2020年8月26日水曜日

浄土宗の宗紋と一光寺について


一光寺の寺紋
浄土宗の一光寺が菩提寺であるが、その寺紋などには今まで興味がなかった。
今年のお盆に寺参りをして、寺紋入りの提灯を写真にとったとき、何処かでみた紋のような気がした。
帰宅してよくしらべてみると、大友氏の家紋に似ている。
大友氏の家紋
法然上人は、岡山(久米郡)の武家(押領使)の子であったが、幼いころ父親(漆間時國)が戦で重症を負い、子には出家するように遺言して亡くなった。
法然はその意思をついで出家し、修行をつんで浄土宗という宗派をおこすまでになった。
宗紋は、法然の実家の家紋に、法然がよく謡った和歌
「月影の いたらぬ里は なけれども 
   ながむる人の 心にぞすむ」 の 「月影」が
付け加えられたという。詳細にみると蕊の数が、9から7にかわっている。
浄土宗の宗紋

大友の家紋は「抱き杏葉(だきぎょうよう)」とよばれ、杏の葉を左右に抱きあわせたデザインである。
浄土宗の宗紋は「月影杏葉(つきがげぎょよう)」とよばれ、「ぎよ:漁」は魚の鱗のデザインとみたらしいという説がある。城の上の鯱を連想させるからだろう。

大友家も、法然の実家も、平安末期の武家であるから、同じような家紋であり、その後九州では高橋や鍋島や立花宗茂も用いた家紋である。


一光寺が10年ほどまえに出した「開山460年史」には、寺紋についての記載はなく、名島の大名町あたりで開山されたが、その後、立花城をめぐり大友と毛利などの争いが続き、その出城があった名島の戦乱をさけたか、被害があったらしく、箱崎の地に永禄11年(1568)に移転したことが、寺の文書にかかれているだけである。
俗説には、黒田家が名島城をすてて、福岡城に移った時期に移動したというが、寺の文書とは時代があわない。
開山上人の行発漢阿大和尚は箱崎への移転直後になくなっているので、名島の地には短期間で門跡などの遺跡がない。

一光寺の納骨堂
一光寺本堂



庫裡の玄関

2020年8月25日火曜日

香椎宮周辺の神社、仏閣

香椎宮周辺の神社・仏閣は、次のホームページに詳しく紹介されている。
http://www.yado.co.jp/tiiki/fukuoka/kasiigu/kasiigu2.htm

しかし地図がないので、ここに掲載した。上の図は拡大ソフトで、みてもらいたい。

上の図で見える神社、仏閣:
   
   香椎宮神殿以外では次のとおり。(順序不定)
   
   奥院十三仏
   大槙木
   早辻神社
   稲荷神社
   報恩寺
   武内神社
   巻男神社
   古宮
   弁財天
   朽瀬神社
   薬師堂
   印鑰神社
   光明堂
   高部神社 
   薬師堂
   頓宮
   
下の図で見える神社、仏閣:
   吉野三宝荒神宮(バイパスで廃宮)
   光明院観音堂:住宅に囲まれた丘の上:廃寺
   印鑰神社 (いんやくじんじゃ)
   平野神社:
   朽瀬神社:

2020年8月19日水曜日

宗像と出雲

宗像は沖ノ島を中心にした古代文化で、世界遺産に登録された。

沖ノ島の「関連遺産」として構成されていた新原・奴山古墳群や大島の沖津宮遙拝所と中津宮、辺津宮は除外されそうだったが、九州本島の古代豪族の活躍がなければ、沖ノ島の存在もなかったはず。半端な遺産にならないようしっかり説明されて、なんとか総合的に遺産としてみとめられた。




出雲は古代史ではさらに多くの神話にあふれているが、まだ登録されていない。

宗像と出雲の関係はあまり知られていないが、2004年3月に久しぶりに出雲大社に参拝したとき、出雲と宗像の関係が深いことをきいた。その後調べたことを含めた纏めてみた。
出雲大社の祭神大国主命(大国主神)は出雲の国譲り神話で知られる神だが、ここには大国主命のほかに5人の客神がいると云う。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神らの神だ。
出雲大社は南面していて5人の客神も南面しているのに、肝心の大国主神は西に向いている。
西を向いているのは、この世を奴国に譲って、あの世(黄泉の国)を支配する王になったという説がある。

