2011年9月22日木曜日

戦国筑紫の女将たち(2) 龍造寺慶誾尼

龍造寺氏と鍋島氏は姻戚関係であった。
龍造寺周家の妻慶誾尼は、自分の嫡子隆信がひ弱な性格であることと、夫の姉の子鍋島直茂が優れた資質であることを見抜いて、直茂の父清房との再婚をもちかけて、両家を一体化させて、隆信と直茂を兄弟関係にした。
その後、大友軍の攻撃をうけたとき、直茂は本陣に夜襲をかけて宗麟の弟である親貞を討取る大手柄(今山の戦い)をたて、龍造寺・鍋島は、大友・島津に次ぐ九州の三大勢力となった。
島原半島の有馬が造寺に離反したので、隆信が自ら島原を攻撃したが、背後の島津家久に敗れて56歳で戦死した。肥満が原因だったといわれる。
隆信の嫡男政家は島津に融和的だったが、鍋島直茂は早くから豊臣秀吉と誼を通じて、九州平定にを促進した。
秀吉は一旦旧領を政家に安堵したが、3年後には政家を隠居させ、朝鮮出兵には鍋島直茂に龍造寺家臣団を率いさせた。
慶誾尼の見抜いた資質は秀吉が評価したとおりであった。

2011年9月21日水曜日

 立花宗茂と誾千代(更新)

 戦国期の九州勇将で、筑前立花城主をつとめ、後に筑後柳川藩主となった立花宗茂は、永禄十年の8月18日生まれ。
 大友宗麟の臣・吉弘鎮理(しげまさ・後の高橋紹運)の長男として豊後国東郡・筧城(大分県豊後高田市)に生まれた。幼名千熊丸、通称は弥七郎。成人して統虎と名乗り、後に宗茂と改める。(以下宗茂で統一)。官職は左近将監のち飛騨守。 

立花宗茂
 宗茂の祖父・吉弘鑑理は大友家中で豊州三老の一人として知られる重臣だが、大友氏は天正六年(1578)十一月の日向耳川の戦いで島津氏に大敗して以来、凋落の一途をたどり、父鎮理は二十二歳の時に筑紫の名族高橋氏を嗣ぎ、高橋主膳兵衛鎮種と名乗り、後の入道号である紹運の名で広く知られている。
 当時、斜陽の大友家にあって柱石と目されたのは立花城主の道雪(戸次鑑連)と高橋紹運であった。

立花山城
 ところが道雪には男子がなかったため、紹運に一人娘の誾千代の婿養子にぜひ宗茂をと求める。誾千代は永禄十二年の8月13日生まれで二歳年下。
 紹運は長男を養子に出すことを悩むが、大友家を思う道雪の真摯な心に打たれて承諾した。
戸次道雪
 ここに宗茂は戸次道雪と高橋紹運という二人の名将を父に持ち、その薫陶を受けて育った。
誾千代
 誾千代は夫が出陣して不在のときは城代をつとめ、侍女たちまで具足をつけさせて城を守ったという女丈夫であった。
島津軍北上
 道雪の死亡のあと、九州制覇をめざして島津軍が北上し、実父高橋紹運の岩屋城に猛攻を加えて陥落し、さらに立花城を取り囲んだ。
 しかし宗茂夫妻軍の硬い抵抗にあって苦戦しているうちに、豊臣軍の応援軍が筑紫に上陸した。
 あわてた島津軍は博多の街に火をかけて、退散してしまった。
秀吉は立花宗茂の働きを認め、大友傘下の立花城主から、独立した筑後柳川城主の大名に抜擢した。
柳川城
 しかし正室の誾千代は、父から受け継いだ立花城を失ったことから不和が生じ、城外の宮永館に別居していた。宗茂が京女を寵愛したとか、秀吉と誾千代との間に不義があったなど、後世の伝記などにでているが、同時代の史料には皆無である。
 宗茂は秀吉に仕え、各地の戦や朝鮮出兵でも活躍して、九州の勇将の名を轟かせた。

