2017年7月24日月曜日

八幡空襲と成都

B29の飛行隊
八幡空襲(やはたくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1944年6月16日未明、アメリカ陸軍航空軍戦略爆撃機B-29が中国の陸上基地(成都)を拠点として行った初めての日本本土空襲

この年の9月から11月まで、八幡で学徒動員の労働をすることになっていた私達には、この空襲は大きな衝撃であり、また動員中に被爆現場をみたりしているので、強く記憶に残っている。
しかし、当時は作戦内容の詳細を知らずにいたので、記録を調べてまとめてみた。



1943年11月のカイロ会談において、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトイギリス首相ウィンストン・チャーチル中華民国国民政府主席蒋介石にマッターホーン計画を提示、計画への協力を要請した。

この中でルーズベルトは蒋介石に対して、B-29を実戦配備するために、1944年3月末までに成都周辺の飛行場建設を完成させるよう要請した。


要請を受けた中国は、翌月の1943年12月、以下の飛行場建設のための工事計画を推進した。

成都近郊に4カ所所の爆撃機基地-新津、邛崍(きょうらい)、彭山(ほうざん)、広漢を建設:
また成都ほか5カ所に戦闘機出撃基地を建設。
1944年4月、飛行場建設工事はほぼ完成し、4月24日、インドのカラグプールを発った2機のB-29がはじめて中国に飛んだ。成都の広漢飛行場に2機のB-29が着陸すると、まだ工事の最中であった何万人もの中国農民は歓呼をもってこれを迎えた。

米軍側は1944年5月、インドに進出した第20爆撃集団は、ケネス・ウォルフ准将の指揮の下、日本空襲のため様々な準備を開始した。真っ先に取り掛かったのは中国基地への燃料の備蓄である。

中国前進基地までの燃料等の補給は第20爆撃集団の輸送機とB-29自身で行う必要があった。しかしながら、この方法で中国~日本往復の1機分の燃料と備品を備蓄するにはインド~中国間を12往復する必要があり、またヒマラヤを越えての兵站行動となることから効率が悪く、作戦開始に十分な燃料を備蓄するには当初の予測以上の時間がかかった。


爆撃目標には、成都から2600kmの距離にある九州北部の工業都市八幡市が選ばれた。これは、第20航空軍司令部が1944年4月1日に下した、日本の鉄鋼業及びコークス製造業の壊滅を戦略爆撃の最優先目的とする決断に拠るものである。

八幡市内の官営八幡製鐵所は、当時日本全体の圧延鋼の24%を生産するなど、日本の鉄鋼業において最も重要な施設であり、3つのコークス炉があったが、そのうち最も大きな東田のコークス炉がB-29爆撃の第一目標となった。

なお空襲は夜間行うこととし、燃料節約のためB-29各機は編隊を組まず個々に爆撃をすることとした。

6月15日16時16分、B-29は基地から離陸を開始した。第58爆撃航空団のラベーヌ・サンダース准将が作戦指揮をとった。
出撃75機のうちR・E・ヒューズ大尉の指揮する1機は離陸直後に墜落し、更に4機が機械トラブルのため基地に引き返しているが、残り70機は
隠岐諸島を経由して一路九州八幡を目指した。

第58爆撃航空団の4部隊は、それぞれ2機のB-29を先行させ、その後ろを飛行する航法をとった。この航法は、先行機が他機の飛行目標となり、またその作りだす気流に乗って燃料を節約するためであり、イギリス空軍欧州戦線で採用したものである。

爆撃隊は中国の日本陸軍および陸軍航空軍によって察知された。「爆撃機が九州北部へ向かっており真夜中に現地に到着する」との報告は日本陸軍第19飛行団にも伝えられた。その後、済州島のレーダー基地と監視所は現地時間の23:31から00:30にかけて爆撃機を捕捉した。

空襲警報は00:24に発令され、その3分後には飛行第4戦隊の24機の「屠龍」戦闘機が北九州上空警戒のため離陸した。第59戦隊は、夜間作戦において第4戦隊と夜間戦闘の共同訓練をしておらず、運用する機体「飛燕」には機械的問題があり、また出撃することで芦屋飛行場を発見され、逆に攻撃することも恐れられたため緊急発進を見合わせた。

6月16日00時38分、B-2947機が八幡上空に到達しおよそ2時間にも及ぶ爆撃を開始した。だが市街地には既に
灯火管制が敷かれており、さらにこの晩は街全体がに覆い隠されていたため、爆撃目標を視認できたのはたったの15機であった。残り32機はレーダー照準爆撃を行った。