  日本海を九州から対馬海峡を通って北陸に流れる対馬海流を媒介とした海人たちの活躍や、記紀神話にみられる両地域の密着性がある。

古事記によると、アマテラスがスサノオの剣をとり、そこから宗像三女神を生み出す。
宗像三女神はスサノオの子神ということで、その三女神を宗像氏が祭祀する神となる。
また沖津宮のタキリビメ命は、オオクニヌシ神と婚姻をむすんでいる。
このように神話的にみても、出雲と宗像は密接な繋がりをもっている。
 

律令時代には、出雲と宗像のふたつの郡は、神郡として特別のあつかいをうけていた。
どちらも評造(のちの郡司)に三等親以上の親族が連任することが特に許されていた。どちらにも出雲大社、宗像大社があり、神郡である特例であった。

こうした特例は、伊勢、常陸、紀伊などにもあったようだが、出雲・宗像は他の地域に先駆けて認められていた。
両氏は当時、大社の宮司と評造(郡司の長官)を兼任していた。のちに兼任は禁止されることになる。

延暦17年に興味深い事件が記録されている。
太政缶符によると、出雲の國造が、神官の采女ということにかこつけて、多数の女子をめとっていたので、その禁止令を出雲にだし、「筑前國の宗像神主もこれに倣えよ」でしめくくっている。

崇神天皇が、出雲大社の神宝を見たいと伝え、大和朝廷から神宝を貢上するように使者が出雲に来たとき、出雲側の最高責任者である出雲引振根が宗像にでかけて留守であったという。
大和からの外圧を、宗像と出雲が連合して対応したようだ。

その他共通する点が多く、出雲と宗像は強い連合関係にあったようだ。


考古学では、出雲は銅鐸圏、北部九州は銅戈、銅矛圏と区別されていたが、出雲の國引き神話の考古学的研究で、出雲は新羅、沿海州、越などと幅広く黒曜石などの交易をしていたことがわかり、宗像も含まれていたかもしれない。今後の調査が期待される。

2020年8月16日日曜日

母里太兵衛(友信)

子供が嘉麻市の病院に勤務しているので、近くの益富城跡や麟翁寺に案内してくれた。
母里太兵衛は、鷹取城主であったが、後藤又兵衛のあとの城主となり、麟翁寺にその墓がある。
武勇や、酒豪で有名だが、現代までその歴史の一端を残してくれている。

益富城跡
麟翁寺の母里太兵衛の墓



一番有名な話は日本一の槍で、明治末期か大正時代に、子孫がその槍を手放し、何人かの手を経て、これを保存せねばと買い取ったのが、安川敬一郎であった。




母里太兵衛の銅像

敬一郎の家の座敷の欄間に、この槍は飾ってあった。

息子の安川寛は、子供のころ槍の下を通るのが怖かったと話していた。

敬一郎は晩年になり、この槍は黒田家に返すべきだと考え、それを実行した。

黒田家からは返礼として、狩野派の双巾の掛軸が安川家に寄贈された。
その後黒田家は槍を福岡県博物館に寄贈されたので、安川寛も晩年に、狩野派の掛け軸を国立美術館に寄贈した。

寄贈前にその掛軸を幹部社員に披露され、経緯を話されたのでよく覚えている。

最近聞いた話では、太兵衛の妻は大友宗麟の娘で、キリスト教徒であった。
黒田官兵衛も晩年はキリスト教の理解者になっていたので、二人は相通じるものがあった。
別府の石垣原の決戦で大友軍を破ったあとの和平交渉には、母里太兵衛が主役にたって活躍したという。太兵衛の妻が大友義統の妹だったからである。

いままでのイメージでは、考えられないような面もあったようだ。

2020年8月13日木曜日

市川崑と東京オリンピック

昨日のテレビで久しぶりに市川崑の顔をみた。東京オリンピックの映画や犬神家の一族の映画製作の裏話であった。


 東京オリンピックの映画の経緯は、安川第五郎氏からよく聞いていた。

記録映画の監督には当初黒沢明が予定されていたが、政府予算が少ないので辞退され、市川崑が担当することになった。
市川も政府予算の2億5千万では、カラーや照明など不足するから、あと1億か1億5千万追加してほしいと要求した。
安川は政府予算に、財界寄付をつのり、3億5千万の予算をつけた。

