2013年5月31日金曜日

田植えの時期

梅雨入りして、田植えの時期となった。
ため池の栓抜き、水引き作業が行われ、田圃には一面に水がはられている。吉住さんの写真で栓抜きの儀式の様子をはじめて知った。
          

2013年5月29日水曜日

龍造寺隆信、蒲池鎮漣を謀殺(天正9年5月29日)


  蒲池氏は筑後の名族で、かつて天文年間に龍造寺氏が浪人となって筑後へ赴いた際、鎮漣の父鑑盛によって保護されたという経緯があり、いわば大恩のある家でした。その縁で、隆信の娘が鎮漣に嫁いでおり、隆信にとって鎮漣は息子のような存在でした。
 ところが鎮漣は次第に隆信の強引なやり方に反発を強めて島津氏に接近したため、隆信は鎮漣の謀殺を企てました。
 隆信が政家に家督を譲り隠居するにあたって猿楽を興行するので、詩歌の道に堪能な鎮漣にぜひ出席して祝って貰いたいと告げました。
 鎮漣は初めは疑って返答をしませんでしたが、使者は執拗に食い下がり、鎮漣の母の取りなしもあり、また大村純忠の先例もあったことからついに鎮漣は佐嘉行きを決意、屈強の兵数十人に護衛させ総勢百三十名余りで佐嘉城へと向かいました。
 五月二十八日に佐賀城に着くと、政家は鎮漣を懇ろにもてなし、その日は何も起こらず夜は本行寺に宿を取ります。
 しかし翌日未明に寺を発ち、隆信の待つ須古へ向かう道中で異変は起きました。突然、四方から一斉に攻めかかられたのです。近くの家に入った鎮漣は驚く老女に自害するための行水の用意を頼むと、やがて主従三人で差し違えて果て、百三十余名の従者も一人残らず討ち死にしました。


 隆信は目的を遂げますが、このやり方には家臣からも疑問の声が上がる程で、やがては筑後国人衆の離反を招き、龍造寺氏の勢力は衰退していくことになります。

小早川と黒田

昨日の官兵衛を学ぶ会では、小早川と黒田は仲がよく、関ヶ原では黒田のすすめで小早川は石田を裏切ったという話であった。
秀秋と長政は仲が良かったが、隆景と官兵衛は戦ったことがある。
官兵衛が毛利から織田に転向したとき、隆景の水軍が播磨をせめて、官兵衛は応戦している。

2013年5月26日日曜日

父の25回忌

今日は父の25回忌を行った。
法要の開始時間を手帳には12時半と書き、カレンダーには13時と書いていた。すべりこみで12時半に間に合った。
認知症の前兆らしい。早めにみんなに連絡しておかなければ。

2013年5月25日土曜日

溥儀と広田弘毅

昨日ラストエンペラの映画をみた。
溥儀が僅か3歳で皇帝となった当時、広田弘毅は外交官としてはじめての赴任先が北京で、1907~1909年の2年あまり滞在した。


溥儀と面会できたか否かは不明であるが、恐らく紫禁城に幽閉状態の末期の清国皇帝だったから、面会は無かったであろう。
その後広田は国内勤務、アメリカ、オランダ公使、ソ連大使などを勤め、直接中国に滞在したことはなかったが日中友好派であった。
ただしソ連大使としては、満州国が日本の傀儡政府でなく、独立した新政府ということを欧米各国に認めさせることに貢献した。
この成果が評価されて、帰国後外務大臣として起用されるようになった。
しかし皇帝に担ぎ出された溥儀にとっては、独立国の実態は不満なものであっただろう。
1935年3月に溥儀が初めて日本訪問した時には広田は外相として何処かで顔を合わせている筈だだが、詳しい記録はないようだ。


