2021年12月31日金曜日

会稽東冶は何処?(倭人伝)

倭人伝の記事は、句読点も、改行もない。



また旅程を前半は里で表し、後半は日程であらわしている。



当時の倭人は里数で距離を計ることを知らず、日数で計っていたという記録もある。

だから情報源は、中国側と倭国側の表現が入り混じっていて、旅程の計算を正確なものと考えて、足し算することはできない。

そのため、14行めは、狗奴国の説明が続いているのか、邪馬台国の位置が、会稽冶の東か?と変わったのか、迷う人が多いようだが、文脈から考えると、前者のようである。

帯方郡から、対馬国、一支国、九州北部の伊都国、奴国などリレー式に里で説明してきて、急に本土の会稽などからの方向を示す必要はない。

女王國に至る万二千余里の文章につづけて、男子の顔への入れ墨の説明になる。
狗奴国の倭人の話である。中国では、華北は儒教の影響で、入れ墨は希だが、華南、華中の海岸地帯は、越人の影響で入れ墨の風習があった。越人と倭人を同一人種とみていたので、この記事がはいったらしい。

その後に、「その道里をはかるとまさに会稽東冶の東にある」の文章である。

「当在会稽東之冶東」

文脈からいうと、「その」は狗奴国をさしているとみるのが自然であろう。
会稽は浙江省の地名で、紹興市は越都のあった土地であり、郊外には故事で名高い会稽山がある。


太宰府天満宮にある国宝の文献「翰苑」には、会稽の東と表現されており、倭人伝には会稽東冶の東と表現されている。陳寿は、意図的に会稽より少し南よりに意識して表現したようだ。

考古学者の森浩一氏、人類学者の大林太良氏、作家の司馬遼太郎氏などが現地をおとずれて、出土品や、入れ墨文化や、土地風土の調査をして、倭人伝の記述の裏付けをされている。





魏志倭人伝の記述。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽東の東に在るべし。」

文脈上、会稽東の「会稽」と、少康の子が封じられた「会稽」とは、同一なのは当然だろう。
夏王朝の第6代帝の少康、その庶子である無余は、会稽に封じられ、呉越同舟の「越」の始祖となった。つまり…「会稽」とは越都のあった会稽のはずです。
越の首都は「会稽」、現在の浙江省紹興市である。この会稽こそ、倭人伝の言う「会稽東」である。

NHKテレビの邪馬台国サミットでは、福建省福州市(東県)の東を邪馬台国とする誤った説を紹介していた。


邪馬台国サミットの図


魏志倭人伝には「邪馬台国は会稽東治の東」と事もなげに記されている。
私は不思議に思う、全行程万ニ千里と共に、学者は何故これを言わないのか、と。
中国の江蘇省に会稽東治と言う土地がある。
揚子江の河口で、紹興酒の産地に近い。

これは、漢代と魏のこの時代、政治的安定の元での、東シナ海の豊かな交流を意味している。
邪馬台国が会稽東治の東だと言う事は、これらを踏まえなければあり得ない。
魏志倭人伝に現れる魏の官吏は、人跡未踏の南極大陸に行ったのではなく、逞しい民間交流の足跡をなぞっただけ、という事なのだ。
従って本来の魏志倭人伝には「不彌国(博多)からは六百里で投馬国(吉野ケ里)、七百里で邪馬台国(熊本)、帯方群から合計万ニ千里」と書いてあった、筈である。
西晋の陳寿が三国志を書いた280年に、この事を疑う者はいなかった。
ところがその後五湖十六国と南北朝の混乱時代に入り、東シナ海の交流が絶え、「邪馬台国は会稽東治の東」の常識が実感から消え、文献上だけの存在になった。

困った事に、福建省に会稽東冶と言う似た地名がある。
さんずいとにすいの、点一つの違いで、誠に紛らわしい。
その会稽東冶は福建省なのでぐっと下り、その東は熊本ではなく、距離的には沖縄辺りになる。
決定的だったのは、432年に後漢書を書いた宋の范曄がその中で、「邪馬台国は会稽東冶の東」としてしまったのだ。
勿論彼も悩んだと思うが、既に実感は失われ実証不可能であり、机の上だけで考えた結果だ。
いずれにせよこれが国の、公式見解になってしまった。
そうすると本来の魏志倭人伝の「不彌国から六百里で投馬国、七百里で邪馬台国」ではとても「会稽東冶」まで届かない
仕方なく、魏志倭人伝をいじらなければならなくなった
それでその里程、六百里を水行二十日、七百里を水行十日陸行一月として、水増しした。
(西晋の陳寿が280年に三国志を書き、宋の范曄が432年に後漢書を書いた、と言う事を忘れてはならぬ。)
王朝は後漢の後が魏なのに、正史は三国志が先に出来て後漢書が後に書かれ、逆転している。
五湖十六国と南北朝の混乱が、ここにもある。
まして「邪馬台国は会稽東治の東」か「会稽東冶の東」かなど分からなくなって当然、そもそもその間150年に亘り、二十個ほどの王朝に跨っている。


