2018年10月29日月曜日

九州王朝諸説2

[筑紫君薩野馬=鏡王(天武天皇兄)説]

 ・この説は、以前(10年前)、「二中歴の検証・九州年号と九州の政権主催者(兼川晋)」(古代史論文集「倭国とは何か」収録)を読んで、初めて知った説である。
 浅学の小生には難解だが、次のようにまとめたらよいものか。

 ・660年庚申、筑紫物部系の政権主権者が、百済の滅亡を聞いたとき、質として手元に置いていた百済の王子・豊彰を送り込み、三軍を組織して百済の再興を支援した。
 この主権者について、古田説は筑紫君薩野馬の名を挙げているが、筑紫君が筑紫物部の主権者の別称であれば、筑紫君薩野馬は「鏡王」と考えられる。
 なお、天武=大海人皇子は、白雉四年(653)に皇弟と表記されているから、このときの主権者鏡王の弟だったことになる。

 ・百済滅亡の翌661年に「白鳳」と改元したのは、九州の主権者の地位にあった「鏡王」であり、白村江の戦いを主導したのは「鏡王」だった可能性が強い。
 斉明天皇と中大兄皇子は、鏡王に徴発されてしぶしぶ二万の兵を吉備で調達し九州まで船団を進め、朝倉にて、唐から帰国した伊吉博徳から帰朝報告を聞く。

 ・白雉元年壬子(652)~9年(660)が鏡王の時世だが、鏡王は、660年百済が破れたので、翌661年の年号を「白鳳」と改元して、ひとまず都を九州から近江に遷し、663 年10月白村江に出陣した。(同書は、662年8月と記す)。

 ・しかし、白村江の敗戦後、鏡王は戦死の可能性が強かったので、近江に遷っていた伊勢王が同所で即位、白鳳元年(661)~11年癸未(671)が伊勢王の時世となる。
 白村江での敗戦後、伊勢王や大海人皇子ら九州政権者と吉備政権者の天智天皇との抗争が続いたが、668年2月近江で天智天皇が即位し、一応抗争に決着が着いた。
 
 ・671年伊勢王、天智天皇が相次いで死亡し、翌672年7月大海人皇子(天武天皇)による壬申の乱が起きた。これは、九州政権主権者の逆襲ともいえる
 671年末か672年正月頃、唐から帰国した筑紫君薩野馬=鏡王がこの乱に加ったかどうかの記述はない。

 ・なお、同書によると、壬申の乱に貢献した高市皇子は、695年(文化元年乙未)即位し「高市天皇」となり、696年7月に崩じた。また、持統天皇は皇太后でその即位はなかった
のではないかとしている。

e. 筑紫君とは倭国王のこと

 ・日本書紀は、筑紫君を火君、宗像君、水沼君などと同じような次元でとらえているが、筑紫君薩野馬の「筑紫君」は、後から付けられた称号のような気もし、実際は「倭国王(倭王)」であった。

 ・筑紫君の名を取って「筑紫王朝」という人たちも多いが、「筑紫王朝」というと単に筑前・筑後国にあった王朝と捉えられそうになる。もともとの「筑紫」は「九州全土」を指す言葉、即ち「筑紫=九州」であり、「筑紫王朝」で問題はないが、どちらかというと古田武彦が称えた「九州王朝」の名称の方が分かりやすい。

 この「九州王朝」が、本来の「倭国」であり、「筑紫君薩野馬」は、その「最後の倭国王」なので、その意味では、もとは「倭王薩野馬」と呼ばれていたのではないかとも思う。

 なお、「倭王・筑紫君薩野馬」の名は、白村江の戦いの総大将であったと考えられるが、日本書紀にその名が出てくるのは、ただ一か所、捕虜となっていた唐から解放されて帰国するときのみで、日本の歴史からはほぼ抹消されている。

 ・因みに宗像君は倭国に属していたと考えられるので、沖ノ島で4~7世紀に行われた国家祭祀は、ヤマトではなく倭国のものであり、倭国の滅亡とともに途絶えたのである。4世紀にヤマト国があったのかも疑わしい。
 因みに、旧唐書にヤマト(日本)が出てくるのは、663年の白村江の戦いより後の長安3年(703)年粟田真人の遣唐使入朝であり、言い換えればその年にヤマトは、唐に認められる「国家」になったことになる。