筥崎宮社家末裔である葦津珍彦翁の半生記は私家版で作成部数は限られている。

 この本によると、広田弘毅が総理大臣になることを葦津耕次郎翁が強く反対していたという。
「政治家ではない、役人(外務省)であるとして。」
官僚、軍部に利用されるだけと言っていたそうだ。
身近で広田を見ていたからこそ、総理大臣就任反対を言えたのだろう。
就任した後はなるだけ早く辞めろと言っていたそう。

立派な銅像もなにか寂しそうである。
 

2013年5月23日木曜日

■【大友宗麟死去】天正十五年(1587)5月23日

大友宗麟が豊後海部郡津久見館で病したのは天正十五年(1587)5月23日。享年58歳。

 


 豊後大友氏二十一代当主・大友宗麟は享禄三年正月三日、大友義鑑の嫡男として豊後府内城に生まれました。
 しかし父義鑑は異母弟の塩市丸に家督を嗣がせようとしたことから内紛が起き、宗麟を支持する家臣に襲われて重傷を負い、塩市丸は殺害されるという事件が起きます(『大友二階崩れ』)。
 この内紛を鎮圧して家督を相続した宗麟でしたが、やがて周防大内氏の滅亡後に急速に台頭してきた毛利元就と北部九州や立花山で争いました。
 長らく一進一退の戦いが続きますが、毛利氏は元亀二年(1571)六月に元就が没すると九州から撤退、これにより宗麟は九州六カ国に及ぶ大版図を得ることになります。
 宗麟は天正元年(1573)、名目上は家督を子の義統に譲って後見役を務めますが、依然として実権は握っていました。同五年正月、島津氏に追われた日向の伊東義祐・義益が宗麟を頼って落ち延びてくると、両者に島津を討ち伊東氏の旧領回復を約束しますが、これが大友家凋落のはじまりでした。
 老臣たちの多くは反対しますが宗麟は聞かず、十月に大軍を率いて臼杵を出陣、日向へと入りました。十一月十二日、宗麟は耳川の戦いで島津氏に大敗を喫し、やがて義統との対立や田原親貫の反乱などもあり、往年の勢いはすっかり失われていきました。
 同十四年三月、島津氏の北上に窮した宗麟は上坂して豊臣秀吉に謁し、助けを求めます。やがて秀吉は島津氏征伐へと動きますが、同年十二月にはついに島津氏の軍勢が豊後丹生島城(大分県臼杵市)を囲みました。籠城した宗麟は「国崩し」と呼ばれる大砲を放って島津勢を撃退しますが、これが戦国大名としての宗麟が見せた最後の意地でした。
翌年には領国の大半が島津氏に奪われますが、秀吉の大軍の前に島津義久は降伏、九州は平定されました。
翌年五月三日、秀吉は義統に対して豊後を安堵、宗麟には日向一国を与えますが宗麟はこれを辞退、それから一ヶ月も経たないこの日、津久見で没しました。

筑前にたどる豊後大友の足跡をテーマ。
1)大友貞宗開基・名島顕孝寺
2)『蒙古襲来絵詞』筥崎社頭の大友頼泰
3)立花・宝満・岩屋と大友
4)大友宗麟従兄弟・筥崎宮座主麟清の事
5)房州堀、臼杵房州は実在するか
6)島津立花攻城戦の立花統虎
7)島津立花攻城戦時の大友与力・香椎大宮司
8)大友家中の宗像鎮続
9)宗麟・宗室・利休・種実
10)宗麟の博多教会(息の浜)・イエズス会の筑前布教と宗麟
11)宗像氏貞と大友宗麟
12)鎌倉期筑前と大友
13)大友筑前治政組織、博多東分職・西分職
14)大友博多東分職・立花山、西分職・柑子岳城
15)宝満城、岩屋城、古処山城など