 秀吉の死後も、豊臣側に忠誠をすくし、関ヶ原の戦では西軍についたので、その留守中、鍋島軍の攻撃に対し城を守り抜いたのは、誾千代の力であった。
 その後東軍に加藤清正、黒田如水が加わったので、帰国していた宗成は、ついに降伏して開城した。
 宗成は浪々の身となるが、立花家中は清正の領国に身をよせるものが多かった。
 誾千代は、長洲町腹赤の阿弥陀寺に寓居していたが、2年後34歳で病死したという。井戸に身をなげたという説もある。

 宗成の勇猛さと誠実さが評価されていたので、秀忠に再採用され、のちに柳川城主に復活をとげた。
 大阪冬、夏の陣や島原の乱では、徳川軍としてその勇将ぶりを発揮している。
 地元では、立花宗茂を主役とした大河ドラマの実現を願う運動がはじまっている。





2011年9月16日金曜日

関ヶ原の決戦(9月15日)のIF

9月15日は関ヶ原の決戦で、ほぼ1日で決着がついた。
黒田如水は1ヶ月と予想していたようだし、大半の大名も同様の思いだったろう。
歴史に IF はないというが、 その可能性はおおいにあったはずである。

歴史愛好家の推理を並べてみると面白い。
「上杉軍が西上する家康軍の背後を襲っていたら」
「織田秀信が野戦などせずに岐阜城に篭城していたら」
「大津城があと2,3日早く落城していたら」
「西軍主力部隊が大垣城から夜討ちを家康にかけていたら」
「毛利輝元が大阪城から出陣していたら」
「茶々と秀頼が西軍支援を鮮明にして資金援助をしていたら」
「本戦で、小早川秀秋が裏切り行動をしなければ」
こられの可能性の一つでも実現していたら、勝敗が逆転していた可能性はある。
愛好家はさらにその先まで推理してしまう。
一進一退だった戦況が、秀秋が西軍側にたって山をおり、西軍有利となれば、つぎのような展開となった筈である。
○島津軍が西軍に加わり、南宮山の毛利、長宗我部、長束なども西軍について行動をおこす。
○東軍は挟み撃ちとなり、家康も戦場離脱ができずに、討ち死にか捕虜になったかも。
○秀忠軍は健在だが、東軍からの裏切りがでて、武者狩りにあった可能性もある。
○茶々や秀頼、さらには朝廷も、家康追討の命令をだしただろう。
○上杉、佐々木も本格的に関東に攻め入る。
○伊達、最上も形式的に徳川についていたから、寝返って本領安堵をはかっただろう。
○前田も母の人質問題はあるが、もはや徳川のためには動かない。

さらに戦後の領地まで推理してしまう歴史愛好家もいる。
○もし徳川家康が生きていれば、大幅に減封のうえ、秀忠に相続させる話が、北政所や茶々の主導で出ていたであろう。駿河、三河あたりか、もっと遠くの東北か九州に移されたかもしれない。
○関ヶ原にいた武将たち、福島正則、黒田長政などはA級戦犯だから、戦場で生き延びたとしても、命はないだろう。
○浅野幸長のように、北政所というコネがあれば命はなんとか助かりそうだ。
○遠隔地にいた武将達で、加藤清正、黒田如水などは、結果をきいてからあわてて東軍の大名を攻撃し、生き延びたかもしれない。
○生駒親正、立花宗茂のように西軍に兵をだしていれば本領安堵や加増の可能性が大きいが、蜂須賀家政のように逃げていたものは、改易か大幅減封はさけられない。

