、積み荷目録、オランダ風説書(各年の海外情報報書)、 手紙類などを受け取って、ようやく出島に近付くことを許します。

それでもオランダ以外の船が紛れ込むときがありました。その時は枯れ草を積んだ小舟で取り囲んで、焼き討ちにする戦法をとりました。

イギリス船のときには、船の帆に火がついて燃えおちて、火薬庫が爆発して沈没しています。

ポルトガル船の時には、黒田藩も博多商人の長崎出店の協力をえて、周辺の村のわら屋ごと買い占めて小舟に積んだという記録があります。この時活躍したのが、青柳出身の伊藤小左衛門などで、この功績で黒田忠之から永代50人扶持を与えられました。

また外国船だけでなく、積み荷をねらった盗賊やあの手この手の巧妙な手口で密貿易を営むものも絶えず、その取り締まりも長崎警備の仕事でした。

そのなかに博多商人が絡んだ事件も多く、その代表的なものに伊藤小左衛門の事件があります。真相はいろんな説がありますが、とにかく伊藤家は断絶させられます。

のちに忠之はこの処分は生涯の過ちであったと後悔したということですが、黒田藩にとっても痛手だったようです。

(10) 長崎街道(シュガーロード)

江戸時代には長崎と江戸を結ぶ長崎街道が九州のメインルートとなりました。しかもこのルートは別名シュガーロードといわれています。

当時は砂糖が貴重品であったため、オランダ船はジャワや台湾で仕入れた砂糖を日本へ運びました。これが最大の利益をあげたといわれています。

船は帆船ですから安定のために船底にバラスト(重り)を積みます。最初は石ころを積んでいましたが、ゆれるたびにごろごろと転がるので危険です。そこで砂袋を積むことに変えましたが、これがヒントとなり砂糖袋をつめばバラストと商品の一石二鳥の効果がえられることを思い付いたわけです。

金平糖をオランダ人が将軍に献上したことからはじまって、この砂糖輸入で、日本の和菓子は九州から急速に発達しました。

長崎のカステラ、マルボーロ、小城の羊羹、博多の鶏卵そうめん、近代では佐賀のグリコ、飯塚の千鳥まんじゅうなどなど、砂糖がはこばれた各宿場で和菓子がつくられました。

さらに京都や江戸でも和菓子の発達はすすみましたが、、そのルーツは長崎でした。

(11) 将軍拝謁

オランダ商館長(カピタン)は毎年江戸に参府して、将軍の謁見をうけることになっていました。これに同行できる異国人は数名であり、医師や特殊技能者が主でした。
しかし同行の一行は献上品の運搬人や通訳や護衛の兵士などで、100名くらいになりました。普通の大名行列が60人くらいですから、それよりも豪勢な行列です。ただ前に紹介した朝鮮通信使の500人には及びませんが。

長崎から江戸までは普通の旅程では90日ですが、オランダ行列はあちこちで見物するために、140日も費やした例があります。その間に地形や気温、民衆の風俗や習慣、動植物や薬草まで調査した記録が残っています。

オランダ商館に来た4大学者、カスパル、ケンペル、チュンベル、シーボルトなどはのちに詳細な日本の記録書を出版して、これが欧州人の日本研究の基本になっています。

江戸では将軍に拝謁するとき、通常は簾のなかの将軍に平身低頭するだけでしたが、将軍綱吉だけは、いろいろと諮問をして、西洋の踊りを実演してもらったりしたようです。

松尾芭蕉の句に、「カピタンも つくばはせけり おらが春」と詠んだものがあるようで、元禄時代の将軍の威厳を思わせます。

江戸の街をいくオランダ行列図や、オランダ人専用の宿屋「長崎屋」の浮世絵などがあり、江戸文化の異国情緒を示しています。

(12) 異国情緒

江戸時代も元禄のころになると、すっかり平和が定着して、将軍や大名が独占的に楽しんでいた異国情緒も、一般庶民にまで浸透してきました。

オランダからの輸入品も、生糸や毛織物、更紗などから、象牙、指輪、耳飾り、時計、などの装飾品や遠眼鏡、板ガラス、西洋の遊技品など多種類の製品になり、さらに薬品や外科の医療機械などもふくまれるようになりました。

