2020年9月30日水曜日

安武河内守鎮則の墓

 




新宮町上府の、千年家の近くの千歳台4号公園に安武河内守鎮則の墓がある。最近は周辺が住宅地になってきている。


安武鎮則は、 立花道雪の室、 西(仁志)の先夫と言われ、久留

米の海津城主だった人物である。ともに大友宗麟の

傘下であった。

安武氏は祖先が河内出身で、河内守を名乗り、安武初代は鑑

政、その子が鎮則(鎮教)である。

この墓は、新宮町の観光スポットにはなっていないので、あ

まり知られていない。 

 立花道雪と西(仁志)との間に生まれたのが、男勝りで有名

な誾千代ぎんちよ)なのだが、何故新宮町上府に安武の墓が

あるのか、はっきりしない。

久留米の海津城が竜造寺に攻められ滅びたとき、鎮則の息子

の政勝が落ち延びて、立花道雪を頼ってきて、その後彼に仕

え、この地に父の墓を移したらしい。

近くの上府の大分寺の過去帳に鎮則の法名があるようだ。

これは吉永正春説の一つで、その他の説もあるようだが、最

も納得のいく説である。

2020年9月27日日曜日

高橋草坪の絵

 秋らしい絵の掛軸をかけた。田能村竹田の弟子の高橋草坪の絵「小竹雁之図」である。


田能村竹田が画才を認め、最も期待していた門人は、杵築の高橋草坪(1804-1835)とされる。早世したので作品は少ないらしい。
いかに竹田が草坪の画才を認めていたかは、自著『竹田荘師友画録』に門人のなかで唯ひとり取り上げられていることや、画事に関する自身の考え方をたびたび書簡で草坪に送っていたことなどからも伺い知れる。
また、頼山陽は草坪の画に「草坪腕底無一点塵」の賛を入れてその画技を讃え、篠崎小竹は才能豊かな草坪に姪を嫁がせようとし、浦上春琴は草坪の画を中国人の画と勘違いして弟子入りしたいと申し出た、などの逸話も残っているという。


高橋草坪 たかはしそうへい (1802/1803―1833) あまり有名な画家ではない。
江戸後期の南画家。名は雨(う)、通称は元吉、字(あざな)を草坪という。
豊後(ぶんご)(大分県)杵築(きつき)の商家に生まれる。
1822年(文政5)同地を旅行中の田能村竹田(たのむらちくでん)に画才をみいだされ、その門に入った。
竹田の東遊に同道し、京坂にもその名を知られたが、天保(てんぽう)4年に夭折(ようせつ)。享年は31歳と32歳説とがある。
画(え)は重苦しい感じの山水もあるが、『筍竹蜻蜒図(じゅんちくせいえんず)』のような繊細な美しさをもった花鳥画にみるべきものがあるという。
テレビの開運鑑定団で、この作家の掛け軸がでて、本物であれば100万円のところ、偽物だったので4万円となった。若死にしたので、贋作が多いらしい。
わが家のものも、花鳥画「水草雁之図」だが、箱蓋の裏に鑑定書のようなことが書かれている。はたして本物か否か?

2020年9月20日日曜日

唐津街道蓮華坂のわくろ石

博多側から多々良川を渡り、博多バイパスを登りきった辺りにわくろ石があります。わくろとは、博多弁でカエルのことで、特にカエルの大将とされるガマガエルを指しています。 


この道は昔の唐津街道で、この坂(火の見下周辺ん)は、蓮華坂といわれていました。

福岡城を起点にして、箱崎宮西の一里塚、次が蓮華坂の一里塚、次が下原の一里塚と続き、青柳宿に到達しました。

かっては榎の大木がそびえていたようです。

わくろ石も一休みする旅人の腰掛になっていたでしょう。

脇にある石には「立ち帰りの神・雨乞いの神 蓮華坂 わくろ石」と刻まれています。



「わくろ」は水利・雨乞いの神として、さらに、旅から無事に戻るという、立ち帰りの神として交通安全、疫病除けの神としても崇敬を集めました。

 また、唐津街道の箱崎宿を超えて香椎の手前のこの場所からは博多の街並みは見えません。江戸から無事に帰るという願いも掛けているようです。
 他にも、足利尊氏は多々良浜の合戦の際に、この場所で援軍を頼む使いを出して、戦いに勝利されたとされ、将軍の使いとも呼ばれています。