あとは西軍の勝利組の処遇であるが、一般的には五割増しの石高がめやすである。
○最高殊勲者の小早川秀秋は、羽柴家にもどり秀頼の指南役となり、秀頼が成人するまで関白職についたはずである。これは三成が生前に誘っていた構想である。
○毛利は丁度輝元に実子が産まれ、廃嫡された秀元の独立問題がおこっていたから、小早川旧領の筑前を与えれば丸くおさまるし、さらに伊予や豊前あたりを加増されたかもしれない。
○上杉は関東の徳川領を引きうけるのに最適である。関東では武蔵、上野、鎌倉周辺だ。会津には未練はないが、佐渡の金山に近い春日山周辺と関東に通じる回廊地帯は確保したいところだ。
○佐竹義宜は会津復帰と常陸との回廊、堀秀治は越後から出て、米沢あたりにおさまり現状維持だろう。
○前田は結果を知って寝返っていれば、利長から利政に家督を譲って現状維持か少しの減封でおさまるだろう。
○西軍についても活躍はしていない織田家の秀信は岐阜城を維持されるくらいで、信雄も清洲城をとりもどすくらいだろう。
(九州・四国)
○島津は日向全域と肥後南部くらいは獲得できたはずである。
○鍋島は竜造寺とのややこしい関係を断ち切るため、佐賀をはなれて関東に進出すれば、おおきな道がひらけ、その後に小西行長が佐賀に入り肥前をキリシタン王国にしたかも。
○立花宗茂は、加藤清正の熊本城を獲得し、島津のおさえとして君臨しただろう。
○大友は豊後を取り戻せたか、あるいは貢献度が少ないので半分かもしれない。
○長宗我部は伊予か阿波の一部の加増となっただろう。
(東国)
○真田昌幸は高い評価をされれば、信濃か甲斐か相模の大名になった可能性がある。
○大谷、丹羽、宮部、長束なども加増組である。
○三成や兼重は、自分の加増はほどほどに抑えて、反感をかわないようにしたであろう。島左近らを独立大名にするため、東軍についた筒井家のあとにはめ込み、実をとるような人事をしたであろう。


三成や兼重になったような気分で、勝手な人事を考えるのも、歴史愛好家の楽しみである。

2011年9月5日月曜日

平清盛と筑紫(改訂)

平家は正盛、忠盛、清盛と3代にわたて、西国瀬戸内海地区の岡山、四国、広島などの国司をつとめた。

忠盛の時代には筑紫神崎の国司も兼務し清盛の時代には清盛は筑紫の大宰大弐の役職についた。
平治の乱のとき、九州の兵力を援軍としてこれをおさめ、直後に肥前の日向太郎の謀反には、家人の平家貞を派遣して平定した。
筑紫の重要性を知っていた清盛は、府高官が現地に赴任しない習慣をやぶるため、弟の頼盛を大宰大弐にして現地に赴任させた。
そして色んな名目で、平家の家領をひろげ、有力寺社との連携を深めていった。
当時は海外との通商、特に日宋貿易のスタイルを清盛流に変更して、宋朝との国書の贈答を行い、宋人は福原で後白河法皇との会見をし、高倉天皇は宋船に乗って厳島詣でをするなどの行事をはじめた。
宋船の出入りする湊は、博多の袖の湊と福原の経ヶ島といわれている。
築港の技術に共通点が多いからだ。
貿易の利で、太政大臣にまで上り詰めた清盛は、独断的な権勢欲を押しとおしたため、鹿ヶ谷事件などがおこった。

清盛の長男重盛は父の権勢欲を抑えることにつとめたが、病に倒れて死亡する。
清盛は法皇を鳥羽院に幽閉するなどの暴挙にでたため、以任王の挙兵となり、源氏諸国の挙兵に連鎖していく。
福原(神戸)にいた清盛は筑紫への逃避を考えて、2回ほど大宰府まででかけるが、かって筑紫でひろげていた平家の家領の武士達も離れてしまって、ついに逃亡をあきらめる。
このころ脳卒中といわれる急病に倒れ、あっけなく死亡する。
天平3年(731年閏2月4日のことである。その後5年で平家は滅亡する。
清盛にとって筑紫は、幻の宝島であった。

2011年9月1日木曜日

源頼朝と筑紫支配(改訂)

