2014年12月23日火曜日

軍師官兵衛の最後

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の最終回はおかしな幕引きであった。
予告編では「天下を取る」と叫ばせて、本番では「左手は何をしていたか?」と言わせ、死後の大阪夏の陣の後藤又兵衛まで登場させた。
日本の平和を望み、戦の無い世界を夢見ていた如水が「天下を取る」と急にいいだし、家康暗殺を考えていたような筋書きをラストシーンに入れたのは、なぜだろうか?
14日が総選挙で放送中止となり、ストーリー短縮のため可笑しな繋ぎになったのかもしれないが、まとまりのない結末である。
最後までキリシタンのシメオン如水であり、秀吉や家康と異質の世界観に悩んだ結果の苦悩として描けば、もっと九州での戦いが一貫して活きてきたと思われている方も多いようだ。
画像は「居士姓橘氏俗諱孝高」とある。黒田官兵衛「龍光院殿如水円清居士寿像」朝倉市・円清寺蔵されたあ跡。(『杷木町史』)




この大河ドラマが始まる前に、郷土史家石瀧氏が「官兵衛の福岡城場面は最終回の10分ぐらいだろう」と話されていた予言は見事に的中した。

2014年12月19日金曜日

妙興寺

妙興寺山門
今の福岡市の地名のルーツは、備前の
長船町の福岡の市である。
昨夜のBSテレビで、歴史ガイドと女流写
真家が、福岡の市を取材してくれた。




妙興寺には黒田如水曽祖父の墓があり、黒田ブームで大勢の参拝客が見受けられた。

概要は岡田先生のFBで拝見していたが、さらに
詳細をしることができた。



如水曽祖父の墓



備前一文字の日本刀が有名だが、それに
あやかって一文字うどん、どどめせなどの郷土料理が紹介された。



国宝の日本刀の半分は、備前という話
に驚いた。



備前一文字の刀紋






岡山・吉備路
郷土料理は武士と関係のある名前や
逸話があって、城下町かと思えるし、街道に
も隠場所があって、中世の雰囲気が強い街
である。









2014年12月17日水曜日

歴史とは選択の教え(石垣原合戦)

吉弘統幸(よしひろむねゆき)は、義統が改易された後、官兵衛に招かれ官兵衛の臣・井上九郎衛門に仕えていたが、その後、従兄弟にあたる筑後柳川の立花宗茂の家臣になっていた。




世の中が関ヶ原の合戦に向けて動き出すと、統幸は大友義統の子、義乗が家康の下にいたことから東軍に味方しようと江戸を目指す。江戸への途上の毛利領内で、統幸は豊後上陸への準備を進めるかつての主君義統に会い,,大友の当主を継いでいる義乗が家康の下にいることを考え、東軍に味方することを義統に説く.
しかし容れられぬことを知ると覚悟を 決めて義統に従うことにする。
豊後上陸後、義統が九州東軍の官兵衛と雌雄を決することになる石垣原では,右翼の将として戦陣を張り、大友軍有利の緒戦を牽引する。石垣原の合戦を東と西で対比すると、総大将は黒田如水と大友義統、武将は井上九郎衛門と吉弘統幸。
総大将と武将の間で選択の違いがあったのは西側で、吉弘は東軍に付くべきだと思っていた。これが西軍の敗北の一因となっていた。
朝鮮の役の失敗で改易された義統は、徳川家康、佐竹義宣、毛利輝元と預け先を流転したあと、関ヶ原の合戦時には、毛利輝元の下にあったことから、輝元から兵や資金の援助を受け旧領奪還を目指して、中国地方から九州の豊後へと上陸した。

しかし、大友敗勢を知ると、数騎を率き連れ、かって世話になっていた井上九郎衛門の陣へと斬り込み討たれるという最期を選び、その生を終える。
吉弘統幸は過去と未来の変化を読み、選択する能力をもっていた。
しかし長年大友家の家臣として仕えてきた家柄であり、立花宗茂とは従兄弟になるから、過去の恩義を絶ちきることが出来なかった。そこに彼の限界があった。
歴史を学ぶのは、過去に重きをおくか、未来に重きをおくかの判断と選択の事例の勉強である。
黒田如水などは、常に未来に重きをおいて行動した。しかし天下をとるまでの器量と幸運を持たなかった