オランダ商館では毎年正月に、出入りの日本人(通訳、商人、職人など)を招待して、西洋料理を出したそうです。ナイフやスプーンで、一品ごとにお皿が変わる食事形式に皆緊張したそうです。皆が口にする料理はわずかな量で、あとはみんなお皿にいれて持ち帰り、親類縁者におみやげとして渡しました。従って日本で西洋料理が民衆に広まったのは、長崎からということはたしかです。

オランダ船は、北海の四角帆と地中海の三角帆を組み合わせた三本マストの船で、当時ではもっとも性能のすぐれた船でした。こらが異国情緒豊かな宝物を運んでくるのですから、商品もさることながら、船を見物したいという客も沢山いたようです。

蘭船遊覧絵図という絵巻が当時の絵師により書かれており、商人や僧侶までが婦人同伴で船にのって、オランダ船の周辺を巡行している風景が画かれています。

松尾芭蕉も、奥の細道の旅のあとに九州の旅を計画していて、長崎出身の高弟、去来にだした手紙には、大阪から天の橋立をへて長崎にわたり、異国船をみて、不知火、霧島、薩摩潟などを訪ねたいと書いていますから、江戸の旅好きには、異国船見物は欠かせぬツアー内容になっていたようです。

病のため芭蕉の計画は実現しませんでした。去来や支考などの高弟が長崎に集まって、芭蕉を偲ぶ句会を開いています。長崎は江戸時代のハウステンボスだったといえます。

話しはオランダの方にかたよりましたが、藍島(相島)と出島はどちらも扇紙の形をしており、そしてどちらも東洋と西洋の異国情緒を九州経由で日本に持ち込んできたことは共通しています。

幕末になると、米、露、英、仏などの各国が、開国を迫り、明治維新へとなりますが、この話しは尽きないので、ひとまずこの辺でこのシリーズの筆を置きます。



2017年8月19日土曜日

アメリカ空軍の舞台裏

飛行機はアメリカのライト兄弟により開発された。
しかし第2次世界大戦がはじまる1941年当時、アメリカの空軍力は世界で6位だった。
陸軍の組織のなかでは、空軍力はまだ軽視されていた。
ミッチェル将軍だけは、1925年頃から航空戦の時代を予言して、その強化を要求していたが、幹部と衝突して退役処分となった。(終戦後名誉回復された。)
アーノルド将軍

彼の意思を受け継いだアーノルド将軍は、真珠湾戦争をチャンスとして、空軍強化のリーダーとなり、B-17、B-29などを製造し、欧州と太平洋で、空爆の実践をくりかえした。

またアーノルドは空軍を陸軍から独立させようとしたが、すぐには実現せず、ただ指揮権だけは自分のものとした。(空軍独立は終戦後に実現)

空軍の指揮官としてハンセル将軍がえらばれた。

当初は、軍事基地や軍事製造所を目標とした精密爆撃を計画し、ノルデン照準器を開発したが、B-17の5000mでは敵の反撃による被害が大きく、B-29の10000mでは目標的中率が低くて戦果を挙げられなかった。

特に日本上空は偏西風が強く1944年の中島飛行機工場空爆では的中率は2.5%にすぎなかった。

1945年にはいり、幹部の批判が高まる中で、アーノルドはハンセンを引かせ、ルメイ将軍を起用して焼夷弾による都市爆撃への方針転換に踏み切った。

陸軍が11月に本土上陸をきめたので、その前の10月までに180の都市を焼失させて、日本人の戦意を消失させようと計画した。
最初に選んだのは、東京の下町であった。
その後大都市の焼失作戦を展開していった。

4月にムッソリー二やヒットラーの死亡、6月に沖縄陥落後も、日本は降伏せず、7月のポツダム宣言も拒否して、本土決戦の構えを崩さなかった。

そこに原爆開発実験成功のしらせが7月に入ったので、空軍もこれを最後の決め手にしたのである。

2017年8月18日金曜日

古賀・福津の飛行場

私の叔父がパイロットだったので、幼い頃から飛行機には関心があった。学生時代は勤労動員で、雁ノ巣飛行場や福岡(席田)飛行場の整地作業にでかけた。

そして福岡での飛行機の歴史のはじまりは、名島の水上飛行場と思い込んでいたけど、最近になり古賀、福津にも飛行場があったことを認識した。

日本陸軍の航空機採用は、明治43年(1910)の日野・徳川両大尉の代々木練兵場での初飛行よりはじまる。
その後航空機時代の幕開けがはじまり、大正時代より毎年1回の陸軍大演習に、飛行機の航空訓練が加えられた。