2013年5月21日火曜日

石田三成と筑前


小早川隆景のあと小早川秀秋が名島城主となるが、朝鮮戦争での失政のため備前国に改易させられて、あとの筑前国を石田三成が管理することになる。
代理人による管理と思っていたが、石田三成は実際に1598.(慶長3年)6.16.に名島城に到着している。
しかしその2ヶ月後の8.18.に秀吉が亡くなり、急遽大阪に帰ってしまう。
半年後の1599.2.5.に再び小早川秀秋が名島城にもどってくる。
短期間ながら石田三成がいた名島城では、どんな改革が計画されていたのか、何も記録が残っていないのは残念だ。

その後関ヶ原の戦で敗軍の将となった石田三成。

その人生を主とした歴史番組を今週みた。
 敗者は悪者のイメージが強いのが慣わしであるが、幼少の頃からの英才であったのは確かである。
 有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。

追記:
福岡市史の中世資料編「豊臣期」と、同『島井家資料』の二ヶ所では、年次の推定が異なっていたが、その理由について市史編纂纂室の調査結果ではつぎのように報告されている。

石田三成の九州下向は
 ① 九州平定時   ② 文禄の役   ③ 秀吉の臨終前後

 
①九州平定時は博多が復興の途上の時期で長い期間滞在。     (除外)

②文禄の役。天正二十年三月下旬には名護屋にいるため、
  来る(五月)二十七日・二十八日にここもと下向との記述と齟  齬する。


③慶長三年は秀吉存命中と没後に一度づつ九州へ下向している。
史料は五月であるため、秀吉存命中の下向となるが、三成と九州に同行した是斎重鑑の日記に、三成が五月二十九日に京を出発して筑前に下ったとの記述がある。

①~③の考察により、史料は天正二十年ではなく慶長三年に比定される。
『資料編中世1』に天正十五年とあるのは誤植であり、天正十四年が正しい。『資料編中世2』に附属している正誤表に記入がある


2013年5月20日月曜日

悟り

世界的思想家の釈迦、キリスト、孔子、ソクラテスなどの共通点は、その思想を文字で残していないことである。

文字で残されたものは、その弟子たちが書き残したものである。
悟りの世界は対話の中に存在し、文字になると固定化されて
ユニアンスが変わってしまうという。
人間の悟りはゆらぎに中にあるのだろう。

2013年5月19日日曜日

殿様道

黒田の殿様が相の島に朝鮮通信使を泊めて、会いに行くときは津屋崎港から渡っていた。
しかし中期からは新宮の湊から渡るようになり、和白から美和台、人丸神社経由の新しい殿様道をつくった。
今日はボランティアのガイドでその道を歩く日だったが、雨のため中止した。車でたどってみたら大体わかったが、あとで義弟に確認してみよう。

2013年5月18日土曜日

言葉の力

最近また慰安婦問題などで政治家の失言が多発している。
猪瀬直樹は「言葉の力」で、「霞が関文学、永田町文学を解体せよ」と強調していた。
しかしイスラム問題で本当のことをいって、東京オリンピックをつぶしそうになっている。
政治家は霞が関や永田町の文学を少し学ぶ必要があるのかな。

石田三成

関ヶ原の戦で敗軍の将となった石田三成。その人生を主とした歴史番組を今週みた。
敗者は悪者のイメージが強いのが慣わしであるが、幼少の頃からの英才であったのは確かである。
、有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。

2013年5月14日火曜日

邪馬台国の傍国(支惟国)

邪馬台国の傍国は30余りあり、その中の最後のほうに、支惟国(キイコク)が記載されている。
江戸時代には、キイという音から豊前の築城郡とする説を新井白石がだしている。
宮崎康平は、大宰府から鳥栖のあたりの基山地区(基肄城)とする説をだしている。
今日たまたま資料を見ていた義弟は、素人ながら豊前に親類がいるので、築城町でないかという説をとなえた。
豊前の京都郡が邪馬台国だという説もあるのだから、支惟国(築上郡)は傍国のなかでもウエイトの高い傍国であろう。