2014年12月12日金曜日

蛍の光の歌詞

1)
蛍の光、窓の雪、
書読む月日、重ねつゝ、
何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。
2)
止まるも行くも、限りとて、
互に思ふ、千萬の、
心の端を、一言に、
幸くと許り、歌うなり。
3)
筑紫の極み、陸の奥
海山遠く、隔つとも、
その眞心は、隔て無く、
一つに尽くせ、國の為。
4)
千島の奥も、沖繩も、
八洲の内の、護りなり、
至らん國に、勲しく、
努めよ我が背、恙無く。
4番の歌詞は、領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されている。
千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期の案)
千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり(千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて)
千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり(日清戦争による台湾割譲)
台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)
敗戦後の改変はなく、抹殺されてきたが、そろそろ考える時代になっている。
「宗谷の果ても、尖閣も 八洲の内の 守りなり」

2014年12月10日水曜日

豊臣秀吉の子供

 豊臣秀吉には実子がいなかったとよくいわれていいます。
淀殿との間に生まれた二人の子、三歳で病没した鶴松と大坂城に滅ぶ秀頼は有名で、秀吉の実子らしいですが、それ以前に秀吉に実子があったことはあまり知られていません。
秀吉の子供で「秀勝」を名乗った人物は3人存在しました。
「初代」秀勝は秀吉が長浜城主時代に誕生したとされる石松丸のことで、側室の南殿なる人物が母と言われています。南殿は天正二年(1574)にも女子を産んだとされていますが、その素性は明らかではありません。この「初代」秀勝は同四年十月にわずか七歳で亡くなります。
織田信長は悲しみに沈んだ秀吉を見て、四男の於次丸を秀吉の養子として与えました。これが「二代目」秀勝で、同十年の中国攻めには十五歳で出陣、初陣を飾っています。
 間もなく本能寺の変で父信長が滅ぶと、「二代目」秀勝は十月に秀吉が主催した京都大徳寺での葬儀において喪主を務めました。以後明智光秀の旧領丹波が与えられ、亀山城主となって二十八万石を領す一方、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の役にも参陣、同十三年には従三位左近衛権少将のち正三位権中納言となり、丹波少将あるいは丹波中納言と呼ばれました。
しかしそれも束の間、病を得てこの日に亀山城で十八歳の短い生涯を閉じました。
翌年、秀吉は姉・とも(日秀尼)の二男で秀次の弟である小吉を養子とし、二代目秀勝の旧領をそのまま引き継ぐ形で与え亀山城主としました。これが「三代目」秀勝です。残念ながら三代目も朝鮮役の最中、文禄元年(1592)九月に異国の地で病を得て二十四歳の若さで陣没しています。
後継者にめぐまれなかった秀吉が最後の秀頼に執着した気持ちがわかりますね。

2014年12月6日土曜日

キリシタン如水-

大阪城天守閣主任学芸員 跡部信 氏の講演メモ: 
「キリシタン書簡集から見るシメオン如水の人間像」 (11月29日福岡市市民フォーラム)
1)キリスト教との出会い
*如水が洗礼をうけたのは天正13年 1585 40歳の頃
*高山右近・蒲生氏郷・小西行長らが導いた。
2)九州攻めとキリシタン禁令
*豊後から避難する司祭たちのため、毛利領内に司祭館を建設するように、豊臣政権の重臣として毛利家と交渉し、イエズス会のため働く。
*小早川秀包・大友義統らをキリスト教に勧誘。
*秀吉は高山右近・蒲生氏郷・小西行長らには棄教を命じたが、如水には多大な功績に遠慮して、命じなかった。
*如水は長崎・浦上・平戸などの領主にイエズス会司祭を推奨し、京都のキリシタンを庇護する活動をした。
*イエズス会巡察師が来訪(1591)したとき、秀吉に会見をうながすが、拒否された。
3)如水の失脚から関ヶ原
*文禄の役で全羅道・普州城攻撃を延期する許可をうるため帰国したため、秀吉の勘気にふれ失脚。
3年後の和議破局後に許された。秀吉との関係は薄れていった。
*関ヶ原の戦が起こると、長政とともに東軍につき、十字架の旗印を揚げて戦った。
*キリシタン大名の有馬晴信・大村喜前らを東軍に勧誘した。
*もともとキリシタンの大友義統を捕虜とし、信仰の道につれもどした。
*キリシタン大名の小早川秀包の妻を弟の直之に救出させた。
*加藤清正に抑留された小西領の司祭たちの開放に尽力した。
4)筑前での隠居生活と昇天
*長政はキリスト教と距離をおいたが、如水は公然と庇護した。
*59歳で死去するまでキリシタンとしての信仰を保つた。
*信仰上側室をもたなかったが、妻は浄土宗の熱心な信者だった。
九州を平定してキリシタン王国をつくる夢を持っていたのではないかという話もでた。
講演会の掲示板
日本の歴史書にない話が多くみられ、熱心なキリシタンだったということですが、いくらか割り引く必要があるかもしれません。
明日12月7日の大河ドラマにどれだけキリシタン色がでるか?楽しみだ。
黒田如水