大伴部博麻呂



[大伴部博麻(おおともべのはかま)の顕彰碑]

 ・この大伴部博麻の石碑(自然石)が、次の二ヵ所に建っている。

 ① 「大伴部博麻呂碑」 文久3年(1863)7月15日、室園神社神職小川柳、北川内村庄屋木下甚助ほか建立。(銘文なし)。
 ※石碑前の門柱…右柱に「尊朝愛国」(そんちょうあいこく):左柱に「売身輪忠」(ばいしんゆちゅう)の刻がある。
  北川内公園頂上西部の一隅(福岡県八女市上陽町北川内寄口)

 ② 「大伴部博麻之碑」 明治25年(1892)11月建立。(銘文なし)
  久留米城址・篠山神社境内(福岡県久留米市篠山町)
 ・大伴部博麻の碑が、①八女市上陽町にあるのは、同地が博麻の出身地(上陽咩郡)で、唐から帰還後、同地で亡くなったとの伝承があるからだ。
また、②久留米城址にあるのは、上陽町が、藩政時代には久留米領内であったことと関係があるようだ。
 両碑建立の時代には、大伴部博麻は「郷土の偉人」としてよく知られ尊敬されていた。また、それ故に銘文を刻する必要もなかったのかもしれない。

 ・特に、上記①上陽町の碑前の門柱にある「尊朝愛国・売身輪忠」は、持統天皇が庶民に賜った日本初の勅言で、大伴部博麻は、忠君愛国教育が行われていた戦時中までは、朝廷を尊び、主君のためには自らの身を売ってでも主君に忠義を全うする忠君愛国・憂国の士としてよく知られており、国の鏡にあやかるべく、碑前にて合掌する人たちも多かったという。
 ・大伴部博麻が帰国したときは、白村江の戦いから27年後で、既に時代が変わり、倭国(九州王朝)は滅亡し、先に帰国した筑紫君薩野馬(筑紫君薩夜麻)は死亡(?)、天智天皇(死亡)、天武天皇(死亡)の時代も終わった後の女帝・持統天皇(天智天皇の娘・天武天皇妻)の時世であったが、成り行き上、一兵士でありながらヤマト朝廷(日本国)に奉じた愛国忠君・憂国の士として喧伝・祭りあげられたのだろう。



 

2018年10月26日金曜日

邪馬台国論の解明は?(平原遺跡、岩戸山古墳など)


魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地をめぐって、江戸時代より多くの議論がでているが、決定的な結論は不明のまま迷宮入りしている。

その理由を考えてみよう。

1)魏志倭人伝の記述が曖昧である。

壱岐国からの旅程で、地名や距離や方位の記事が曖昧で、現地の地形と対比するのが困難だ。

著者が直接旅行したのでなく、読み聞きした内容らしく、また行きと帰りの行程が変わることもあるので、余計に曖昧になったと考えられる。最初の末盧国も、松浦から宗像や遠賀川まで幅ひろく考えられる。

2)日本の文献が少ない。

記紀は数百年あとに書かれた記録で、そのなかに邪馬台国の記載がなく、類似の人名や場所も存在しない。類推の議論が主になっている。


3)考古学的な解明が不足している。

古墳や鏡や刀剣や土器や衣類や集落遺跡など多岐にわたり議論されているが、エジプト考古学のように、文字などの決定的裏付けになるものがなく、時代判定も変化が大きく、混沌としている。

4)研究者の主観がはいりやすい。

京都大学派は畿内説が多く、東京大学派・その他は九州説が多い。九州説も具体的候補地が多くまとまりにくい。

H.23のデータでは、
甘木・朝倉131;博多湾沿岸102;吉野ヶ里86;
八女市矢部村84;西都原62;宇佐56;大宰府49
などが上位である。 

時代による変遷:


1)江戸時代は、新井白石が初期に大和説を出すが、晩年に九州説に変更し、山門郡を想定。皇室に配慮して、地元豪族が朝貢したとする。本居宣長も国学的な大義名分論にもとづき、魏志倭人伝など中国の史書は非なること多しとする。