B29の残りの部隊は中国の日本基地や日本本土の長崎、大村などの基地を空爆している。

八幡製鐵所の被害は極僅かであったが、爆撃は北九州5都市(八幡、小倉戸畑門司若松)におよび、270名以上が犠牲となった。なお、米軍側報告では作戦中の事故により5機のB-29が損失、2機が日本軍機により撃墜とされた。これに対し、日本側報告では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機、日本側被弾機1機と報じられた
爆撃目標とした八幡製鐵所コークス炉への命中弾はなく、空襲自体は不首尾に終わった。

のちに小説家となった城山三郎は、当時通信兵として中国大陸にいたので、米軍の無線を傍受して、成都周辺の基地の名前などをすべて覚えていたという。


しかし同日サイパン島に米海軍の上陸を許したこともあり(サイパン島の戦い)、大本営は八幡空襲の報に衝撃を受けた。

一方でアメリカや中国ではこの空襲の成果が大々的に報道された。作戦中B-29の収集した情報によって日本本土の
防空体制の脆弱さが明らかとなり、その後の大規模な本土空襲の発端ともなった。

空襲後の中国基地への帰還飛行は概ね良好であった。1機がエンジン不調のため中国河南省の内郷飛行場に着陸したところ日本軍機の機銃掃射を受け破壊された。他帰還中に2機が墜落し搭乗員全員と同乗のニューズウィーク誌記者が死亡している

この空襲でのアメリカ側の総損害はB-29を7機損失、さらに6機を敵対空砲火で損傷し、搭乗員57名とジャーナリスト1名が死亡している。なお空襲から数日の間、多数のB-29が燃料不足のため中国内に足止めを余儀なくされ、ウォルフ准将が第312飛行隊から57,000リットルの燃料を借りることでようやくインドに戻ることができた。

この数日間は燃料がほとんど無く航空機の出撃がほぼ不可能であり、日本軍の報復攻撃に対して非常に脆弱な状態であったが、日本軍は何の攻撃もしなかった

なお八幡市は、1944年8月20日に中国から飛来したB-29によって2度目の空襲を受けている。さらに翌1945年8月8日の3度目の空襲ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸 死傷者は約2,500人 という 壊滅的な被害を市街地は被った。
それにしても米国は、日本軍占領下の中国大陸の奥地に飛行場をつくり、ヒマラヤ越えで機体と燃料を運ぶという膨大な出費と犠牲の多い計画を遂行し、半年後にはサイパンからの空爆に切り替えてしまった。資源と経済力の大きさを思いしらされる。
成都の諸葛孔明の廟
その基地となった成都は、かって蜀の国の首都で、諸葛孔明の廟などのある古都であることは知っていたが、空軍基地があった場所とは、はじめてわかった。
11月から12月にかけて近くの重慶に滞在したことがあるが、ヒマラヤの影響で秋、冬は濃霧に覆われ、晴れ間が殆どない地区で、当時の航空技術では、事故も多かったと思われる。

2017年7月22日土曜日

棟方志功の捨身飼虎の柵

捨身飼虎の柵
テレビ番組で、昭和の偉人伝の一人に棟方志功がえらばれ、その一代記が放送された。
安川カレンダーとの縁で若いころからその名は知っていたし、作品展の資料や作品集もてもとにあり、また一度棟方ご夫婦と夕食を共にしたこともあるので、放送内容はほぼ既知のことであった。
ただ晩年の作品である「捨身飼虎の柵」については、単に仏教の教えを描かれたものと思っていた。
しかし番組では、若いころから虎の絵を描くように父親から言われていたのに、なかなか書くことがなかった志功さんが、ようやく仏教と虎の因縁をみつけて、亡くなる1年前の昭和49年度の日展に出品した作品だと紹介していた

捨身飼虎図で有名なのは法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図である。菩薩本生鬘論等に出てくるお話で、お釈迦様は前世で薩埵王子だったとき、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げ与えて虎の命を救った、という。
玉虫厨子の捨身飼虎図

これは自己犠牲の精神を説いたものと思われているが、これは一見「弱肉強食」と見えるこの世界を、真理の目で見たら逆になるということを説いているとも思える。
食物連鎖は厳然として宇宙の始まり以来続いる。これをどう考えるかで、寅年生まれの私は飼虎の恩恵もうけている。
食べる側は「弱肉強食」だが食べられる側は「捨身飼虎」である。食べる人間は「虎」で、食べられる動植物たちは「薩埵王子」である。