街歩き教室「黒田官兵衛・長政のキリスト教と家康」(清田清)
2時間歩き、2時間喋った。皆さまお疲れ様でした。
画像は官兵衛洗礼名シメオンの言われ「シメオンの讃歌」を描いたレンブラント画。



以下、街歩きコース点景と最後は、赤頭講師と博多遺跡群出土の十字架鋳型までの画像。

官兵衛寄進のイエズス会教会跡・勝立寺

→福岡藩最初の宗門改があった智福寺跡水鏡天神





→アクロス下に遺る、福岡惣構え第二の守りとして福博を遮る石垣




→孫文演説の県公会堂



→11代長溥設置の藩理化学研究所・福岡藩精錬所跡碑



→中洲のビル群谷間の国広稲荷




→道真使用鏡が神体・鏡天神





→綱首の町跡の綱敷天神




→イエズス会本部所収のコーロス徴収文書にパルタザル神屋彦右衛門尉とサインをする彦右衛門は宗湛親類か?/神屋宗湛屋敷跡の博多小学校と豊国神社




→ 福岡惣構え第一の守り石堂橋門跡の石堂





→崇福寺・黒田墓所官兵衛墓碑



→そして千代公民館の赤頭講師、




博多遺跡群出土のメダイと十字架鋳型  

 

 


お終い、、 — 場所: アクロス福岡

2014年12月3日水曜日

日蒔野(ヒマキノ)という地名

福津市の福間駅東や福間南の町名であった地区が開発されて、日蒔野1丁目から6丁目に整理されたそうだ。まだネットでの地図にはでていない。
昔は四角とか両谷とよばれていた地域で、日蒔という地名はしらなかった。
福間町史などにも見あたらなかったので、古賀の美明のような創造名かと思ったが、やっと古い地図に日蒔橋という名前をみつけた。字名として存在していたのだろう。全国的にも珍しい地名だ。
中世から田畑に蒔く種籾の量で耕地の面積を表した。一段は五升蒔き、一石蒔きが石巻になったという。日蒔は一日で蒔ける田畑の広さを表したのだろうか?
この西郷川地区は戦国時代に河津氏一族が支配していた場所で、その史跡の亀山神社、正蓮寺、井原屋敷、竹尾古墳、栗島神社、深川屋敷、八龍神社などをあるいて回ったことがあるが、日蒔という地名はしらなかった。
開発の事前調査で、上西郷ニホンスギ遺跡がみつかり、亀山城関連の建物跡であることが平成22年に発表されたときの説明会には出かけた。
このあたりもすっかり住宅街に変わっているだろう。
上西郷ニホンスギ遺跡

2014年11月24日月曜日

キトラ古墳

キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。
亀虎古墳が本名らしい。通常は地名の名前がつけられることが多いが、装飾古墳の中身で名付けられた。
東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれており、玄武の亀の絵と白虎の虎の絵から亀虎古墳と名付けられた。
(玄武は脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれることが多く、尾が蛇となっている場合もある)。


誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。
この前のテレビでは、高市皇子が確率が高いと解説していたが、ネットで検検索してみるとその他にも大勢の候補者がいる。
高市皇子であれば、その母は筑紫の胸肩君の娘だから、関係が深いことになる。
古墳の存在する場所が高市郡ということからも、高市皇子の確率が高いと信じたい。

2014年11月18日火曜日

筑紫の鴻臚館の時代

放送大学での筑紫の鴻臚館(こうろかん)の講義に私見を加えてまとめてみた。

平安時代に筑紫(福岡平和台野球場跡)に設置された外交および海外交易の施設である。

(前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。)

その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。

鴻臚館の名が文書に残るのを列挙する。

837年:入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述。

838年:承和5年(838年)に第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとある。

842年:承和9年(842年)の太政官符に鴻臚館の名が記載されている。

849年:嘉祥2年(849年)には唐商人53人の来訪が大宰府から朝廷へ報告されている。

858年:天安2年(858年)には留学僧円珍が商人李延孝の船で帰朝し、鴻臚館北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。