1)古賀の飛行場:
九州での初飛行は、大正元年で、大濠城外練兵場で行われた。3万人が見物したという。

大正5年(1916)11月11日から14日にかけて福岡地方で陸軍特別大演習が行われた。
この演習に飛行機を参加させるために、埼玉県所沢から福岡県久留米に四機の飛行機を空輸による長距離移送に成功した。
大演習では、大濠城外練兵場と、古賀町花鶴の仮設飛行場の間で模擬航空戦が行われた。
古賀飛行場の詳細な資料は見当たらないが、いまのJR線沿いの花鶴団地あたりであったようだ。



2)津屋崎の飛行場:
第2次世界大戦の末期に、津屋崎飛行場ができたことは、うすうす知っていた。今年8月の花田勝広さんの講演でその具体的図面が示され、あらためて飛行場の姿をイメージできた。


いまの福岡空港の移転先として、新宮湊沖に海上飛行場が計画されていたが、これは今頓挫している。

西山にヘリの基地があるだけで、福岡東部の飛行場が皆無になっていることは、平穏の徴とみてよいだろう。

2017年8月17日木曜日

終戦記念日前後の記憶

戦後72年の新聞記事で思い出したのは、「対戦車戦闘訓練」のこと。
昭和20年頃の大学生の教練は月1回くらいで、中学や高校のように武器庫もない。11月からの米軍九州上陸作戦に備えて、座布団爆弾を戦車のキャタビラの下に投げこむ自爆訓練。
2mくらいの竹竿のさきに小形座布団をつけて、塹壕のなかからとびだす練習であった。

名簿順ですか?いろは順になりませんか?と秋吉くんがいうと、どちらでも俺は早い順番だと今任くんが最初にとびだしたのを憶えている。みな死を覚悟しての半分遊び感覚の教練であった。

艦載機が上空を飛び交うようになり、町を歩くのも物騒になってきた。出来たばかりの3号線は道幅がひろく、車も殆ど通らない時代だ。のんびり歩いていたら前方にグラマンの機影が見えたと思ったら、いきなり機銃掃射をしてきた。

道路に1m間隔くらいに土煙があがる。あわてて左によけて、難をのがれた。


西戸崎上空で空中戦がはじまり、1機が螺旋状に落ちはじめた。
やったと思ったら、その落下する翼に日の丸が見えた。ゼロ戦のパイロットも、もう初心者ばかりの時代になっていた。

7月26日のポツダム宣言内容が27日の新聞に載った。本土4島が日本として残るという内容は、魅力的だと友人と語ったが、翌日鈴木内閣がこれを拒否したので、がっかりしたと、当時の日記に書いていた。原爆をうける前では、鈴木貫太郎もまだ降伏をいいだせなかったのであろう。

原爆のことは、別のブログにかいたので、ここでは触れない。
https://gfujino1.exblog.jp/9290692/

8月14日になり米軍機がビラをまいた。

日本はポツダム条約を受け入れたという内容で、学生らが助教授に確認しにいったが、勿論推測の話しかきけなかった。

8月15日の終戦玉音放送のあと、西部軍将校が数名大学にきた。みな大学卒OBの将校で、以前にも数回きたことのある顔である。
軍需用備蓄食料を米軍にとられる前に、福岡市民に配給するので、明日の夜手伝ってくれという。17日の夜、板付飛行場近くの倉庫からトラック1台に荷物をつんで、主に博多区の町内会を一晩中、配給してまわったのを覚えている。

ご苦労賃にミルク缶をひとつもらった。

その翌日、工学部講堂で学部長の講話があった。
「原爆によってアメリカに敗れたが、これからの研究で小型原爆をつくり、ひそかに米本土に持ち込んで、ワシントンで仕返しをする覚悟が必要だ。」
退役技術将校の教授の最後のひとことだったが、すぐ退職された。