2013年5月13日月曜日

平安・鎌倉時代の博多古図

今日のテレビで、平安時代や鎌倉時代の博多古図の地名を訪ねる番組があった。
中世初期の博多
櫛田神社の周辺には唐人が住む唐房地区があり、輸入した陶磁器類の廃棄場所がみつかっている。
また長浜は今の海の中道のような細長い砂浜であった。

美野島は蓑島という島で、いまでも岸にあった弁財天の鳥居と社がある。
南区の塩原(汐原)は海岸で塩を焼いていた地名の名残である。
住吉神社や櫛田神社も海岸近くにあった神社で、参道は海につうじていた。などなどがこの地図からよめる。
鎌倉時代の元寇防塁により、港湾都市としての構成も確立した。

その後の貿易港としての発展は、足利、戦国、豊臣時代まで続き、いろんな記録が残っている。
連歌師 宗祇 筑紫道記 より
フロイス 日本史 より


獅子の時代

幕末と明治維新の時代をとりあげた大河ドラマ。現在八重の桜が上映されているが、昭和55年に獅子の時代というのがあった。山田太一の原作という。幕府側と新政府側に架空の主人公をたてて、平等のウエイトでドラマを展開したそうだ。
いま考えると面白そうな発想だが、当時はまだ働き盛りで全く記憶に残っていない。

2013年5月12日日曜日

椎木講堂

九州大学は来年11月、消費者金融の三洋信販創業者で、しいき教育文化振興基金会長を務める椎木正和氏から数十億円の寄付を受け、伊都キャンパス(西区元岡)に新しい講堂を建設中。昨年11月に起工式が行われ、完成予定は来年年2月の予定。
3000人以上を収容できる大講堂が完成し、学内で入学式や学位授与式ができるようになるという。
椎木氏は行橋市出身、1928年2月20日生まれの83歳。旧九州工学校ご中退後、46年に日本国有鉄道門司鉄道管理局に入局。49年に福岡市警察局警察官に。
59年に三洋商事(三洋信販の前身)を創業、72年三洋信販社長、98年から代表取締役会長などを務めた。
しかし過剰請求による利息の返還問題などの影響で経営が悪化。07年に三井住友グループのプロミスによる買収を受け入れ、同年に経営から手を引いていた。
文化振興に関しては、三洋信販時代から活動しており、大分県別府市に著名なピアニストのアルゲリッチ氏を招へいし、毎年音楽祭を開いている。卒業生でもない大学への多額寄付金は異例のことだが、資本主義社会での成功者としての模範的行為である。

2013年5月11日土曜日

行動力

今日の小説家の林真理子と建築家の隈研吾さんの対談は面白かった。いろんな発想でチャレンジする、失敗してもすぐ忘れる、そんな共通点があった。

2013年5月10日金曜日

為政者と文化

倭国時代の卑弥呼は鬼道を行い、よく衆を惑したという。
大和朝廷は大陸からの仏教文化をとりいれた。平安時代には和歌や雅楽が貴族の嗜みとなった。
鎌倉時代の武士は禅宗を文化・教養の基とした。ただ座ればできるからだった。
信長・秀吉の時代の武士には、茶の湯が文化・教養として取り上げられた。ただ飲めばよいからである。
下克上の時代には単純な文化・教養かが採用された。

2013年5月9日木曜日

北平と北京

 いまの北京は、秦・漢の時代に北平と呼ばれていました。
その後中都(金)→大都(元)などと王朝によって名前を変えていきます。明の時代に北平に戻ります。
北平を治めていた王が皇帝に反乱を起こして永楽帝を名乗り、当時首都であった南京に対して北平をはじめて北京と改名しました。(1421)
 中共内戦の時代、中華民国の蒋介石が首都を南京とし、北京を北平と改称しました。
 戦中派のわたしには北平は懐かしい名前です。
そして共産党が政権を取ったら、また北京の名前に戻りました。
日中友好時代にはこんな切符もありました。

北京がまた北平にもどる時がくるでしょうか?