861年:貞観3年(861年)および貞観7年(865年)には李延孝が再び鴻臚館を訪れている。

896年:菅原道真により寛平6年(894年)に遣唐使が廃止された。

これは唐が滅び、内乱状態になったためだが、その後宋が成立しても、朝廷は外交に消極的で、交易と僧侶の交流のみ継続じた。

当初鴻臚館での通商は官営であった。商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かう。

そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げた。

残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。

商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事は鴻臚館側が供出した。

903年:延喜3年(903年)の太政官符には朝廷による買上前貿易が厳禁されて、貿易が官営から次第に私営に移行している。

909年:延喜9年(909年)には唐物使に代わって大宰府の役人に交易の実務を当たらせている。

1019年:1019年の刀伊の入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これは鴻臚館の警固所を指している。

やがて時代が下って北宋・高麗・遼の商人とも交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになって、現在の博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易は衰退。

このことは、陶磁器などの埋蔵物の発掘調査からも裏付けられている。

1047年:永承2年(1047年)には放火される。

1091年:寛治5年(1091年)に宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消える。

上記以外の入宋留学僧として、奝然(ちょうねん:法済大師の号)がおり、983年(永観元年)宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、986年(寛和2年)に帰国した。

 北宋期の入宋僧は、中国の正史や京都の公卿の日記にも登場し、旅行記やその逸文が残っているものもあり、行程や事跡はかなり詳しく判明する。この時期の入宋は天皇の勅許を必要とし、したがって入宋行為自体が非常に注目を浴びた。

奝然のあと1078年までに入宋の仲回まで22名前が調べられている。

この頃の入宋僧は一人の高僧とその従僧数人で行動したから、入宋の回数から言えば8回、頻度から言えば10年に1回に満たない。しかもその内には、奝然帰朝後の謝恩の使として入宋した嘉因、寂照が入宋中に天台山大慈寺再建費用募集のため一時帰国させた従僧念休なども含まれている。

 これに対して南宋期においては、入宋僧は個人行動が多くなるが、1167年から1276年までの110年間に109が知られている。平均して毎年1人は入宋していた計算になる。

この時期には入宋僧は珍しい存在ではなく、日本・中国で記録に留められることも少なくなるから、記録に残らない入宋僧も多くいたに違いない。


    平和台野球場跡に建てられた鴻臚館

古賀市歴史資料館20周年

この前の日曜日に、開館20周年を記念して、初代、2代の元館長の回顧講演が行われた。
開館当時は図書館長と兼任で、企画展示などの予算ゼロ、女子アルバイト職員1名でスタートして、すべて個人の人脈と手作りの展示品だったという。
最近鹿部・田淵遺跡や船原古墳の馬具など発見されたが、それまでの古賀には大きな神社・仏閣・遺跡がなかったから、苦労の連続だったようだ。
企画展の資料は殆ど手元にあり、改めて整理した。
2代目石井館長の蒐集趣味による海洋漂流物・動植物、その人脈による古銭、仮面、人形などの収集品などの展示が多かったのが古賀の特徴であろう。
大宰府や宗像のような日本史に大きくでてくるものがないだけに、地区の特徴を生かした展示企画の工夫が、これからも求められよう。

2014年11月11日火曜日

筑紫舞

現在、宮地嶽神社につたわる筑紫舞。
その始祖は阿曇磯良翁で、志賀海神社の御祭神を祖にされる方で、志賀海神社には阿曇磯良も祀られている。
日本書紀によると、安曇族の始祖、安曇大浜宿禰が、273年海人の宰に任命され、海人たちの統率者となったという。この時期は九州地区に於ける安曇族の初期全盛期であったといえる。
大浜宿禰は応神天皇3年各地の海人(あま)がさわいで命にしたがわなかったのをしずめた­という。以後海人の統率者となった。福岡市の海の中道北端に大岳丘陵があり, ここには、筑前風土記逸文に出てくる大浜宿禰を祀る大嶽神社が鎮座している。]
磯良大浜宿禰の関係は不詳だが、同じ時代の人物であろう。
古代の芸能のもとは、磯良翁が舞ったとされる細男舞や田楽舞で、これらを元にした猿楽舞がある。これが能楽(観世・金春・金剛・宝生)の4派に発展。
古代での筑紫舞は、神様の前の芝生を舞台に、夜間に松葉の篝火の照明で舞う演技であった。
舞台で演じる演技を芝居といったり、能舞台の背景に松の絵が描かれるのは、その名残である。
現在でも薪能という能楽があり、安曇の芸能集団の伝承が息づいている。