2017年8月14日月曜日

日本海軍の電波技術と伊藤庸二大佐







太平洋戦争の記録をよむと、日本海軍は電信の暗号を解読され、電探(レーダー)で居場所を計測されて、実戦で次々に敗北し、総司令官山本五十六も戦死している。


この海軍の中で当時誰も目を向けなかった電探の開発に心血を注いだ技術将校がいた。

その人は伊藤庸二大佐で、中川靖造著『海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち』に比較的詳く紹介されている。

経歴の概要。
伊藤庸二(1901~1955)
明治34年(1901)に千葉県御宿に教育家伊藤鬼一郎の長男として生まれる。
大正13年(1924)東京帝国大学工学部を卒業後海軍造兵中尉に任官した。
昭和2年(1927)に海軍より独逸ドレスデン工科大学に留学し、八木秀次博士の勧めでBK振動の発見者であるバルクハウゼン教授に師事し、特殊振動管の研究を行い、工学博士号を取得した。

戦中は海軍技術研究所の技術大佐としてマイクロ波レーダーの開発に携わると共に、マグネトロンの研究に没頭し、大戦末期には海軍技術研究所島田分室で大出力マグネトロン「Z装置(怪力光線)」の開発を指揮した。
(戦後は光電製作所を立ち上げ電波方向探知機の製造を行うと共に、財団法人資料調査会の役員として帝国海軍に関わる資料の保存・研究に尽力した。防衛技術研究所の開設が決まると、その初代所長への就任を要請されたが昭和30年(1955)5月9日に54才で急逝した。
なお、戦前日本無線で当時世界最高出力の水冷式マグネトロンを開発した中島茂は伊藤庸二の実弟である。)

伊藤は電波技術を索敵、攻撃兵器に応用すべきと早くから提唱していた人物で、昭和十五年、遣独軍事視察団に随行した際、実戦配備されていた「ウルツブルグレーダー」を目の当たりにし、その兵器としての威力に衝撃を受けた伊藤は、ウルツブルグレーダーに関する詳細な報告書を作成、艦政本部に提出した。

当初は艦政本部は、そんなものは暗闇に提灯をつけるようなもので、海軍の伝統である奇襲攻撃には向かないと、取り合わなかった。
伊藤は研究所内に伊藤教室をつくり、若手の電波技術教育の充実を行い、さらにバルクハウゼン博士の招聘を行い、ドイツ海軍が夜間でも電波で測距できる装置を開発したらしいという話を聞きだしたたりした。
このような情報活動と、陸軍が電探の研究に着手したこともあり、海軍上層部でも電探技術の重要性が徐々に認識されるようになり、昭和十六年八月、ようやく海軍省は「電波探信儀研究着手」の訓令を発し、九月には伊藤を主任として電探兵器の開発が開始された。
この頃ワシントン駐在の海軍武官が米海軍の装備をよく調べると、おかしなアンテナが各軍艦のマストについていることがわかった。真珠湾攻撃の4ケ月前のことである。

伊藤らは、戦時中は海軍技術研究所電子部にあって、電探の研究開発に全力投球した。
昭和17年4月に米軍機の東京初空襲があったが、房総と三浦半島に設置された電探は、まだ敵機を補足出来なかった。

この年軍艦伊勢と日向につけられた電探は、35Kmの戦艦は検知できたが、航空機は補足出来なかった。
この両艦はアリュ―シャン列島の作戦にでて、濃霧のなかを無事撤退することができた。

さらなる改良研究や量産に消極的だった艦政本部も、米軍がガダルカナル上陸作戦で使用した地形判別マイクロ波装置に驚き、漸く組織改正や予算増強にのりだした。昭和18年5月のことである。

陸上見張り用は、4号機までつくられ、それなりの実績を残した。
船艦装備の見張り電探は、潜水艦、海防艦、駆潜艦に使用された程度で終わった。
対空射撃用電探は英国式を模倣したが、実用化までに至らなかった。

伊藤らは、原爆や殺人光線の開発研究会「Z研究」を立ち上げたが、大風呂敷と批判された。
何とか島田技研の建設と人集めにこぎつけたが、終戦をむかえた。
しかしこれは戦後の復興に役立てられたという。


伊藤大佐は電探の開発で有名だが、米太平洋艦隊所属艦艇の発信電波を解析する算式、『"W"測定』(共同研究者である和智恒蔵大佐の頭文字を取って"W")の考案者の一人である。