2)日露戦争後は、内藤虎次郎(京大)が、東は南のあやまりとして畿内大和説と提起し、白鳥庫吉(東大)は行程の総計12000里に着目し、九州説で肥後と想定した。


3)大正時代には、梅原末治らが考古学的遺物・遺跡から畿内説をだし、津田左右吉や和辻哲郎らは、記紀批判や民族学的に畿内説を展開した。

4)敗戦後は天皇制の解放で、邪馬台国の位置付けが自由になり、部族国家の認識が広まった。

昭和22年に榎一雄が行程が直列でなく伊都国以後は並列と解読する案をだした。考古学から小林行雄が同范鏡論で畿内説を唱えた。その後、考古学主導の畿内説と、文献解釈の九州説の対立が続いた。






5)専門家以外に、松本清張の「古代史疑」や宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」など、学界の外からの参加が多くなった。宮崎は盲目のため、音読による地名の判断を強調した。

6)昭和40年頃からの列島改造で土地開発がすすみ、各地で考古学的出土品が増えて、近畿説が強まったが、九州でも吉野ヶ里などの大型遺跡が見つかった。アマチャーの邪馬台国論参加がブームとなり、個人出版本も多くなった。

地域おこしの行事に、卑弥呼が引用されることも、増えてきた。
最近では、山田地区を邪馬台国と想定し、山田サービスエリアの近くの長田大塚古墳を卑弥呼の墓とする説が浮上している。



私の変遷:

1)学生時代

旧制中学の歴史の教師が森貞次郎先生で、自宅が近くだったので自宅に遊びに行き、考古学の面白味も教わった。(邪馬台国論の具体的な話はなかった。)

九大の鏡山教授が遠縁で、古墳調査の苦労などの話を聞いたことがあるが、当時は邪馬台国など知らなかった。

2)壮年時代

昭和40年代初期に、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」が出版され、これを森繁久弥が演劇化したのを観て興味をもった。

昭和50年代なかばに、職場の観光旅行で糸島の平原遺跡や糸島町の資料館を見学し、邪馬台国の可能性を感じた。原田大六さんの本を購入し、調べはじめた。資料館もまだプレハブの小屋で、王墓も木枠の露出じょうたいだった。




{国宝}福岡県平原方形周溝墓出土品
・銅鏡 40面分
・玉類 一括
・鉄素環頭大刀 1口
・附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

その後王墓は公園化され、九産大神田学長の書による石碑が建てられた。







この頃九州産業大学の教授になられた森貞次郎先生の「北部九州の古代文化」が出版された。伊都国で魏志倭人伝に
ふれているだけで、邪馬台国の想定はされていない。
東古墳は双円墳で、主体部は失われていたが十六人を埋めたと思われる殉死溝をとどめていたという。古代の殉葬とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬこと、殉死させたうえで葬ることを殉葬というらしい。邪馬台国の女王「卑弥呼」が死去し塚を築いた際に約100人の奴婢が殉葬されたと魏志倭人伝に掲載されているが、平原遺跡は殉死者16人では人間の数は違いすぎる。三世紀頃の遺跡で、時期は卑弥呼が亡くなった時期とほぼ一緒だ。
昭和60年代になると、邪馬台国関連の本や講演会などが急増した。
古田武彦、山田宗睦、松本清張、千田稔、武光誠、安本美典、森浩一、神西秀憲、岡本健一などの本を購入し乱読した。



西日本新聞の記事



吉野ヶ里の発掘調査時代に2回現地見学にいき、公園完成後3回でかけて、視察した。



北部九州地区の古墳の見学旅行にはあちこちと参加した。

平塚川添遺跡の見学にもでかけた。

また奈良の飛鳥地区や平城京地区にも2回ほど観光視察にでかけた。


(3)高齢時代

平成になると、正規の職業を退職し、自由時間が増えたので、福岡市周辺での講演会に多数でかけた。埋蔵文化センターでのシリーズは1年間通った。
聴講した講師名は、西谷、小田、奥野、高島、生野、平野、西川、柳田、荒金、森、松木、渋谷、石合氏ら多数である。

市のネット仲間の会で、自己流の邪馬台国論を話したこともあ
る。

邪馬台国の旁国名やその人口数などの研究もすすみ、各種の統計的なデータによる議論も増えてきた。


また外交の対象国も魏国だけでなく、後漢、呉、半島の諸国との問題も論議されている。




『魏志倭人伝』には「景初二年六月、倭女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝貢せしめんことを求む。
太守劉夏、吏を遣わし、将に送りて京都(洛陽)に詣らしむ」
と記されている。