宮地嶽神社での筑紫舞1
宮地嶽神社での筑紫舞い2
宮地嶽神社の先代宮司浄見学氏が昭和11年頃、筑紫舞と宮地嶽神社の深い縁をもとに伝承活動に取り組みはじめて、今日にいたっている。
家内が且て西山村光寿斉門下に入門して習っていたが、今は足腰が悪くなり、すっかり忘れている。

2014年10月27日月曜日

四角錐の墓とピラミッド

以前に斉明天皇御陵が八角形ということを書いた。
その半分の四角形の墓が、奈良明日香村の都塚古墳や奈良市高畑町にある「史跡 頭塔(ずとう)」などで、奈良のピラミッドとも言われている。
奈良のピラミット(頭塔)
エジプトのクワ王のピラミッドは巨大で、その造成方法が不思議がられているが、奈良の頭塔をみると、造成のプロセスが解かりやすい。
ピラミッドの正四角錐は、傾斜が54°14′で、どの様にしてこの角度を計測したのか?と皆不思議がっている。
これを明確に書いた本が見当たらないので、ここに説明しておく。
正四角錐の平面図を折りたたんで、正四角錐にした時の高さは、下の図に示すように、水平の一辺の距離の2aに対して、垂直の高さは√2aになるので、この定規を使って造形していけば、54°14′の角度で正四角錐が完成できる。
(数十年ぶりに三角関数の計算をしてみたが、間違いないかな?)
古代エジプトでは幾何学や三角関数の研究が進んでいたので、容易に造形出来たであろう。

高さの計算図
この角度の実験的確認は、写真の様にゴルフボールを積み上げてみれば、簡単に理解できる。
四角錐の模型

2014年10月25日土曜日

多良岳の鳥居

 雲仙多良岳中腹の登山道入り口にある鳥居が、紅葉の季節を前に新しくなったという。
 多良岳は標高1076メートルの経ケ岳(きょうがだけ)を主峰に「太良岳大権現」として山岳信仰と真言密教の聖地とされてきた。
 鳥居は中山キャンプ場(546メートル)のそばに立ち、高さ約2・7メートル、横約2メートル。
 この山頂近くの山腹で、叔父が戦争末期の航空事故で死亡した時の墓があり、お参りしたので、よく憶えている。
   地元の建設会社の元社長で7年前に亡くなった山口萬吉さん(享年94)が最初の鳥居を建立し、18年前にまちづくりグループが鳥居を交換。3代目となる今回の鳥居は、山口さんの長男で会社を継いだ山口渡さん(71)が、仲の良い町議や農家、漁師などに呼び掛けてこしらえたという。
 麓のお寺は古賀の長勝寺と縁が深いという。 多良岳では例年、11月初旬から中旬にかけて紅葉の見頃を迎えるはずだが、もう出かける体力もないので、ブログでお祈りするだけである。
多良岳の鳥居

2014年10月19日日曜日

安曇族の歴史: 宮地嶽神社と安曇族(改訂版)

昨日宮地嶽宮司 浄見譲(キヨミユズル)氏の「宮地嶽の神様と安曇族」の講演をきいた。私見をまじえて纏めてみる。
当神社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮で、創建は、約1600年前。
ご祭神は「神功皇后」(第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君)。
記紀では、渡韓の折この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとある。
その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしている。
津屋崎に勝浦や勝島の地名があるのは、勝村・勝頼大神の縁である。
中世から戦国末期まで、宗像氏が宗像郡を支配し、宗像大社の末社のような風評が定着している。
しかし宗像三女神の存在も記紀にはじめて出てくる神で、田村円澄先生も、神功皇后の渡韓説話の頃より始まると推定されているから、創建は同じ頃であろう。
宮地嶽神社の地には、創建以前に全長23m(日本2位)の巨大石室古墳があり、国宝に指定されたものが20点も発掘され、地下の正倉院と別称されている。
特に3mの黄金の太刀やペルシャ風デザインの馬具などの存在は、大きな権力者の存在が覗える。最近復元された太刀が、九州国立博物館に常設展示されている。
(3mの太刀については、復元を担当された赤司氏より詳細な説明がされた。)
従来この古墳は胸肩君の墓であろうといわれていたが、その後古墳の年代がさらに古いことがわかり、最近元九大の西谷先生はこの説を否定された。
このことから、磐井族の葛子の後裔説が強くなり、古賀の船原古墳の馬具出土と関連付けて、津屋崎や糟屋の出土品の再調査がはじまっている。
磐井族は有明海に近い八女を本拠地にしているが、有明の大川市の風浪宮の宮司は阿曇姓で、安曇族と磐井族の縁は有明海沿岸でも絆があったようだ。
大川の家具が有名だが、もとは舟の造船技術が基礎となって発達したものである。