夢野久作著「少女地獄」のバスルートでもあります。

2020年9月18日金曜日

国生み神話「天孫降臨」の現実

 戦前に受けた古代の歴史教育は、皇国史観によるものだった。日本国のはじまりは、天孫降臨である。

「筑紫の日向の高千穂のクシフル峯に天降りましき」

            (古事記:神代巻)

日本書紀にも、同類の記事が何回も出てくる。

敗戦後、皇国史観はすっかり姿を消した。神話は史実とは関係なく、六世紀以降の作り話とする津田史学が主流となった。

しかし、時代はすすみ、文献と考古学的多角的実証による考察の時代となった。神秘的な神の歴史ではなく、人間の歴史として考える時代に変わっている。

古事記や日本書紀には、この天孫降臨の時代に活躍する人間が、銅矛や銅戈を使用していることが記載されている。

したがって日本に金属製品が存在するのは、弥生時代であるから、BC200年~AD300年の話である。

考古学の調査で、弥生時代の埋蔵品の銅矛や銅戈が最も多く出土するのは、九州北部である。



また銅器の鋳型の出土も、九州北部が多い。



したがってこの神話は、筑紫の國で弥生時代につくられたものと考えられる。

今までは、熊本・宮崎県境の高千穂町や、高千穂峰が候補地といわれてきた。



しかし福岡県の糸島郡誌には、高祖山連峯の中に日向峠があり、この一帯は日向と呼ばれていたと記載されている。


古事記の文章の「筑紫の日向の高千穂のクシフル峯」は、上の図の高祖連峯そのものである。




このクシフル峯で、二二ギ命が語ったという言葉(古事記)の冒頭は、「此の地は韓国に向かい、・・・」である。
このセリフは、文字通り九州北部をさしている。

地名と銅矛、銅戈の出土が一致することから、六世紀の作り話などではなく、弥生時代の筑紫の郷族が語った物語と考えるべきである。

神話になったのは、それこそ「スター」という天空=上からのポジションから視聴者を虜にする、俳優的な神様が適任なのだろう。

 (古田武彦説の要約)

2020年9月11日金曜日

景徹玄蘇和尚と河津家{八重さんの子孫}(改訂)


わが郷土で生まれた景轍玄蘇和尚は、秀吉、家康の時代
に対馬藩の外交僧として、日韓外交に大活躍をした人物であるが、のちに活躍するの雨森芳州ほど知られていない。



玄蘇の生まれは古賀市と福津市の境付近にある飯盛山や亀山城の城主河津家である。父と兄は宗像氏貞について忠節をつくした有名な武将である。


兄は、宗像氏貞が立花道雪にやぶれて、色姫を人質に出したとき、道雪の命令で暗殺されている。

当時の宗像VS立花の戦は、大友氏と大内氏の対立戦線であった。

宗像氏貞も若くして病死し、上八の承福寺の麓の山に眠っている。










河津一族の九州での本拠地は福津市の亀山城(現在の亀山神社)であったといわれる。



その祖先は伊豆の伊東、河津兄弟は、あたりの豪族であった。 
その代表は伊東祐親で、源頼朝が最初にその娘(八重)に近寄ったことで知られている。
祐親は出来た子供を殺し、娘を別の豪族に嫁がせた。
八重姫は、入水自殺をしたとつたえられている。

今年の大河ドラマ「鎌倉殿と13人」でも、最後は川で流されて死亡した。


八重姫を祭る真珠堂

伊東荘を領する工藤祐隆嫡男であった父・伊東祐家が早世すると、祖父・祐隆(法名・寂心)は後妻の連れ子である継娘が産んだ子(その実父は祐隆本人ともされる)である伊東祐継を養子とし、嫡男として本領の伊東荘を与え、同じく養子にした孫の祐親には次男として河津荘を与えた。
嫡孫として約束されたはずだった総領の地位を奪われたことに不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・祐経が上京している間に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせた自身の娘・万劫御前とも離縁させてしまった。

これを深く恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、郎党に命じて狩りの場にいた祐親を襲撃させる。刺客の放った矢は祐親を外れたが、共にいた嫡男・河津祐泰は射殺され、これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。