われわれも日々犠牲となっている生物の「捨身飼虎」時の「願心」を汲み取らなければならない。そして日々犠牲となっている生物の「捨身飼虎」時の「願心」をくみ取ることができれば即座にこの世が浄土となるということである。


藤の字のつく名前

NHKで「日本人のおなまえ」シリーズをやっている。
藤の字のつくなまえの放送日は、朝倉・日田地区の大水害のニュースで延期されたが、その後ネットで調べたり、再放送をみたりすると、下記のような内容だった。

藤原鎌足は天皇中心の社会を確立した功労者で、大化の改新の中心人物である。藤原鎌足は亡くなった時に天皇から「藤原」という名前を賜った。
番組では藤のつく名前のルーツは、鎌足たったひとりからスタートしたというが、これは極論だ。
当時藤原京も作られたし、藤の花の紫色は、古来から高貴な人の色とされ、源氏物語や栄華物語では、人物の名前や衣装の色にとりあげられている。さらに藤は「不死」と書いて長寿を願う祝いの意味もあった。また若芽は食用に、実は漢方薬に、蔦は強力なロープとして橋に使われた。

鎌足が亡くなり350年後の公卿補任を見ると、28名のうち23名が藤原だった。
鎌足の息子、藤原不比等は、自分の娘を天皇に嫁がせ、その娘が生んだ息子に、自分の別の奥さんとの間に生まれた娘と結婚させた。こうして平安の中期には藤原のブランド力は最高潮に達した。
さらに百人一首は藤原定家が百人の歌を選んだものが、100首のうち34首が藤原一族がよんだもの。百人一首の研究科の吉海直人さんは「藤原氏がたくさん入っている事を気がついた人は今までいないような気がする」などと話した。

こうして藤原という名前が平安京に増えすぎた。あまり身分の高くなれなかった藤原でも身分を高くする方法が地方に行くことだった。
自分たちのルーツはこの国というようなことを自分の名字にし始めた。
加藤のルーツは加賀(地名)と藤原を合わせ加藤になったという。
伊勢に行った藤原は、伊藤になった。近江に行った藤原は、近藤になった。などなど。
内藤の内は「内舎人」。舎人は偉い人に使える召使、内がつくのは天皇の身近に仕える秘書だという。内藤は職業プラス藤原だった。
藤(ふじ)ではなくトウと呼んだ理由は、氏、姓を中国風に1字で音読みするのが流行した。

さらに都にいる藤原も名前を変えることになった。
「九条」「近衛」「二条」などの名前に変えた。九条や二条は平安京の中の地名。近衛は現在の東京でいうと麹町や永田町。都の大事な地名を名前にすることで藤原サマの関係だと分かるようにした。
時代が下がると、藤井や藤田など、藤原と関係の薄い名字も次第に増加していったという。
私のもっている姓名総覧では、藤の字の姓名で、人口の多い順位は、藤井、藤原、藤田、藤本、藤野の順になっている。
その他:藤江、藤枝、藤尾、藤岡、藤川、藤木、藤倉、藤崎、藤沢、藤島、藤代、藤城、藤谷、藤波、藤沼、藤林、藤平、藤間、藤巻、藤村、藤森、藤山などが挙げられている。
わたしの知人には、藤永、藤吉などもいた。
また私と同姓同名の人もいるが、有名人に藤本義一がいて、ときおり間違えの手紙がきた。

最近の漫画ブームで、藤の家紋が有名になった。

藤が地名になった例として小学校をしらべてみた。
藤原小学校は、岩手宮古・福島いわき・群馬みなかみ・三重いなべ・大分日出と、5校ある。
藤野小学校は、相模原・岡山和気・札幌市の3校ある。
藤原氏は多くの有名人を輩出したが、藤野氏は無に近い。 その差はあまりに大きい。

天然の藤の大木が沢山あるのは、奈良の春日大社で、日本人が古代から藤の花を愛したことは確実なことのようだ。

2017年7月20日木曜日

糸島原田氏の末裔

糸島原田氏の末裔

幕末の会津藩家老に原田対馬種龍と言う人物がいます。
山川大蔵と共に会津戦争を戦い抜きましたが、敗戦後斗南移住をめぐって山川と対立しついに権大参事の職を解かれてしまいました。
その山川の弟がかつての領地で九大総長になろうとは、因縁深いものを感じます。
他の一族にも朱雀隊隊長原田主馬種英、白虎隊の生き残り原田伊織克吉などがいます。

2017年7月19日水曜日

京都御所

京都の祇園祭りに関連して、京都御所のテレビ番組をみた。
特に天皇の住所である内裏は最初の場所から、現在の御所まで、下の図の範囲で多くの場所を変遷した歴史に驚いた。