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「山本直純音楽記念室」種子島

 今日のテレビで作曲家山本直純の一代記をみた。

とくに種子島の熊毛郡南種子町に、山本直純さん(66)=東京都世田谷区在住=が贈った音楽資料約2000点を集めた「山本直純音楽記念室」があるのを初めて知った。



その昔、ロケット打ち上げ基地見学に行った頃は何もなかった。

近年、同町花峰小児童らが作詞したトンミーフェスティバルのテーマソング「夢の船ドラメルタン号」の作曲を無償で引き受け、トンミー(友達)大使に任命されたのをきっかけに、山本さんが音楽活動の資料約2000点を同町にそっくり寄贈したそうだ。

展示されているのは、作曲に使ったピアノや木琴、山本さんが作曲した「ママが歌う歌」や、皇后陛下が作詞し同じ作曲家の正美夫人が作曲した「ねむの木の子もり歌」の手書き楽譜、録音テープ、書籍など千数百点。山本さんの作曲生活がわかるように2室分けて展示している。

地縁も血縁もない種子島に、記念室ができた由来をきいて、69歳でなくなる直前だったことが一つの要因だろうと感じた。

2021年12月29日水曜日

年の瀬

 年の瀬がせまり、お節料理の準備で忙しい家庭が多いと思う。

来春米寿を迎えるわが家の家内は、数年まえからお節は外注で済ませているし、おせち料理の語源を聞いても??。
春夏秋冬の節句(節供)のなかで、年の瀬は節季とよぶ。
子供の頃は「節季に候」という物乞いの一種が、方々の家をまわって、来るべき年を祝い、歌い、かつ踊って、米銭をもらっていた。
怠け者のセッキばたらき という言葉が出来たり、
節季の風邪は買うてもひけ という怠けものもいた。
節季倒しは薬礼になる という諺もあり、一年の集金や支払いで無事に年の瀬を越せるか否かが大問題だった。
家内は風邪を買わずに、貰ってきたらしく、節季倒れしている。(2018)

中国の大黄山(芸術を育む10億年の岩)

 大黄山は、ユーラシア大陸に、インド大陸と太平洋プレートが押し合ってできた断層地形で、奇峰、怪石が多い。


黄山の名は伝説上の王、
黄帝がこの山で不老不死の霊薬を飲み、仙人になったという言い伝えに基づいている。

秦の時代には黟山(いざん)と称されていたが、唐の時代には現在の黄山の名前に改められた。

峰と雲が織り成す風景は、まさに仙人が住む世界「仙境」と言われている。多くの文人が憧れ、水墨画漢詩などの題材となった。


黄山に立ち並ぶ山々は
古生代にできたもので、氷河や風雨による岩石の浸食が1億年にわたって繰り返され、現在のような断崖絶壁の景観ができあがった。






冬に見られる雲海


から流れ込む湿った空気が海抜1000m以上の峰々に漂い、大量のを発生させている。


四季による風景の変化が大きい

三主峰と呼ばれる蓮花峰、光明頂、天都峰があり、その他69の峰がある。


そして、荒涼とした風景を彩る「黄山は、岩の割れ目に根を張り、強い生命力を持つとして、尊ばれている。

以上の怪石、雲海、奇松に温泉を加え、「黄山の四絶」と称された。このことから、「天下の名勝、黄山に集まる」と言われ、古代から中国の人々が黄山の美しさを「天下第一」と称えている。

幾多のスポットには、その独特の発想で名前が付けられた。

この名声に憧れて多数の文人が訪れ、水墨画漢詩などの題材となった。

東山魁夷は、黄山を「充実した無の世界。あらゆる山水画の技法が、そこから生まれたことが分かる」と評している。


東山魁夷「黄山雨過」


平山郁夫「神峰黄山雲海図」

中国人の精神的な拠り所となってきた黄山の周辺には、道教仏教の修行の場として、多くの寺院が建てられている。

文房四宝(硯・墨・筆・紙)

多くの画家が集まり、黄山派とよばれる画風も成立した。地元の岩石からとれる硯、黄山松から作る墨、地元産の筆や紙の文房四宝が有名である。



黄山の北に位置する九華山は、97の寺院が集まる地蔵菩薩信仰の総本山で、黄山で修行した僧侶が開いたと言われ、その僧侶が地蔵菩薩の化身であったとの言い伝えから、この地が聖山となった。