 大会が終わり、試写会をみた河野一郎などが悪評をあびせた。そのためか、公開権利を交渉した映画会社、松竹、日活、大映、東映、東宝などすべて、2億5千万円では赤字になるとことわった。終わったオリンピックの記録など、大衆が見るはずがないと、映画会社幹部は思っていたようだ。
東宝だけが、1億5千万でひきうけ、利益が出た分の60%を組織委員会にリターンするという条件を付けて安川は東宝に公開権利を渡した。

公開の結果は大好評で、リターン額は7億5千万に達した。
(テレビでは、お金の話は皆無であった)
市川崑の映画が単なる記録ニュースでなく、運動の美学とまでいわれた画像だったからである。


アスリートの心情の表現を重視した演出や、超望遠レンズをはじめとする複数のカメラを使った多角的な描写などを駆使し、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。しかしそれは、1936年のベルリンオリンピックを記録したレニ・リーフェンシュタール監督の『民族の祭典』と並んで、「芸術か記録か」という大論争を引き起こすことになった。

わたしが市川崑をしったのは、ビルマの竪琴のころである。
昭和30年代に、ちょうど東京に出張し先輩と銀座付近の居酒屋で飲んでいたとき、近くの席で盛んに映画の話をしている数名の客がいた。
次にとる映画のテーマの内容を幾つかあげて説明しているのが市川崑だった。偶然の出会いであったが、その後の彼の映画に関心を持つようになった。
若い頃の市川

犬神家の一族の成功の話も、雑誌などで多少知っていたが、テレビで詳しく理解できた。

邪馬台国と斉明天皇と朝倉市の関係

長田大塚古墳の写真と地図


朝倉に出かけて、「卑弥呼の墓は朝倉市山田にあった」という資料をもらった。朝倉歴史研究会の作成。
戦後卑弥呼ブームが起こった頃から、甘木・朝倉は候補にあがり、H25年頃のデータでは、九州説のトップで131、2位は博多湾沿岸で102、3位は吉野ケ里で86などとなっている。

 (数値は西谷先生が調査された文献の数)
私の記憶では、初期には甘木地区に大塚という字名があり、これが卑弥呼の墓があった証拠という説があったが、最近ではみかけない。
甘木市時代に、奥野先生の講演を現地できいたが、筑後川流域全体を邪馬台国連合の邦とする説であった。
平塚川添遺跡を見学に行ったときころは、卑弥呼の墓との関連は何もなかった。...
当時地元の教師だった知人は、斉明天皇の朝倉橘広宮の歴史調査に熱心だったので、私もその場所を訪れたり、異様な死を遂げられた筑紫朝倉宮を訪れたりした。



今回の史料では、山田サービスエリアの南斜面にある「長田大塚古墳」が、九州一の規模の円墳で、まだ未調査のため正規の文献にはのっていないが、150mくらいの直径があり、魏志倭人伝の「径百歩」に相当するから、卑弥呼の墓の可能性があるとしている。写真や航空写真を大きく掲載している。

かっては別の人物の古墳とされていたようだが、斉明天皇より古代につながる歴史として、この古墳の山の上にある秋葉宮の石詞の神が神話につながる物語であることや、麻底良山はアマテラスが訛った名前とか、邪馬台国はヤマダと発音していたなど、新説を強調している。
朝倉市では、ふるさとづくり支援事業として、このような資料つくりや、卑弥呼まつりを盛んに行っているようだ。



ただ朝倉に邪馬台国があったから斉明天皇もここに遷都してきたのだという説明は、すこし強引すぎるようだ。


朝闇神社(福岡県朝倉市)。
 百済を救援のため、斉明天皇、中大兄皇子が朝倉に大本営を設ける。しかし、斉明天皇は当地で崩御されたので、神社と仮の御陵が設けられた。その一つが朝闇神社である。


また恵蘇神社や御陵山にも祀られているという。





2020年8月10日月曜日

九州飛行機香椎工場


太平洋戦争では、戦争が飛行機の時代に変わり 制空権を制することが最大のこととなった。 
飛行機工場はいくら増産をしても足らない状態が続き、 九州飛行機も雑餉隈の本社だけでは足らなくなり 昭和17年香椎に飛行機製造工場がでた。ここでは主に 陸上哨戒機「東海」Q3W や、潜水艦攻撃機(Q1W1) 東海の製造をしていた。