2013年5月8日水曜日

古賀市の広報誌

5月号は馬具出土を特集するということだった。しかし見てみるとまだ何も記載がない。6月に変更されたのか?石井先生に確認しよう。

2013年5月7日火曜日

思いどおりの死に方

こんなタイトルの本を古賀さんから教えてもらった。拾いよみすると、なかなか面白い内容が点在している。
早速楽天で購入しよう。

2013年5月6日月曜日

どんたく

今年のどんたくは2日とも晴天で、にぎわったようだ。
昔の松囃子の祭りが、いまや全国から200万人も集まるようになった。
平和の有りがたさだ。福高の同窓会でも毎年大勢くりだすクラスがいるようだが、われわれの時代は戦時中で、抑えられていた。
かって家内のフラダンス出演を追っかけたことがあるが、その後は殆どでかけていない。
今年もゴルフと重なってパスした。来年はゴルフの方をパスしよう。

2013年5月4日土曜日

超長寿社会

日本の100歳以上の高齢者は、ついに5万人を突破したそうだ。
うちの父が米寿の時は、市からお祝いの厚い座布団がとどけられたが、今は私の米寿に対してなんの連絡もない。超長寿社会である。

2013年5月3日金曜日

古賀市と騎馬民族


古賀市谷山の船原古墳の近くから、馬具一式が出土し、国宝級と騒がれている。


初期の説明会:わが夫婦の姿も奥にみえる。

古代から馬とのかかわりが大きかった場所らしい。
近くのグリーンパークの周辺には馬渡・束の浦遺跡、馬渡という地名や馬渡橋があり、ヒンドウという字名もある。
馬渡・束ヶ浦遺跡では3基の甕棺が出土し、中から青銅製品が発見された。古賀市付近はいわゆる「甕棺文化圏」の東限にあたるものと思われている。
甕棺

古賀ICの近くには馬違池があり、その北側には福岡県馬術競技場がある。



江上波夫の「騎馬民族国家」論では、5~6世紀の古代に騎馬民族が多数渡来してきて、まず北部九州に上陸して古賀周辺に駐屯したであろうという。馬のいななきが、犬鳴き連山にこだまして、この山の名前となったという説もある。
近代の日本人が明治時代の脱アジアや戦後のアメリカ化のような急変化を行ったように、5~6世紀の倭人も、騎馬民族の強力な文化に刺激されて、馬力とその文化の導入に傾倒したのであろう。


戦闘用具の出土品も、当地と周辺地域から多く存在している。

2013年5月2日木曜日

筑後川の名称


連休で原鶴温泉にでかけた。丁度連休の谷間だったので、客も少なくゆっくり出来た。
宿の浴室の一つに「千歳の湯」と名付けられたのがあった。聞いてみると筑後川は、かって千歳川、筑間川などとよばれていたという。
公式名称は、寛永15年(1638)に徳川幕府により「筑後川」と呼ぶようにきめられた。
一番古い名前はちとせ川(千年川・千歳川)である。
藤原清長の選による和歌集(1310)には、
「君か為かきりもあらし千とせ川 ゐせきの波のいくめくりとも」
という明峰寺入道摂政の歌がある。
そのほか、中村梅鳥の「仲秋千年川に舟を浮ぶ」の漢詩
       蝶夢の「菜の花の色もはてなし千歳川」の俳句
などがある。
 現在も菜の花の色ははてなしである。

筑間川という名称は、筑前と筑後の間を流れる川だから、という意味をもたせた名称だ。
そのほか、筑紫次郎、一夜川などの呼び名もあった。
地元には千歳小学校があり、義弟の母校であることを思い出した。

2013年5月1日水曜日

みちのくの仏

畿内からみて、みちのくは東にあたり、瑠璃光の世界である。仏教では薬師如来のすむ浄土である。みちのくには奈良、平安時代から多くの薬師如来像が祀られているようだ。