平安遷都延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。

現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。
南北朝時代14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって明治2年(1869年)、明治天皇東京行幸時まで存続した

御所や内裏の近くに、武士政権の探題や屋敷や城が次々に建設され、朝廷も安住の地がなかった。

2017年7月18日火曜日

船原古墳の馬具と周辺の牧場

古賀市の船原古墳のそばから出土した装飾馬具一式が国指定の史跡になった。
周辺には、馬の放牧を行った牧場や、訓練を行った馬場があったはずだ。
牧場の候補の一つが福津市の渡半島であったという説がある。
渡半島は現在は橋が出来たが、かつては「牧の入り口」が唯一の進入口であった。
「旧入り海」と書いているように、現在の周辺の田畑や市街地は海の中であった。
馬を飼うのにはこのような島や半島が最適だ。
馬を走らせるには広い敷地が必要だし、全部を柵では囲めないので、半島というのは最的の場所で、野生馬が現存する宮崎県の都井岬も「岬」である。
牧の入り口から入ると、その奥には牧の大明神の祠がある。
かって恋の浦ガーデンになっていたあたりは平坦で牧場の可能性がある。

地元の言い伝えによると、昔、大陸から京泊(牧の大明神ちかく)に馬を陸揚げして、渡の山に放牧して調教し、日本国内に積み出した。馬出、馬込という地名もあった。
毛利の家臣が朝鮮出兵途上に、渡・楯崎の馬牧を見物した。
福岡藩主・黒田忠之は大島に藩営の馬牧設営をするために、津屋崎に補助牧場設営を命じた。
柳川藩の馬術の名人たちが渡の牧で馬の修練をした。

俵瀬だけが出入り口だったので、馬の管理がしやすかった。
高風呂山周辺の牧草は塩分を含んでいて、牛馬がよく育った。
          (参考 福津郷土史会 Hp)

古代には仲哀天皇が新宮町で馬事訓練を行ったという記事があり、中世でも高田牧という名称で筑前国は最重要の牧であった。
牧司がいて、壱岐や対馬の国司を歴任した人物がなっていた。宗像姓が多かったらしい。
高田牧は太宰府の管轄下にあり、太宰府の根幹をなす軍事施設であった。

牧は軍事の根幹であり、多数の軍馬確保が不可欠で、太宰府牧の側面が強い高田牧も、武門が掌握したであろう。
船原古墳の近くには、牧や馬場の遺跡は見当たらないが、古賀市内では青柳や小竹に、馬渡や戌馬場の字名があり、古代では新宮町の領域だったかも知れない。
福間の競馬場もなくなり、新宮町の中央部も近年開発がすすみ、古代遺跡の面影がなくなったが、古賀市には近郊唯一の馬術競技場が現存する。

(331) 【遺跡解説】国史跡♡船原古墳~時を越えた宝箱 - YouTube

2017年7月17日月曜日

「三国志の聖地、武候祠」

古賀市の論語研究会で、蜀の都の現在地が話題になったとき、
重慶ではないか?という意見が多かった。
しかしFB友の丸山宏さんによると、下記のように成都ということだ。私も重慶に1月滞在したことがあるが、重慶にはあまり古い歴史の跡はないようだった。

「三国志の聖地、武候祠」
成都にある武候祠博物館は三国志の聖地と言われています。
三国志は中国の後漢末期から三国時代まで、西暦で言えば180年から280年ごろまでの中国の戦乱の時代における魏、呉、蜀の三国の争いを描いたものです。その三国時代に蜀を建国したのは劉備で、その劉備を武の面から支えたのが関羽と張飛、智の面から補佐したのが諸葛亮です。
武候祠は、そんな諸葛亮の功績を称え神として祀っている場所です。諸葛孔明は死後、武候と諡(おくりな)されているので、この諡をつけて武候祠と呼んでいるものです。
では蜀を建国した劉備をしのぶ場所は蜀の都だった成都に無いのかというと、それは武候祠の中にあるのです。
その入口には漢昭烈廟という看板が大きく掲げられています。漢昭烈廟というのは劉備の廟のことを言います。劉備には昭烈帝という諡(おくりな)がありますので、漢の昭烈帝の墓所という看板になるわけです。
つまり「武候祠」には劉備と諸葛孔明の二人が祀られているのです。
しかしながら「武侯祠」がこの地の名称であり、通りまで同名で呼ばれていることから分かるように、主君の劉備玄徳より諸葛亮孔明の祠として認識されているのです。
それだけ諸葛孔明の方が人気が高いということなのでしょうかね。