鎌倉幕府を成立し、天下統一に成功した頼朝だが、若い頃はそんな野望をもっていなかった。


伊豆に幽閉されていた頼朝が、成人の年齢になって最初に目論んだ行動は、地元の豪族の娘と縁をむすんで、その婿養子になることであった。
豪族の主が、オオバンで京都にのぼり留守のあいだに、その娘といい仲になり子供をつくることからはじめた。
その一番手は、伊東祐親の娘「八重」で、千鶴という子供をもけたが、帰郷した祐親が怒って子供を川に投げ込み、八重を菲山の江間小四郎(北条義時の幼名)に嫁がせてしまった。恐れた頼朝は伊東家に近づかなくなり、つぎの獲物をねらった。
二番手が北条時政の娘「政子」である。時政もオオバンで京都にのぼっていたが、帰郷したとき政子が頼朝のもとえ逃げたのを黙認した。

丁度この時期、以仁王・源頼政の挙兵がおこり、これに応じて頼朝も挙兵して、伊豆目代山木兼隆を倒した。
石橋山の戦いでは、伊東祐親は頼朝軍を背後から攻め敗走させたが、北条時政は動かなかった。

その後形勢が逆転して、足利、北条など各地の源氏軍が頼朝のもとへ集結したので、祐親は平家の頼朝追悼軍(維盛軍)に合流しようとするが、途中で頼朝軍に捕らえられた。娘婿・三浦義澄の奔走もあり、頼朝も過去の因縁もあるので命だけはたすけた。
娘八重の嫁ぎ先は北条義時であるから、頼朝としては、政子の兄弟の嫁とも関係したことになり、複雑だったのだろう。(別人説もある)
しかし祐親は、これまでの自分を悔い恥じて自ら切腹して死んだ。
(のちの仇討ちで有名な曽我兄弟十郎・五郎は祐親のの孫であるから、頼朝が自分が狙われたものと疑ったのも仕方が無いことだ。)

すこし前置きが長くなったが、現実路線思考の頼朝は、維盛軍が富士川の水鳥の音に驚いて敗走したあと、自分の軍を鎌倉に引き戻して、後追いを甲斐源氏の軍にまかせた。自分では関東平野を統治することを第一の目標にしていたからだ。

この頃頼朝は昔のように、源氏と平家で天下を分担して治めることを考えていたようだ。
しかし平家側で清盛の死あと、急激に統率力がなくなり、木曽義仲が京都に攻め込んで平家が逃げ出したときには、朝廷や安徳天皇に危害を加えないように繰り返し司令をだしている。彼の考えでは長期戦で平家軍が講和を持ち込んでくるのを待つことであった。
そのあと後白河法王の命で、義経が連続的に奇襲攻撃をしかけて、急速に平家を追い詰めて壇ノ浦で全滅させてしまい、安徳天皇を死なせてしまった。

結果的には筑紫の地まで、頼朝政権のもと属すことになったが、彼の頭には筑紫よりも北陸の地の平定が先にあり、平泉の攻略に勢力をあげた。

筑紫には朝廷直属の大宰府があり、当初は頼朝も大宰府に遠慮して平家側武家の統治だけを弟の範頼に命じたが、問題が多発した。

そこで範頼をよびもどし、かわりに中原久経と藤原国平を派遣して地ならしをし、鎮西奉行職をもうけて、腹心の天野遠景を任命した。
次第に大宰府の権限を取り込んでいくが、天野の武断政治のいきすぎが多く問題となった。

そこで全国に守護を配するときに、武藤資頼と中原親能の二人制として、筑前・豊前・肥前と筑後・豊後・肥後の守護を担当させた。少しあとに島津忠久を南部の大隈・薩摩・日向の守護に命じ、九州の御家人統率体制が出来上がった。

さらに武藤資頼を大宰少弐に任命することに成功し、公武二本立てだった九州支配が、鎌倉幕府側の支配下になった。
このように頼朝の九州支配は一歩一歩慎重に進められていったことがわかる。

武藤の子孫は少弐を世襲し、それが氏名となって戦国時代まで続いている。また中原の氏名は大友にかわり、九州は三人衆少弐(武藤)・大友・島津が割拠する武家の時代となった。