宮地嶽神社は地区としては宗像郡だが、津屋崎古墳の石の玄武岩は、宗像地区と異なり、津屋崎大峰山や志賀島のものと同質だから、志賀島や大岳を発祥の地とする安曇族が宮地嶽まで勢力を広げていたと考えられる。
海人が住むこの地区の海岸線に樹齢2000年の松の木が多いのは、彼らが船の木材、松明、墨、イレズミなどに活用していた名残だろう。
イレズミに必要な水銀を求めて、安曇族は山奥まで移住していくことがあった。
宮地嶽神社につたわる筑紫舞の始祖は阿曇磯良翁で、志賀海神社の御祭神を祖にされる方である。その縁で、宮地岳神社宮司の一族から,いまの志賀海神社宮司に養子にはいられた。
九大のヨット部が、日本でもっとも早く創設され、福岡県セーリング連盟が戦後から現在でも一番活躍しているのは、安曇族の発祥の地だからであろうと、現在の話題にもつながれた。ヨット部のOB としてはうれしい話である。
質疑では、宗像族支援者からの反論も出されたが、糟屋郡族としては興味新たな話であった。

シンポジュムの講演者
古墳から出土した大太刀
筑紫舞

参考:安曇族の歴史(その一):
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_11.html



最近宮地岳古墳の調査で、シュメール文字が発見されたり、九州の縄文土器が古代欧州でみつかったしているそうだ。
安曇族は古代イスラエル人ではないか?という説までとびだしている。




カタカムナ文字に記載された「宇宙すべてを理解したアシアトウアンはその理をここに残した」というアシアトウアンはアジア族のことで、東アジアの海洋民族で、倭国では安曇族のことではないかという歴史家の話とも何処か類似している。
https://www.youtube.com/watch?v=-9WQEvLmWpQ


九大ヨット部


2014年10月16日木曜日

八角形の斉明御陵

歴史秘話ヒストリアの番組は近頃俗説をかき集めたような内容が多かった。しかし昨夜の奈良の古墳の話は最近の研究成果が盛り込まれていて、興味深かった。
斉明(皇極)天皇は、桜井市の段ノ塚古墳(舒明天皇御陵)に合祀されているというのが、現在までの歴史的定説であった。
昨夜の番組では、飛鳥の牽牛子塚古墳に埋葬されているだろうという新説がだされた。これは国史跡ではあるが、あまり有名な古墳ではなかった。
どちらも八角形の墳丘墓で、七世紀中葉から八世紀初頭までに即位した大王に限って八角形が採用されている、数少ない形である。
私が読んだ伊達宗泰、白石太一郎氏などの本には牽牛子塚古墳が斉明御陵の可能性があることなど記載されていない。
昨夜の話では牽牛子塚古墳の石室は、凝灰岩の巨石をくりぬいて二室が構成され、床面には棺台が彫りだされ、二重の閉塞石をもつ横口式の石槨で、高級な副葬品の破片がみつかったという。
一方段ノ塚古墳は江戸時代のスケッチ図が残っていて、石室は一室だったらしい。これは日本書紀の記述の二室と異なるので、牽牛子塚古墳のほうが斉明天皇の御陵に近いということを主張していた。
斉明天皇が巨石加工を好んだことが話しの主流だったが、飛鳥の地は斉明天皇が愛した地だから、本人の希望をかなえるのなら、飛鳥の牽牛子塚古墳のほうがふさわしいだろう。
その他にも、この近くの岩屋山古墳説、高取町の車木ケンノウ古墳説などもあるので、真相解明はいつになるかわからない。
九州朝倉の地でなくなったので、朝倉にもその御陵という丘があるが、仮の埋葬場所だったのだろう。

2014年10月11日土曜日

安曇族の歴史(その一)

安曇族は古代日本を代表する海民族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
安曇族(阿曇族)の存在を示すアズミの地名は、九州から山形縣まで、16ヶ所ほどある。
「海民」といわれているが、山梨、長野、岐阜県など海の無い場所にも点在している。
日本列島の海民は、縄文時代から、海をこえて大陸と交渉した形跡が残されており、また南方系海民の人骨や文化遺品が西日本では出土している。