現在は高齢のため出かけることが困難で、もっぱらネット情報で学んでいる。

これだけ膨大な情報がありながら、決定的な結論が得られないでいる邪馬台国論

私個人の考えでは、九州人の我田引水が半分あるが、白鳥説が合理的で九州説に魅力がある。

「倭人伝」では、帯方郡から邪馬台国への行程を方向と距離(里)で記載して、総計すると、一万二千余里としている。不弥国までの累計が一万七百里だから、あと千三百里で邪馬台国につくから、邪馬台国は九州の範囲としたのが、白鳥庫吉の説である。
しかし本文の記載には、不弥国の後に次の文がある。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
なぜ急に距離でなく日数「水行十日陸行一月」で記載したかを解説した著書は少ない。
私の知る限りでは、古田武彦氏と生野真好氏が、距離と方向で記載するのは、場所を明記するためで、日数で記載するのは、全部に要する旅費(軍事費)を計算するためでだと書いている。松本清張は魏の使者が行った事がない場所と考えている。
これを距離に換算して加算すると、邪馬台国は沖縄のはるか南の海の中になり、誤りだ。
生野氏は 水行十日陸行一月は、女王国から洛陽までの日数だとし、古田氏は朝鮮半島を陸行した場合を加算しているという。私は帯方郡から邪馬台国までの一万二千余里の日数と思っていた。最近では、奥野正雄氏が私と同じ考えで、吉野ケ里を邪馬台国とする著書を出された。
文章の流れからいうと、すこし飛躍があるが、論理的には正しいような気がする。九州説の論者はよく研究してみる必要がある。

世界的にみて古代文明は大河の沿岸から始まるので、九州説では筑後川沿岸が最有力だと思う。


前述のように甘木・朝倉を比定する人が多いが、エジプトでの発掘調査をみていると、遺跡の下から古い遺跡が見つかることも多いので、古代豪族磐井氏の祖先がいた地区で、八女市や矢部村周辺、岩戸山古墳周辺の下に埋もれているのではないかと思っているが、確証はない。



九州古代史研究会で議論されている、筑紫王と豊前王の分類にも興味があるが、2~3世紀では区分がはっきり無かったと思える。

残る手段は、金印の発掘があるか、AIにデーター入力して判断してもらうかが解決策であろう。




2018年10月24日水曜日

岩村高俊

岩村高俊
長岡藩家老河井継之助との折衝を拒否した悪役として有名だが、佐賀の乱の火付け役や、福岡の県令までしていたようだ。愛媛県での行政は好評のようだが、福岡県ではなにをしたのか?
土佐幡多郡に生れる。藩校の文武館で蘭学砲術を学ぶ。
慶応3年(1867年)9月に通俊鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。直前に同郷の坂本龍馬中岡慎太郎近江屋で暗殺されると、暗殺者と噂された紀伊藩三浦休太郎陸奥陽之助らと共に襲撃した(天満屋事件)。
その後、鷲尾隆聚高野山出兵に参加している。


戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。

北越戦争では山道軍を率いて越後国の長岡に迫り、小千谷慈眼寺にて長岡藩家老河井継之助と会談する。
だが、「会津藩を説得する」という河井の嘆願を「時間稼ぎであろう」と全く聞く耳を持たず交渉は決裂、結果として長岡藩は新政府軍の敵に回って激戦が行なわれた。
明治2年(1869年)には戊辰戦争の功で永世禄高200石を得た。

維新後、有栖川宮家令、宇都宮県神奈川県の権参事を務めた後、明治7年(1874年)1月に佐賀県権令となり、内務卿・大久保利通の内意を受けて江藤新平を盟主とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。
乱の後は内務省に移り、大久保の随員として井上毅らとともに清国を訪れている。
同年11月には江木康直の後任として愛媛県へ赴任。明治13年(1880年)まで権令を務め、地租改正や民会施策などを実施。
以後は内務省の大書記官、石川愛知福岡広島の県令や知事を歴任、明治25年(1892年)に貴族院議員となり、明治29年(1896年)6月5日には男爵に叙された。 

