2014年5月25日日曜日

後藤又兵衛の生涯:屋敷跡と隠れ家と墓

黒田長政と不仲になり黒田藩を飛び出した又兵衛は、細川藩に仕官しようとした。

しかし黒田藩の妨害で仕官できずに、行橋の西福寺に匿われる身となった。ここには彼の槍や遺品が残されている。
西福寺

{二代寂譽円廓上人代(慶長年間)後藤又兵衛基次来寺、暫く潜滞す。当寺より大阪城入城の為出帆の折、門前の大石より船に乗る。又潜滞中、基次使用の御膳は寺宝として現在残されている。}
隣の築上町伝法寺には又兵衛屋敷跡といわれる場所があるので、混同されやすい。

これは官兵衛が中津藩時代に築上郡の治安を又兵衛に命じていたので、ここに滞在していた屋敷跡であろう。
こちらは、10年くらい前には竹林であったが、今は整備されて駐車場となっている。
大阪夏の陣で散ったとされる又兵衛は、中津の耶馬渓で眠っている。ここまで落ち延びたのだろうか。




後藤又兵衛の墓
後藤又兵衛は、大阪夏の陣で、徳川家康を仕留めたあと、生き延びて愛媛県ですごしたという説があるようだ。
兵庫県に、20代目の子孫が現存されていて、又兵衛が使用した槍も伝わっている様子がテレビで紹介された。


どの説を信じていいのだろうか?

2014年5月21日水曜日

荘厳

最近は宗教の聖地めぐりのテレビ番組をよくみる。
宗教では本尊の周辺を荘厳な環境にデザインするのは、洋の東西で共通しているようだ。
キリスト教では教会の天井を高くし、そこに多くの壁画を画いている。
仏教でも天井や周辺の壁に多くの壁画を画き、さらに仏像本体にも光背をつけている。
心の聖地をもとめる旅には、荘厳(そうごん/しょうごん)な環境デザインが必要なようだ。
わが家でも狭いスペースでもいいから一ケ所くらい荘厳な環境の場所がほしいが、無理なようだ。

2014年5月15日木曜日

新羅と九州

新井白石の書によると、九州を筑紫洲(つくしのしま)とよび、別名を{白日別け}と書いている。
青木繁も
「わがくには 筑紫の国や 白日別 母いますくに 櫨多き国」
とうたっている。

「しらひわけ」とは新羅の分れで、まさに新羅の属国のような感じだが、新羅との交流が大きかったことは確かだ。


古賀市船原古墳付近で出土した金銅製馬具や雲珠などは5~6世紀の新羅製のものという。
近くの地名でも韓国古語らしいものが多く、香椎はクシヒ(王都)、早良(さわら)はソウル、白木原(しらきばる)は新羅の村、和白(わじろ)は評議会の意味らしい。
古賀の船原古墳の近くに「シゲジ」という小字があるが、新羅の訛った発音かな?と思いたくなる。

2014年5月11日日曜日

古賀船原古墳の金銅製馬具

昨夜のNHKのETVで古賀市の船原古墳近くから出土した
馬具をめぐる歴史的考察が解説された。
馬具(装飾杏葉)のレプリカ
船山古墳



















糸島の来米神社、古賀市、宗像大社、九州歴史資料館、九州国立博物館、岩戸山古墳、慶州博物館やその他の古墳群など、見学したことのある場所が多く登場し、更に解説者に、このブログでも先に紹介した松木武彦先生まで登場したので、非常に興味深くみた。
 百済や任那を支援する大和と、新羅を支援する九州勢力の争い。磐井一族やその周辺の勢力が古賀や糟屋にいて、新羅と繋りがつよかった史実から、高級な馬具がおくられ、埋蔵されていたという推定で、私も同感だった。
韓国も三韓時代だから、倭国も三国時代と考えて当然である。
馬具と糟屋屯倉遺跡が存在する古賀市の古代史的な興味が全国に知られた番組だった。
船山古墳が、装飾古墳で、前方後円古墳だったことも忘れてはならない。
船山古墳で出土した馬具の種類

2014年5月10日土曜日

小笠原貞慶の流転人生

九州小倉の小笠原藩は徳川の譜代大名として知られているが、その祖先の歴史はまさに戦国の流転そのものだった。(元信濃松本城主・小笠原貞慶が没す。天正18年5月10日享年50歳)  

小笠原貞慶は天文十五年(1546)、信濃守護で深志城(長野県松本市)主・小笠原長時の三男として生まれた。 同二十二年五月、父長時が武田信玄と桔梗原に戦って破れると、八歳だった貞慶は父とともに越後の上杉家へ逃れる。
その後京都へ流れて時の権力者・三好長慶を頼り、十三歳になった永禄元年(1558)十一月、元服して貞慶を名乗る。
長慶が没すと貞慶は三好三人衆と行動をともにするが、上洛してきた織田信長に敗れ、再び上杉謙信のもとへ逃れる。 その後天正三年(1575)の始め頃には信長に属したようで、今度は上杉家と戦うことになる。
同七年、貞慶は当時蘆名氏を頼って会津にいた父・長時のもとを訪れて家督を嗣ぐ。何としても故地回復を果たしたかった貞慶は、信長の下で越中や信濃の国人衆の説得を行い、一定の成果を上げた。
しかし同十年六月、信長が本能寺に倒れると、当時徳川家康のもとにいた貞慶は、家康からの要請を受けて上杉方として深志城を奪っていた叔父の貞種を攻め、三十年ぶりに同城の奪回に成功する。
家康麾下の一大名として故地回復の成った貞慶は深志を松本と改めた。  同十三年十一月、家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉の下へ出奔すると、子の秀政が数正の与力となっていた関係から貞慶も従って秀吉のもとへ赴き、今度は秀吉の家臣となる。
しかし家康と秀吉が和睦した同十五年三月には駿府に赴き、秀吉の直臣ながら家康に属すという複雑な立場になった。
同十八年の小田原征伐後には、家康の臣として下総古河三万石に封じられた秀政に従って同地に移り、この日没した。

2014年5月5日月曜日

万見仙千代

昨日の大河ドラマ黒田官兵衛に登場した「万見仙千代」とは、どのような人物なのか? 
生年は不明だが、信長の小姓として信長から“英才教育”を受け、次代を担う若手の筆頭でした。しかし初めてと思われる出陣であっけない最期を遂げることになる。その最期を遂げる戦いが、天正6(1578)年荒木村重の有岡城攻めだ。 
仙千代の活躍が最初に記されるのが『松江松平文書』の1575(天正3)年9月10日付の秀吉らへ宛てた信長書状のようだ。 
そして神吉城攻めの検視役を勤め、陣の構築を指示したり信長への報告をした。
その他、南部政直の接待役、武蔵・太田道誉宛ての信長の書状(副状)発給、安土で開かれた相撲会の奉行の務めなど、内政から外交に関することまでこなし、信長の身の回りの世話もしなくてはいけない忙しさ。 
万見仙千代の死により、信長の小姓として最も有名な森乱丸(蘭丸)が登場することになるが、もし仙千代が長生きしていたら蘭丸の出番は無かったかもしれない?