金印が奴国の王墓でなく、安曇族の拠点といわれる志賀島で出土したことから、安曇族は奴国の有力な氏族だったことがうかがわれる。
志賀島の志賀海神社には阿曇磯良が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。
日本書紀によると、安曇族の始祖、安曇大浜宿禰が273年海人の宰に任命され、海人たちの統率者となった。この時期は安曇族の初期全盛期であったといえる。
{大浜宿禰は応神天皇3年各地の海人(あま)がさわいで命にしたがわなかったのをしずめた­という。以後海人の統率者となった。福岡市の海の中道北端に大岳丘陵があり, ここには、筑前風土記逸文に出てくる大浜宿禰を祀る大嶽神社が鎮座している。)
海の中道の先端の志賀島の志賀海神社には、阿曇磯良宿根が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。その境内から海の中道塩屋崎・新宮・古賀・津屋崎方面の海がみえる。
北部九州の海民としては、安曇族、宗像族、住友族が知られているが、全国規模からみると、もとは同族だと考えられる。
安曇族はその後、九州から次第に東遷して活躍の場を全国にひろげる。
日本書紀によると、その後401年に履中天皇の即位問題にからみ、阿曇連浜子が住吉仲皇子のクーデタに加担して捕らえられ、罰せられた。この事件以後の約200年間は中央政治の舞台からは姿をけして、安曇族の衰退期となる。
推古天皇の時代になると、蘇我氏との結びつきが強くなり、日本書紀でも、多くの安曇族人が登場して膳部や法頭として活躍する。第2の全盛期で、特に阿曇比羅夫が外交官として大活躍する時代である。この頃の安曇族の活躍拠点は北部九州から近畿地方にうつっている。
{安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、7世紀中頃の外交官・武将。舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐を自分の家に迎えている。
661年高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡り、大錦中に任じられた。
663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。
長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。
安曇族の活躍はその後も続くが、桓武天皇の792年に安曇宿禰継成が佐渡に流罪となり、以後は中央政界から姿をけしてしまう。
{延暦11(792)年3月18日、内膳奉膳であった継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、勅命を承けず人臣の礼無しとして、絞刑に処せられるべきところを特旨をもって死一等を減ぜられ、佐渡に配流された。}
地元の宮地嶽神社との直接の縁はあまり知られていないが、宗像大社との縁は古くから深い。
『日本書紀』天武天皇二年(673)に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善だろうという説が有力であった。これが安曇族と宗像族の縁を示す一例であろう。
宗像族は朝臣、安曇族は宿禰の冠位だったが、日本書紀には安曇族のほうが多く記載されている。
3年前に安曇族のシンポジュームを聞いたことがあるが、今週のシンポジュームでさらに詳しい話が聞けた。
つぎのブログでその内容を示す。
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_19.html

また安曇族はRKBラジオでも放送されたことがある。塩の道から空の道という60周年記念番組で、日曜の夕方のシリーズ番組だった。
そのディレクターの津川さんが古賀の玄界塾で講演をされたこともある。
信州の安曇からみて九州の安曇族との関係をさぐる番組で、九州の磐井君との関係がかなり深いことがいろいろ立証された。

安曇族のイメージとしては海の民であり、本来は磐井君の配下で玄海を制覇していた。
 造船技術、操船技術、製塩技術、砂鉄精錬などが得意なうえに、海外との交易がうまく、日本側の輸出品としては塩やヒスイをとりあげ、韓国側の鉄鋼石や鉄製品を輸入していた。

磐井の乱の敗戦で九州を追われ、ヒスイのルートを経て信州に定住した。信州での安曇の名前は650年頃の大和の文献ではじめてみられるという。
九州と関連する地名、仏像、伝説、食べ物など沢山の事例がで
てきた。

 石川県の志賀町の名前のいわれはいろいろあるが、一説には金印で有名な九州の志賀島とのつながりが言われている。

 

 安津見に鎮座する奈豆実比咩神社は安曇連の祖豊玉比咩命を祭るが、安曇連は北九州の志賀島を本拠地にする。志賀は安曇連の日本海における拠点をなしていた。(志賀町史による)



安津見に鎮座する奈豆実比咩神社


奈豆美比咩神社祭神伝説の地(石碑の文書)

 

 われら住民が、おたびと尊称するこの地は上古、安曇氏の祖神、豊玉比咩命が来臨せられし所なり、と社伝は伝えている。

 西北方に望む宮山大御前は、もとの御本殿跡地であることから、祭礼の神輿渡御にあたっては、まず最初にこの地に渡御し、大御前の方向に神輿を据え神祭をつとめ、その後氏子内を渡御する慣行が、今も継の椨の承されている。

