2011年8月26日金曜日

筑紫大宰(更新)

大宰府といえば菅原道真の天満宮のある場所と考えるのが現代人である。
ヤマト朝廷が成立したあと、西の都(遠の都)に設置された政府機関の歴史が次第にうすれているので、関係した人物をあげながら、まとめてみる。
新元号が「令和」となり、その出典が、大伴旅人らの万葉集となったことで、にわかに大宰府が脚光をあびているが、その時代は大宰府がスタートして120年後のことである。
◆ 小野妹子の時代よりはじまる。
607年に隋に派遣された小野妹子が、唐の使者裴世清を伴って筑紫に帰国した。
推古王朝は唐客の来日を機会に、筑紫大宰を筑紫に設置し、一行を大和飛鳥に送りとどける前の応対拠点での官職とした。この官名は筑紫卒、筑紫師、筑紫大宰など変化し、約一世紀間存在したが、氏名が明らかな人物は十名に満たないし、白村江以後に集中している。
◆蘇我日向
祖父は蘇我馬子、父は蘇我倉麻呂だが、644年に中大兄皇子が婚約した娘と密通した。しかもその娘の父石川麻呂が皇子を暗殺しようとしていると讒言して自殺に追いやった。
あとでこの虚言がわかり、中大兄皇子は、日向を筑紫国に筑紫大宰として任命した。世間ではこれを隠し流しと称しており、あとでも同じような事例が多い。
のちに日向が孝徳天皇の病気平癒を願って筑紫に建てた寺が大宰府の武蔵寺(筑紫般若寺)といわれ、九州最古の寺である。
◆斎明天皇の時代
660年百済救援のため斎明王朝の首脳は、飛鳥から筑紫に移動し博多湾に近い那津(岩瀬)の行宮から筑後川の中流の朝倉までを前線基地の範囲とした。
筑紫大宰はその中間地点の大宰府にいた可能性はある。当時の筑紫大宰師は安倍比羅夫という。
◆蘇我赤兄
669年に蘇我赤兄は筑紫率に任命されている。有間皇子の変に関係していたとして、左遷されたといわれている。しかし中大兄皇子が有間皇子を除くために赤兄に指示して挑発させたという説と、赤兄が単独で有間皇子を陥れようとしたという説があり、真相は不明だ。この年に藤原鎌足が死亡して政局も変化し、短期間で都にもどり、左大臣に任命されている。
◆栗隈王
敏達天皇の孫といわれている。672年壬申の乱当時の筑紫太宰であった。
栗隈王はかって大海人皇子のもとについていたので、大友皇子の使者がきて、筑紫の兵を大友皇子の援軍に出さなければ殺すとといった。栗隈王は、筑紫の兵は国外への備えを理由に出兵を断り、退く気配がなかったので、使者は引き下がった。
「筑紫国は以前から辺賊の難に備えている。そもそも城を高くし溝を深くし、海に臨んで守るのは、内の賊のためではない。今、命をかしこんで軍を発すれば、国が空になる。そこで予想外の兵乱があればただちに社稷が傾く。その後になって臣を百回殺しても何の益があろうか。あえて徳に背こうとはするのではない。兵を動かさないのはこのためである。(現代文訳)」というのが書紀が載せた栗隈王の言葉である。乱のあと675年には兵政長官に任命された。
◆その後、屋垣王、丹比嶋、栗田真人、河内王、三野王、石上麻呂などの名前が700年までに見える。
◆大友旅人と山上憶良
727年に大宰帥として大宰府に赴任したようだ。この任官は長屋王排除に向けた藤原氏による左遷と見る説が多い。この一年前に山上憶良はすでに筑前守として赴任しており、歓迎の宴で歌を披露している。二人の和歌を通じての交流は有名である。
◆藤原広嗣
 740年藤原宇合の長子である広嗣は、父たち4兄弟の病死により、橘諸兄が政権を握ったため、大宰少弐に左遷された。これに不満をもち中央の僧玄昉たちを除こうとして大宰府を根拠に挙兵したが、北九州で戦いに敗れて新羅に逃げようとするが、五島列島沖で捕らえられて斬殺された。
◆吉備真備
760年頃藤原仲麻呂は新羅征伐を計画した。当時仲麻呂に疎遠にされて大宰大弐を務めていたのが、唐仕込みの軍学者吉備真備である。仲麻呂の命で軍備をすすめるが、地元の負担や、防人の苦労などに配慮して、ゆっくり5年ほどかけて舟や兵士の増強をはかった。そのうち仲麻呂の政権運営がいきずまり、新羅征伐も中止となり、吉備は復権して京都へ帰ることができた。