この測定理論で、真珠湾作戦に先立って、在ハワイ太平洋艦隊の在伯状況を調査するのに利用され、伊藤大佐の電波伝播研究にも応用されていたという。
幕末から明治維新後に、日本が急速に電信技術を取り入れて、世界のトップレベルになっていたのに、昭和になって遅れをとったのは何故だろうか?

http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2015/08/825.html

2017年8月11日金曜日

玄界灘沿岸の戦争遺跡と本土決戦


花田勝広氏は宗像出身で、奈良大学で考古学を学び、滋賀県野州市教育委員会で 銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に関わり、郷里宗像の田熊石畑遺跡の保存運動にも積極的に参加し、「古代の鉄生産と渡来人」という著書などもある考古学者である。


沖の島の考古学的調査を行ううちに、島に残された戦争遺跡に歓心を持ち始め、2001年に防衛庁の資料公開が始まったのを契機として、玄界灘沿岸の戦争遺跡の調査をはじめたという。
2016年8月に「北部九州の軍事遺跡と本土決戦」という著書をだされ、2017年8月に古賀市の企画講演会でその概要を話された。




詳細なレジメ付きの講演で、私の19,20歳時代の歴史なので、興味深く拝聴した。その要点をわたしなりにまとめておく。





沖縄陥落後の本土決戦は、11月に米国は志布志湾上陸をオリンピック作戦と名付けて計画していた。日本軍部は宮崎海岸、吹上浜、北部九州の3ケ所を想定して、対戦計画をたてた。
私の知人で二人ほど小隊長として宮崎海岸の守備についたが、地元の守備は群馬、栃木の部隊だったようで、一人も知人がいなかった。
上の図の海岸線地帯には旧式の砲台と、塹壕がつくられて、散兵戦的な防備であった。津屋崎から福間、古賀、新宮の間に約14000人の兵士が配備された。
赤色に塗った奥地の宮田町あたりに戦車連隊の基地が設けられ、敵の上陸地点に向かって出撃する作戦であった。
その他、津屋崎飛行場が航空兵養成のためにつくられ、福間の山手には航空補給廠がつくられ、専用鉄道も引かれた。
当時の弾薬倉庫の一部が、今ものこっている。



地元古賀市でも小野小学校付近に通信隊基地、西小学校付近に砲台が設けられた。

しかし終戦とともに、砲台、塹壕、飛行場、建築物などはすべて撤去され、70年以上経過した現在では戦争遺跡として顕著に残っているものは殆どないのが実情だ。
畦町近くの高宮(古城跡)に、地下壕の排気口跡が残っている程度らしい。私も学徒動員で佐世保港の山奥に弾薬庫を掘った体験があるが、いまの姿が気がかりである。


沖ノ島にも砲台2基と弾薬庫、観測所、電信所などが築かれ、250人もの陸海軍兵士が駐屯していた。航空機時代となり、砲台の活躍する機会は全く亡くなり、8月には博多港まで大砲を運び、福間の手光地区に据える予定のときに終戦を迎えた。弾薬は食料補給が途絶えたので、魚を捕獲するために使われ、事故死もあったという。
神宿る神秘の沖ノ島として世界遺産に登録された現在は、戦争遺跡を残してはならない島となった。

2017年8月6日日曜日

出雲(装甲巡洋艦)との絆


現在は「いずも」と平仮名で書いた海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦 があるが、出雲(いずも)は日本海軍装甲巡洋艦で、六六艦隊計画(戦艦6、装甲巡洋艦6)の一艦としてイギリスに発注された。日露戦争第一次世界大戦支那事変に参加し、太平洋戦争で戦没するまでの45年間現役にあった。







古賀市との絆は、いま歴史資料館で展示されている「海からのメッセージ」で、もと石井館長が、海の中道の砂浜で見付けられた小さな杯である。

この杯の外側には、「大正10、11年世界周遊記念、戦艦出雲」と記載され、内側には世界地図が描かれている。

今年展示されたものは、10年以前のものより大分黒ずんだ色に変色していた。

そこで、「出雲」の戦歴や関連のエピソードをまとめてみた。

日露戦争では有名な上村彦之丞提督率いる「上村艦隊」の旗艦として参加し、殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦磐手と共に活躍している。