 巨大な神木タブの老株が臥龍の状を呈しているのを始め、姫榊・﨔・杉など長い歴史を物語っている。

 奈豆美比咩神社ハ、古く延喜の式内に名をとどめ、この地もまた旧石造鳥居など貴重な遺構があり、祭神伝説地として神跡深遠であり昭和48年10月23日志賀町文化財史跡に指定された。

 われら住民こぞってこの地を貴重な神域として顕彰するものである。

    

       奈豆美比咩神社宮司 田中外余成 謹書


最近志賀町に原発が建設されたが、地震その他の事故が多く、運転停止しているそうだ。
「君が代」の発祥の地は、志賀海神社という説。
 君が代の歌詞は志賀海神社の神楽です。明治になり、国歌として採用されたのが志賀海神社の神楽です。
 君が代の「君」とは、この地を治めていた安曇氏のことです。安曇氏とは、海の神様である綿津見の子孫とされ、志賀海神社は海の神様の総本社です。綿津見の娘の玉依姫は、初代神武天皇の母です。
 君が代は、安曇氏の双六歌と言われています。
 千代に八千代にの千代は、博多区千代で、千代の松原です。
 さざれ石は、伊都国の王族の墓の場所で現在の細石神社
 いわおは、伊都国の中心地、
 苔のむすまでは、糸島志摩の苔むす姫に会いにいった。




西方浄土筑紫嶋: 安曇族の歴史(その二) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)安曇の地名分泌図

2014年10月6日月曜日

黒田節の由来

昨日、博多の那能津会(博多古謡愛好会)の会長をされている岡部定一郎さんから、黒田節の由来を聞いた。
雅楽の越天楽のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う越天楽今様が元になっている。元々は「筑前今様」と呼ばれた。七五七五七五七五の歌詞が基本となっている。
 いろんな歌詞があり、博多商人や福岡藩の武士たちに歌われていたが、黒田長政公の家臣・武将母里太兵衛が福島正則邸で、殿様に酒を勧められ、見事飲み干してしまい、褒美に殿様自慢の槍を貰うという逸話に基づいた歌詞が、代表的に有名になった。
  「筑前今様」と呼ばれていた頃の歌詞は、高井知定の作詞で、「のめのめ酒を 呑みこんで 我が日の本の その槍を 取り越しほどに 飲むならば これぞ真の 黒田武士」という。
 地元の清酒「萬代」のCMソングとして類似の歌詞のものもできたらしい。
ちなみに、2番で唄われる「皇御国の武士は」の歌詞は加藤司書の作詞である。
 那能津会には明治初期うまれの人が唄った声が録音されているが、今より抑揚が少なく地味である。
昭和3年の暮れ、NHK福岡放送局の前身「演奏所」の時代に、赤坂小梅さんの唄声で放送されたとき、「筑前今様」ではわかりにくいので、この題名を「黒田節」と井上精三さんが名付けた。
その後この人気芸者歌手の赤坂小梅によってレコード化され、1942年(昭和17年)5月20日にコロムビアレコードから発売され全国的に有名になった。 戦時中は「黒田武士」というタイトルで吹込まれ、戦意高揚うたとされた。
  戦後1950年(昭和25年)5月20日に歌詞を一部変えて再発売された。吹込んだものは総て「黒田節」の題である。
戦後、福岡県出身の藤堂輝明の詩吟・浪曲入り黒田節が出て、戦後の普及版となった。



2014年10月1日水曜日

岐阜の地名

市の名前で「福」がつくのが7市ある。(福岡、福津、福山、福知山、福井、福生、福島)
七福神にならって、連携運動をはじめたらと提案したが、一向に動きがない。福はありふれていて、まだ増えるかも知れないからであろう。
珍しいほうから考えると、岐阜市の名前である。常用漢字にもない文字がはいっている。
美濃という古い地名を捨てて岐阜にしたのは、織田信長という。
稲葉城を攻め落とした信長が、これを岐阜城と改名した理由はつぎのように言われている。
岐阜の岐は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事より、また
岐阜の阜は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるよう願って命名したという。
いかにも天下布武をめざした信長らしい話で、生まれた播磨から福岡という地名をもってきた黒田とは大きな差がある。
その他にも説がある様だが、地名としては高級な由来の部類だろう。
岐阜城