2011年8月24日水曜日

筑前の大人物(更新)

明治維新では、薩摩、肥前から大物政治家が輩出したが、筑紫からは保守的黒田藩の影響で、名をなした人物は皆無であった。

広田弘毅銅像
昭和以降はじめて総理になった広田弘毅は、戦犯となって悲劇の最後をとげた。中野正剛も敗戦前に東条と対決して割腹自殺をはかったし、後輩の緒方竹虎は総理目前で病に倒れた。

自民党最後の総理となった麻生太郎は、短命の幼稚内閣で自民党をつぶしてしまった。

現在自民、民主を見渡しても、総理をねらえるような人物は見あたらない。
また次の総理候補の顔ぶれをみても、日本の復興・再建をリード出来そうな人物は無さそうだ。

財界に目を転じると、国や公共のために、多額の寄付や事業をした財界人がいる。
戸畑に明治工業専門学校(現九州工業大学)を設立した安川・松本兄弟、 久留米に石橋美術館を設立した石橋家、宗像に大学敷地を寄付た出光家などがある。
安川敬一郎
現在では、ソフトバンクの孫正義社長がいる。
東日本大震災に個人で100億円を寄付し、引退するまでの役員報酬の全額寄付も表明、過去の財界人よりもはるかに多い金額で、世間の度肝を抜いている。
しかも、3/11の日本の災害でおきた電力不足をおぎない、ポスト原発を実行するため、創業以来はじめて本業とは違う『太陽光発電事業』の推進に力を入れると表明した。
本業のソフトバンクは増収増益で順調だが、片や目の前で嘆き苦しむ人たちが大勢いる中で、自分たちだけ利益を出し続けていていいのかと非常に疑問を抱き決心したという。


政治家以上に救国の精神である。かって森鴎外が小倉時代に、九州の炭鉱事業主たちが豪遊しているのを目にして、「われをして富人たらしめば」の一文を新聞に投稿し、警鐘をならしたというのを思い出す。

2011年8月23日火曜日

政治改革

二千年の日本史のなかで成功したした政治改革は、大化改新、明治維新、敗戦改革の3回だけだと、ある歴史家がいっている。
その理由は、外圧による国難のときだけ、政治家や国民の意思が一致するからで、それ以外の改革は、王朝内部、幕府内部、政府や政党の争いで短期間に終わり、大きな成果をあげられないうちに終了している。

今も政府の状況をみていると、千年に一度の国難的な大災害が発生しているのに、政府内部や野党との争いと駆け引きばかりに振り回されていて、全く改革が出来上がらない状態であり、この歴史家の法則は成立しているようだ。
島国根性をなくし、客観性のある国民感情は、どうしたら育てられるのだろうか。