晩年は京都市一条堀川に住み、議会開催中のみ上京していた。長男の岩村透が男爵位を継いでいる。


人格的評価については、毀誉褒貶様々な意見がある。

戊辰戦争期の評価

北越戦争時に、山縣有朋が小千谷の新政府軍本営に着いた際、岩村は贅沢な朝食を地元の娘に給仕させており、激怒した山縣は土足のままその膳を蹴り上げたという。長州人の岩村への評価は「キョロマ」であり、木戸孝允も同様の評価をしている。 キョロマというのは倨倣で無思慮な行動家、という意味の長州言葉。

長岡藩家老河井継之助は、本気で中立論を展開し、山縣有朋か黒田清隆との会談を希望していたが、岩村はこれを一蹴している。
後年自伝では「途中で従うようになった信州各藩の家老は平凡な人材ばかりで、河井についても経歴・人物を知らなかったため、時間稼ぎをしているだけだと思った」と述懐している。 そもそも、長岡藩の他の家老達は新政府への恭順派が多く、出奔した者すらいた。また、長岡藩は意地になって潰さねばならぬほどの規模ではない小藩であった。この岩村の熟慮を欠いた判断が、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなった。その結果、北越戦争における新政府軍の想定外の大損害、一度陥落させた城を奪われるという失態という記録となる。

たられば、の話ではあるが、河井と山縣或いは黒田清隆との会談が実現していれば、北越戦争そのものを避けられた可能性がある。会津藩への講和交渉を引き受けるとまで提案した河井に対し、一切の交渉の機会を与えなかったというのは、一軍の将として狭量とする意見もある。しかしながら内部の意見統一もできていなかった長岡藩の、他藩との折衝実績の無い家老の河井に列藩同盟との調停が可能であったかは疑問の残るところである。

行政家としての評価

佐賀県権令としても、ドナルド・キーンの「無能で横柄な岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」との厳しい評がある。キーンの『明治天皇』によれば、岩村は佐賀藩島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやったとしている。もっとも木戸孝允は、この人選は大久保利通の佐賀を決起に追い込むための策略(すなわち岩村の性格ならば、必ずや佐賀士族を侮辱し憤らさせるような事態を起こすであろうことを見越したもの)であると看破し、後に大久保に対する人格批判への根拠として久米邦武に洩らしている。

後に赴任した愛媛県では、積極的に旧藩士を登用し「民権県令・平民長官」などと呼ばれた。末広鉄腸は当時の功績・人望を高く評価している。


2018年10月23日火曜日

仁徳天皇陵古墳(改訂)

その昔、外部より観光したことのある仁徳天皇陵古墳です。
このような巨大古墳が築かれたのは、周辺に巨大な農地が開拓されたことの証明で、周囲を取り囲む池は、古墳の山崩れを防ぐためだったと考えられています。

今回、宮内庁は地元堺市と共同で、第1堤の発掘調査を行うこととなりました。被葬者は仁徳天皇と治定されていますが、世界遺産登録には学術的裏付けが必要でしょう。

新しい発掘でなにか解ればいいですね。まだ調査結果の詳細は発表されていないけれど、平成30年の歴史ニュース第1位になっています。




仁徳天皇陵は、クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓、5世紀中ごろ築造とされ全長約486mの日本最大の前方後円墳です。


上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。


日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。その場所は、伊勢神宮と淡路海峡をむすぶ一直線上にあり、応神天皇陵もこの線上に並んでいます。


前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。その時の出土品には葺石と埴輪があり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土しています。
昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になっています。

明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。
出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。
日本最大の前方後円墳にふさわしく、墳丘は3段に築成され三重の濠がめぐり、10基以上の陪塚があります


仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっています。






2018年10月22日月曜日

義弟の高層マンション「ネクサス」と田舎の別荘

義弟のマンションは百道浜、福岡タワーの近くにあるネクサスの21F。
これを撮った多くの写真が、フェイスブックにのっているので、集めてみた。
















愛宕山から


















義弟の新築の別荘を見物しに出掛けた。完成して1年近く経過しているので、庭の芝生もそろい、我が家から移植した苗木も育って、落ち着いた住宅になっていた。

彼は会社経営者で、本拠地は、浦安、百道浜、シンガポールの高層マンションを渡り歩いているが、やはり土地付き、庭付きの住居が最高らしい。