第一次世界大戦が勃発すると、遣米支隊が編成され、出雲は旗艦としてアメリカ西海岸を防衛する任務に当たった。また、第二特務艦隊の増援部隊として地中海マルタ島に派遣され、中央同盟国潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事した。

戦後、御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた際には大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた。

その後は練習艦として遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。その後の調査で、この周航に乗り組み員として参加されたかたが、古賀市にもおられたという。
杯のなかには前述のように世界地図が画かれおり、太平洋、アメリカ、パナマ、大西洋、イギリス、地中海、スエズ、インド洋、東南アジア経由の周航記念を示しており、隊員に配布された
記念杯の一つが、海の中道に漂着していたことになる。

支那事変に際しては第三艦隊旗艦として上海に派遣された。1937年に発生した第二次上海事変では、上海に停泊していた出雲が8月14日に中華民国軍爆撃機の攻撃を受けたが、軽巡洋艦川内と共に撃退している。同月16日には中国魚雷艇の攻撃を受けたが幸いにも無傷で済んだ。

1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日米が開戦したこの日に出雲は、上海で米国の砲艦「ウェーク」を拿捕、投降を拒否した英国の砲艦「ペテレル」を撃沈している。

当時のことを、西日本新聞に芥川賞作家林京子さんがエッセイで掲載された。
太平洋戦争開戦当時、上海の女学校に通っていた京子さんが、英会話で人気のあった英国人の先生と、この日を限りに別れた記憶の話である。昭和16年12月8日上海の守備についていた軍艦「出雲」を旗艦とする日本海軍は、降伏勧告をうけいれなかった英艦ペテレルを撃沈し、日英が敵対国になったためである。

エッセイでは上海で英艦を砲撃したのは「出雲」と思っていたが、その後の調査で、国産の駆逐艦「蓮」ということがわかったと林さんは書いている。英国製の「出雲」が英艦を撃沈したのでなかったのはせめてものすくいであると、林さんは思ったらしい。

(林さんは長崎市出身で、誕生の翌年、父(三井物産社員)の勤務地・上海に移住して育ち、昭和20年に帰国し、長崎高等女学校に編入学。同年8月9日、市内大橋にある三菱兵器工場に学徒動員中、被爆した。爆心地に近かったが奇跡的に助かった。)

戦争末期には、出雲に対空火器が増設されたが戦闘に出ることはなく瀬戸内海で練習艦として運用された。
1945年7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。小用港沖で戦没した戦艦「榛名」、姉妹艦「磐手」も同じく呉軍港で撃破されている。
広島県江田島市には、「出雲、榛名」合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。

NHKテレビので、この呉空襲をおこなったB-24爆撃機の1機で、撃墜された操縦士のなかの生存者が紹介されたのには驚いた。
機長だった彼は、その直後の広島の惨状を見せつけられ、東京まで移送されて尋問をうけるが、終戦となり解放されている。帰国後は農学部の教授になって活躍していた。

2017年8月2日水曜日

最澄・空海と縁のある花鶴川の三角洲


古賀市を流れる川は、大根川、谷山川、青柳川の三つが合流して、花鶴川となり、玄界灘に流れ込む。

花鶴川は最澄和尚が帰国した時、嵐のためこの川口に上陸した謂われがあり、河口の銅像がたっている。



この中でもっとも大きな川は大根川で、ダイコンガワと呼んでいる。

地形・地名の本によると、明治33年測図では、この川は清滝から流れくだり、薦野を過ぎると見えなくなり、熊鶴(現在の高速道路付近)で再び水路を形づくってながれていた。
米多比(ネタビ)あたりでは、河川としての明瞭な河床がなく、砂地と草原の混在した土手のない川原の状態だったようだ。
現在でも下流の久保地区では伏流水が湧き出て、水田に利用されている場所が2ヶ所ほどある。
http://blogs.yahoo.co.jp/gfujino1/18835132.html

地名のネは、山根や尾根を現すことが多く、ここでは尾根からの流れを尾根(オネ)と呼び、文字が大根(オオネ)に転じて、いつしか「だいこん」と呼ばれるようになったらしい。

弘法大師が近くの畑にいた農民に「大根」を所望したが、わけてやらなかったので、大師が怒って川のながれを止めたという伝説があるが、古賀市民には厳しい話だ。川沿いに銅像が建てられている。