2011年8月22日月曜日

江戸期の最高峰磁器が出土 (大阪)、佐賀藩屋敷跡

日経新聞:8月22日
大阪市北区の佐賀藩蔵屋敷跡から、江戸時代最高峰とされる同藩特製の磁器「鍋島」が約350点出土したことが、22日までの大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で分かった。
大阪市西区の佐賀藩蔵屋敷跡で見つかった磁器「鍋島」=大阪市博物館協会大阪文化財研究所提供・共同
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大阪市西区の佐賀藩蔵屋敷跡で見つかった磁器「鍋島」=大阪市博物館協会大阪文化財研究所提供・共同
 蔵屋敷は、領内の年貢米などを保管する倉庫と、参勤交代などの際に藩主が滞在する屋敷も備えた施設。出土品の一部は表面に細かな傷があり、スッポンの骨なども見つかったことから、同研究所の市川創・学芸員は「鍋島のセットを使って藩主が宴会をしたのかもしれない」と想像している。
 同研究所によると、鍋島は佐賀藩主の鍋島家が将軍などへの献上を目的に、採算度外視で作っていた磁器。一般にはほとんど流通せず、遺跡から多量に出土するのは非常に珍しい。
 見つかったのは、直径約10~30センチほどの皿や猪口(ちょこ)など。「尺皿」と呼ばれる大皿には桜と流水が描かれ、竜の姿がひげまで精緻に描かれた小皿や、朝顔を色絵で描いた皿もあった。
 建物の廃材などと一緒に見つかっており、1724年に起きた大火災で焼けた後、廃棄されたとみられる。出土品は大阪歴史博物館で10月3日まで展示中。〔共同〕

天皇家の婚姻政策

小学生時代に、天皇家は万世一系と歴史で教わった。
しかし現在ではそうでないことは明らかになっている。
そして、天皇家と婚姻関係になって、政治の実権を手にした家系がいくつかあることも、知られてきた。
蘇我氏、藤原氏、平家(清盛)などである。
それ以前にも、婚姻関係になって自ら天皇となった継体天皇がいる。
も少しで天皇になるところだったのは道鏡だ。
武家社会となると、絶縁状態が続いたが、江戸末期の公武合体などの試みもおこなわれた。
明治維新後は、皇族という人種につつまれた婚姻政策がとられた。
昭和の戦後、民間人との婚姻関係がつづいているが、政治の実権とはかけはなれているので、問題はなさそうだ。
筑紫の豪族で婚姻関係があるのは、宗像(胸形)君徳善の女、尼子娘が天智天皇の妃となったくらいであろう。

2011年8月20日土曜日

海の細道をゆく

NHK福岡放送局の番組で、「海の細道をゆく」の番組を放送しています。
俳聖・松尾芭蕉が「奥の細い」に続く旅として、大阪で急死していなければ、芭蕉と去来で、西国(大阪から長崎)の旅を目指したと云われています。
熊本出身の俳人の長谷川櫂さんが、芭蕉の夢を引き継ぐ形で西国(中国・四国・九州)をめぐる旅を始めます。「おくのほそ道」は陸路の旅でしたが、西国は琵琶湖、淀川、瀬戸内海、玄界灘など、航路を辿る【海の細道】の旅です。
長谷川さんは西国各地を訪ね、今年1月から読売新聞に俳句と紀行文を連載中で、番組ではこの連載と連動して、長谷川さんと共に各地を訪ね、歴史や文化、美しい風景を交えながら、俳句などを紹介していく予定です。
すでに第4回まで放送され、現在盆休みに再放送中です。
第1回 芭蕉の夢
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/umi/map/map01.html
第2回 旅立ち(大阪、神戸、明石)
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/umi/map/map02.html
第3回 扇の的(屋島、白峰、象頭山)
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/umi/map/map03.html
第4回 ヒロシマへ(呉、ヒロシマ、厳島)
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/umi/map/map04.html
今後の番組が楽しみです。来年の大河ドラマ「平清盛」にもつながるテーマですね。

筑紫と大和・京都・江戸・現代の歴史

1)筑紫の国と大和の歴史
神話や魏志倭人伝の歴史は筑紫の地から始まる。
天孫降臨、卑弥呼、神武天皇、景行天皇、仲哀天皇・神功皇后と應神天皇などの神話が多い。
加唐島には百済の武寧王との縁もある。