曽我は母の再婚先の姓で、河津が本来の姓であった。






祐親は、頼朝が政子に鞍替えして兵を挙げて勝利したのちは自決に追い込まれた。

伊東の弟で河津にいた河津家が、頼朝の時代に山口や九州に派遣された。







さらに京都にでて修行を積み、ついに博多の聖福寺の住職となる。聖福寺には、景轍和尚の遺品や文書が多く残されている。

太宰府の九州歴史博物館のオープン展示の時「仙巣稿」(景徹玄蘇撰;規伯玄方編3冊)が展示された。

有名な博多商人の神屋宗湛の妻は、玄蘇の妹である。

その後海外との人脈やすぐれた博識をかわれて対馬藩に抱えられ、当時朝鮮半島との外交の窓口であった対馬藩の外交僧となる。


最初の交渉は、秀吉の朝鮮出兵計画を中止させようと、小西行長らと事前工作をするがうまくいかず苦労する。秀吉の死後、家康の時代となり、戦後処理の交渉を引き受け、朝鮮通信使の外交を成功させ、家康からは最高位の紫衣を授与された。



対馬の厳原にある西山寺にその墓がある。
古賀市歴史資料館長の石井氏を中心にした有志らが、西山寺の墓参りをし、九州のお水をあげてきたことがある。


上八村の清水家の子が、玄蘇和尚の弟子となり、玄芳和尚として
対馬の以酊庵の第二世となって活躍していた。





桑野家の祖先墓には、玄芳の書の板碑が存在する。

河津一族の菩提寺は福間の正蓮寺である。




その近くには写真のような子孫の邸宅もある。

最近、吉住市議が、子孫の邸宅を訪問された資料を転載している。日清・日露戦で活躍した陸軍少将も河津家からでているようだ。




また家臣の井浦家、深津家の屋敷跡も存在し、歴史散歩コースになっている.

亀山は長慶天皇の御陵であった可能性があるという古文書が河津家には伝わっているという。




先日、宗像の上八にある承福寺をひさしぶりに訪ねた。
門前の階段や楼門まわりが綺麗になり、新しい 黒田文書の説明石碑が据え付けられていた。

埜村和尚さんは、鐘崎の魚まつりやさつき海岸の清掃 作業の行事にでかけられて、留守であった。 
地元の行事にひっぱりだこで忙しいらしい。



埜村和尚が最近出版された「やすらぎの禅語」の本を買って かえった。
日頃の活動は下記のブログで紹介されている。
http://www.jyofukuji.com/



 


河津俊夫さんは、承福寺で、当時の歴史講座をひらかれている。河津氏が保有される代々からの河津家ルーツ史料に裏付けられた、日本歴史学会の通説を覆すような解説は、聴衆を魅了したようだ。

2020年9月4日金曜日

糸島・西浦の妙見山の仏舎利塔と蒙古山記念碑

糸島には古代遺跡が沢山あり、近代遺跡はあまり注目されなかったらしいが、最近復活しはじめた。


 北崎の西浦漁港のほうから登れる妙見山には、インド政府から送られた仏舎利をおさめた塔が建設されているのに、いまや登山道も荒れはて、塔も藪のなかにうずもれかけている。わたしも西浦海岸には、何回もいったが仏舎利塔のことは全くしらなかった。観光案内や、地域マップにも記載されていない。

右側が妙見山、左は蒙古山

関係者が登山しても、1回目は見つからず、2回目にやっとみつけたという。


インドの緑化に貢献された杉山龍丸さんへの謝礼として贈られた仏舎利がこんな状況とは、残念なことである。


   杉山満丸さんたちのPRで 知られるようになってきた。

北端の蒙古山の記念碑も、老朽化して破壊していましたが、こちらは復興事業がおこり、令和4年に再建されたようです。

蒙古山は、なぜ蒙古山というかというと、昔蒙古山は外国から敵が攻めてきるときの見張り場所でした。頂上にのろし台があり蒙古軍という外国の軍隊が攻めてきたときこののろし台からのろしをあげて大宰府に知らせたのだろうということです。
大昔に蒙古軍が攻めて来ました。でも蒙古軍は、大風にあい全滅しました。そのしかばね(死体)を埋めたところが蒙古山といわれているそうです。
その霊をまつるために明治28年西浦の宗善三郎(そうぜんざぶろう)柴田範一(しばたはんいち)柴田茂平(しばたもへい)たち、村の有士(ゆうし)によって石碑(記念碑)が蒙古山山頂にたてられたそうです。山頂には、数個の大石が散在しており蒙古軍の遺物ではないかと言われています。


昔の石碑

倒壊した石碑




復興された石碑



志賀島には、元寇の戦を記念した蒙古塚がある。

西区毘沙門山から宮浦の妙見山が見える