近くには小野(オノ)の地名もあり、 米多もオネに近い田で、比は樋すなわち小さな水流を示す地名である。

この流域には須賀神社が、米多比、筵内、新原の3ヶ処にある。スカは砂地であり大根川のように土手のない河では氾濫であちこちに砂地が出来やすい。氾濫を治めるための祈願をこめた神社だったと思われる。
 

またこの神社に近くには、渓雲寺、浄土寺がそろっているから、このあたりに集落があったこともはっきりしている。

新原には別に宇多宮があり、ウタ、ムタは地形学では泥沼のことだから、やはり同じような地形だったことがわかる。少し下流の庄には綿津見神社があり、これは海神だから、この近くまで海岸がせまっていた証拠となる。

弘法大師が川の流れをとめたという伝説も、自然の変化で水流が変わったことから出来た伝説話であろう。


この地質から、地下水の一部が海岸近くで、千鳥池や、中川のような小規模な川となって現れる。

昭和28年6月には、大根川が氾濫して、流域に大水害が発生した。この復旧工事費用の負担問題から、古賀、筵内、小野の合併が促進されたという。

花鶴川は、大根川、谷山川、青柳川の3川が合流した川である。
谷山川は、谷山地区の農地を経由し、青柳川は久山町から小竹、青柳の農地を経由して、合流点以後は谷山川となる。
合流地点付近が錯綜しているので、地図では川の名前が間違っているものがある。


一つの調査方法として、橋の名前から川の名前を判断できると思う。そこで次の図のように橋の名前を記入してみた。

これで合流点(落合)から下流が花鶴川であり、その上流は大根川と谷山川ということがわかった。



花鶴川の河口に近い大根川には、大きな三角州がある。
古賀市役所の裏手にあるこの三角州は、正式名称は上屋敷という小字名である。

大正時代の地図にはないので、昭和になって水流改善のためバイパスがつくられ、三角州になったらしい。

古賀ふるさと見分けの会の環境活動で、この地区の整備計画がはじまっている。

大根川と谷山川の合流点にできた三角州なので、周辺には落合という小字名があり、三角州に渡る橋は落合橋であるが、上屋敷との境界などははっきり調べないとわからない。
私のすむマンションは、落合北2組である。
一部の突き出た三角洲の場所は、象の鼻とよばれている。



今まで市の埋蔵文化担当者が、古墳調査や花鶴浦の遺跡調査を行ったが、この周辺から埋蔵物は何も見つからなかったそうだ。

上屋敷という名前から、一時的に屋敷が存在していたのかも知れないが、洪水で水没しやすい場所だから、その後なくなったのであろう。10年前くらいの地図に小規模の建物があった記録があるが、現在は存在しない。

先日、市役所の3Fから眺めてみたら、三角地帯の周辺は堤で囲まれており、中はきれいな水田で青々と稲の穂がみのっていた。
古賀市は昨年7月この地区の河川整備要望書を県に提出し、県は「郷土の水辺事業」のなかで、何が出来るかをコンサルタント会社に調査をさせているいるところだという。


定例的な堤防の草刈や、河川清掃の助成金とは別で、また東屋やベンチなどの設置は対象外という。さてなにが出来るのだろう。

過去には、福岡県が平成7年に糟屋・宗像地区河川環境管理協議会を組織して河川環境の現状調査を行った記録があるが、その時には上屋敷地区については何もとりあげられていなかった。
古賀ふるさと見分けの会も、環境活動に助成金を出しそうな団体をしらべて、今後の活動を模索中という。(H22)


平成29年7月には、その工事の一部が、上の写真のように実施されたようだ。

古賀市役所近くの庄橋には水位局が置かれ、その情報を県河川防災情報で常時公開している。





2017年8月1日火曜日

オリンピック作戦

オリンピック作戦とは、米軍が沖縄攻略後に、九州南部への上陸を行う作戦の名前である。
目的は関東上陸作戦であるコロネット作戦のための飛行場確保であった。
作戦予定日はXデーと呼称され、1945年11月1日が予定されていた。
海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻、
400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。
陸上部隊は14個師団の参加が予定されていたという。
もし原爆がなく、日本が本土決戦を行っていたら、どの時点で白旗をあげていただろうか?