527年継体天皇の時代に磐井の乱がおこり、筑紫に大和支配の拠点ができた。528年に糟屋屯倉、536年に大宰府の前身の那津宮家が設置された。

602年に百済支援のための出兵で聖徳太子の弟来目皇子が糸島まできて亡くなった。
聖徳太子の話もあるが、道後温泉までが現実らしい。

蘇我日向の祖父は蘇我馬子、父は蘇我倉麻呂だが、644年に中大兄皇子が婚約した娘と密通した。しかもその娘の父石川麻呂が皇子を暗殺しようとしていると讒言して自殺に追いやった。
あとでこれが虚言がわかり、中大兄皇子は、日向を筑紫国に筑紫大宰として任命した。世間ではこれを隠し流しと称した。
のちに日向が孝徳天皇の病気平癒を願って筑紫に建てた寺が大宰府の武蔵寺(筑紫般若寺)といわれる。

661年に百済支援のための出兵で斎明天皇が筑紫まで行幸して亡くなった。
663年白村江海戦で敗北した大和は、大宰府を拠点に防衛都市の構築をはじめ、大野城、基肄城、水城などを築き、防人を配備した。

669年に蘇我赤兄は筑紫率に任命されている。有間皇子の変に関係していたとして、左遷されたといわれている。
しかし中大兄皇子が有間皇子を除くために赤兄に指示して挑発させたという説と、赤兄が単独で有間皇子を陥れようとしたという説があり、真相は不明だ。
この年に藤原鎌足が死亡して政局も変化し、短期間で都にもどり、左大臣に任命されている。

栗隈王は敏達天皇の孫といわれている。672年壬申の乱当時の筑紫太宰であった。
栗隈王はかって大海人皇子のもとについていたので、大友皇子の使者がきて、筑紫の兵を大友皇子の援軍に出さなければ殺すといった。栗隈王は、筑紫の兵は国外への備えを理由に出兵を断り、退く気配がなかったので、使者は引き下がった。
乱のあと675年には兵政長官に任命された。



『日本書紀』天武天皇二年(673)に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、宗像族と大和の縁を記述している。

7世紀後半に大宰府の都市としての22条12防の構築、周辺の12寺院建設などが進められ、大宰府が筑紫の統治、辺境の防衛、外交の窓口となった。

740年、藤原広嗣は藤原宇合の長子であるが、父たち4兄弟の病死により、橘諸兄が政権を握ったため、大宰少弐に左遷された。これに不満をもち中央の僧玄昉たちを除こうとして大宰府を根拠に挙兵したが、北九州で戦いに敗れて新羅に逃げようとするが、五島列島沖で捕らえられて斬殺された。

760年頃藤原仲麻呂は新羅征伐を計画した。当時仲麻呂に疎遠にされて大宰大弐を務めていたのが、唐仕込みの軍学者吉備真備である。仲麻呂の命で軍備をすすめるが、地元の負担や、防人の苦労などに配慮して、ゆっくり5年ほどかけて舟や兵士の増強をはかった。そのうち仲麻呂の政権運営がいきずまり、新羅征伐も中止となり、吉備は復権して京都へ帰ることができた。

769年道鏡の皇位事件がおこる。和気清麻呂は宇佐八幡宮におもむき、先の神託を偽りと報告したので、道鏡の野望がはくじかれた。


鴻臚館の名が文書にあらわれるのは、入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述や、838年:承和5年(838年)に第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したという記述で、正式には、842年:承和9年(842年)の太政官符に鴻臚館の名が記載されている。







2)平安時代:

平清盛は大宰府の大弐になり、晩年には平家の本部を九州に置きたいと2回も足をはこんでいる。

 安徳天皇を戴いて京都を脱出した平家軍は、最初に九州の大宰府まで移動して都を開こうとしたが、失敗して屋島にもどっている。
当時の遺跡としては、遠賀川河口の芦屋に御座所跡の石碑があり、大宰府に近い那珂川町の安徳台の御座所跡も有名である。

その後源頼朝の意思に反して、義経は壇ノ浦まで軍をすすめて、平氏を全滅させ、安徳天皇を入水に追い込んでいる。

3)鎌倉時代:

筑紫には朝廷直属の大宰府があり、当初は頼朝も大宰府に遠慮して平家側武家の統治だけを弟の範頼に命じたが、問題が多発した。
そこで範頼をよびもどし、かわりに中原久経と藤原国平を派遣して地ならしをし、鎮西奉行職をもうけて、腹心の天野遠景を任命した。
次第に大宰府の権限を取り込んでいくが、天野の武断政治のいきすぎが多く問題となった。
そこで全国に守護を配するときに、武藤資頼と中原親能の二人制として、筑前・豊前・肥前と筑後・豊後・肥後の守護を担当させた。少しあとに島津忠久を南部の大隈・薩摩・日向の守護に命じ、九州の御家人統率体制が出来上がった。

さらに武藤資頼を大宰少弐に任命することに成功し、公武二本立てだった九州支配が、鎌倉幕府側の支配下になった。

武藤の子孫は少弐を世襲し、それが氏名となって戦国時代まで続いている。また中原の氏名は大友にかわり、九州は三人衆少弐・大友・島津が割拠する武家の時代


元寇の国難に際に多くの武家、豪族が集結したが、北条時宗が筑紫まで出陣したという史実はないようだ。
4)室町時代:
足利尊氏は新田とあらそい、一時敗れて筑紫の立花城や多々良浜までのがれ、兵を立て直して京にのぼり、新田や楠木を破って室町幕府をつくる。

5)安土・桃山時代:
豊臣秀吉は島津軍の九州北上を鎮圧するために、博多まで出陣して、博多の街の再建をおこなった。
また朝鮮出兵の際には、多くの大名を従えて唐津の名護屋城に陣取り、総指揮をとった。
徳川家康もこのとき唐津まできているが、徳川幕府を開いてからはきていない。

6)江戸時代:
幕末の混乱期に、岩倉具視・三条実美らの五卿が大宰府にのがれてしばらく滞在した。

7)明治以降:昭和で広田弘毅、平成で麻生太郎が総理となる。

2011年8月17日水曜日

毛利輝元の再評価(改訂版)

 
西国の将『毛利輝元』は、関ヶ原の戦いで石田三成に担がれて西軍につき、敗れて中国8ヶ国123万石から、長門周防2ヶ国30万石に押し込められた大名です。
 世の評判は『二代目殿様、凡庸な将』と、かんばしくありません。しかし、関ヶ原を終えた後、一変します。その行動が脈々とつながれ、明治維新の原動力になったともいえます。
 毛利家は減封の上に分裂抗争の危機にも陥りました。そんな中で輝元は、『今こそ自分の命を懸ける時だ』と感じます。直ちに髪を落とし、名を『宗瑞(ソウズイ)』と改めます。家督は幼い息子秀就に譲り、自らは家政再建の先頭にたちます。
 毛利家の家臣はほとんどが長門周防の2カ国に移住しました。知行取りの武士が2,600人、足軽が3,000人、陪臣が19,000人、合計25,000人。それだけを1/5になった領地で養うとなれば、各人の知行俸禄も1/5にせざるを得ません。

 毛利家を去る者はほとんどいませんでした。一つには、家康が毛利家の自滅を図って、他家が毛利の家臣を採用しないようにし向けたこともその原因です。
 そうであれば、宗瑞(輝元)も意を決して事に当たらねばなりません。この年冬から、毛利家の二代目は新たな戦い『財政再建』が始まりました。
 宗瑞はまず、倹約をしました。衣食を減じ遊興を慎しみ、次ぎには増税を。五公五民の年貢を、六公四民、ところによっては七公三民まで引き上げました。