この写真からも分かるように香椎川から名島付近まで3号線の海側すべてが工場用地であった。

工場の配置明細は下記の写真を参照。当時の道路基礎や、ロータリーの跡などが、いまの住宅地の中に残っている。






昭和30年に名香駅付近から香椎工場跡の白い建物が見える風景

飛行機の製造には多くの工員が必要だが ほとんど兵士として徴兵され、 代わりに 中学生、女学生がラインを担当し製造をした。
わたしも中学生でリベット打ち作業を担当した。

部品増産のため、和白の海岸部にも、分工場が造られた。

空襲では、幸いにも近くの空き地(今のダイエー香椎店の裏)に爆弾が二発落ちただけで 戦争の間 工場は爆撃に会うことがなかった。

しかし 戦局が逼迫してくると何時 爆撃にあっても不思議なことはなく、香椎工場でも工作機械の疎開が始まり、香椎宮に続く勅使道の右側の丘に横穴を掘ってそこで飛行機の部品が作れるように移動を始めたところで 戦争が終わった。 今でも横穴の跡が一部に残っている。

 陸上哨戒機「東海」は 主翼と胴体を製作ラインで作り、組み立てラインで胴体と主翼を合せ、脚を付けてからエンジンと武装を儀装ラインで施し完成さる。

これを雁ノ巣飛行場に浮舟で運び そこで試験飛行をしてから各地に空輸する。浮舟までは、中学生が手押しではこんだ。

「スベリ」と呼ばれるコンクリートの斜路は水上偵察機(零式3座水偵)を海に下ろす為のものである。その跡は香椎側、雁ノ巣側にも残っている。



雑餉隈の九州飛行機本社で約1000機製造した零式3座水偵はここに運ばれて 検査、試運転をしてから各地に飛び立った。


戦後は香椎自動車工場と社名を変え、バスの車体を作り 始め、
その後、佐賀の基山に引越しして 渡辺自動車工業になり、平成13年解散し歴史を閉じた。

2020年8月9日日曜日

運動と意志「アクション心理」(改訂)



この本のなかで、人間の運動と意志に関連する内容を抜粋してみる。

人間は自分の意思で、指や手足を動かしていると思っている。

生まれたばかりの赤ん坊が、その手のひらに指を置くと、かなり強い力で握り返してくる。

この本能的な行動を自動行動とよび、随意行動と区別している。

お乳を吸う行動は本能的にはじまるが、やがて欲しいときだけ吸うようになり、随意行動がはじまる。


成人のこころは、知、情,意に分類される。

われわれは、「舌を出そう」と思えば簡単に舌を出せる。「人さし指を立てよう」と思えば、片手だけならすぐ立てることができる。
つまり思え(心理過程)ば、すぐに運動(神経過程)が実現できる。

しかし人が意識するのは、起こってしまった運動で、関節や筋や腱にある感覚受容器のおかげで運動を感じる。運動の結果だけを感じるが、途中経過は意識されない。

しかし心理学の研究で、運動(神経過程)には意識されない心理過程が共存していると分かってきた。

たとえば左右の手で、親指と小指を上げようとすると、まごつく。

さらに、腕を切り落とされた人が、義手をつけるとその腕を動かすことができる幻肢は、この共存する心理過程によるものだ。
これを「アクション心理」とよんでいる。

人の意志は運動を制御するのでなく、アクション心理を制御する。

これを一般用語では、気力とか集中力などとよぶ。

ゴルフなどのスポーツで、手足や体を総合的に使う運動では、最後にこの集中力を高めることが要求される。

最初は、グリップ、スタンス、スイングなどの基本動作を訓練するが、最後はショット時の集中力を高めることが必要となる。

これを完全な沈思、完全な無我などと表現される。

指先でもなく、両腕でもなく、視線でもなく、体すべてがひとつのショットという運動過程に収斂され、これに「アクション心理」が共存して、一つの行為に集中される。

追記:
最近の研究で、筋肉のなかには、筋紡錘があり、錘内筋繊維には感覚神経が存在していることがわかった、




したがって、筋肉の動きは、脳神経を通過しなくても、脊髄を通って相互に連絡している。
これを脊髄反射とよぶ。


このような筋肉の運動システムが最近明確に解明されてきた。