 検地も厳しく実施し、隠し田を探して年貢を取り、畑地にも課税する。当然、農民の反発は強く、一揆も生じました。
 何より力を入れたのは新田開発で、武士足軽にも新田開発を勧め、帰農を促しました。稲の育たぬ所には、和紙の原料となる楮コウゾをはじめ、桑、漆、茶、梅、菜などを植えさせて、売れるものは何でも作る『稼ぐ武士』への転換でした。
 この結果、3年後の慶長8年・1603年には、旧領地での年貢先取り分15万石を福島政則らに完済することが出来ました。無論そのためには大阪や堺の町人からの借財は増えましたが、累積債務を一気に計上したことになります。
 宗瑞は毛利家の本拠地の候補地を、山口、防府、萩の三つの候補地を挙げ、幕府に示しました。幕府、本田正信が示したのは、不便で建設費用もかかる萩で、『毛利家は外交でも商業でも発展する必要はない。堅守に徹して生きられよ』との示唆でした。その後250年間、幕末の動乱まで毛利家はそのように生き続けました。
 そして腹を括った宗瑞は開墾新田の免税期間を3年から5~6年に延ばし、畑作を奨励し、武士にも開墾に当たらせました。検地には正確を期し、目こぼしする奉行を厳しく罰しました。『一族親類も目こぼしなし、一揆の起こるのも覚悟の上、怨みはこの宗瑞のみに向けよ』と一生一度の覚悟を決めました。
 慶長12年から17年まで、
5年を費やして行われた再検地の結果、長州周防の2国の石高は54万石弱に達しました。

 この数字を聞いて幕府の実力者本田正信も驚き、中をとって37万石を表向きの石高としました。関ヶ原負け組の毛利を、戦勝の功労者黒田長政52万石や福島政則50万石弱より上にしたくなかったのです。正式には毛利藩の石高は『36万9,411石』、これが維新の大原動力になったのです。

 毛利輝元は世では『愚鈍な大名』として描かれることがしばしばです。が、本当は自らが率先垂範できりもししたかったのですが、出来ない事情がありました。

 祖父元就には、隆元、元春、隆景の3人の男子に恵まれましたが、世嗣であった長男の隆元が急死し、争いを避けるため早々に隆元の長男輝元を毛利家の総帥とすることを決めました。
 ただし条件があり、それは吉川家に養子で入った元春、小早川家に養子で入った隆景の意見を尊重し、何事も決すべき、との元就の遺訓です。
 歴史上有名な信長・秀吉と毛利家の争いの戦場、『姫路・高松』の戦でも、輝元の思いと元春、隆景の考え方には相当の開きがあり、大決戦にまで力が及ばず、講和に至っています。
 歴史に「もし」はありませんが、もし姫路・高松の戦いで毛利が勝っていたら、もし輝元の方針がそのままストレートに関ヶ原で出されていたら、家康も関ヶ原では勝てなかったかもしれません。


 しかしそうはならなかった史実は、250年後江戸幕府崩壊の先頭にたって、輝元の13代後の藩主毛利敬親のもとで、村田清風や周布政之助らの財政強化策が実現し、木戸孝允、高杉晋作らの志士の活躍で薩長同盟が結ばれ、明治の維新が断行されたのです。歴史の皮肉、輝元の願いがかなった瞬間でした。
 現在の大赤字国日本の財政再建の道は、この輝元のとった道に見えてきます。
(参考: 堺屋太一著 『三人の二代目(毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)』  2011.5講談社刊)

2011年8月9日火曜日

刀伊の入寇

 日本は侵略国ではなく、侵略したり侵略されたりしてきた歴史がある。
約千年前の「刀伊の入寇」はあまり知られていないが、対馬、壱岐から筑紫まで侵略されており、当時のヤマト朝廷の無能力さを示した事件であった。
 有名な元寇の前にも侵略されたこの九州の歴史を、最近ローカルテレビで紹介されたので、その概要をまとめてみる。

1019年に、遼の配下の満州を中心に分布していた女真族とみられる海賊船団が、対馬、壱岐を襲撃して、老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。
 ついで筑前国伊都地域に上陸して殺戮し、さらに現在の福岡、博多東部まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。

これに対して、太宰権師藤原隆家が、九州の豪族や武士を率いて防戦し、どうにか撃退した。
 当時はどの国が侵略してきたのかよく解からなかったが、高麗政府は拉致された壱岐・対馬の島民を日本へ返還しており、高麗政府が関与していた可能性は薄いと考えられている。
 
 この非常事態を朝廷が知ったのは、隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後だが、朝廷は何ら具体的な対応を行わず、ほとんど再発防止に努めた様子はうかがえない。
 その上藤原隆家らに何ら恩賞を与えなかった。これらの朝廷の無策の影響で、その後武家の力が増長を示すこととなった。

2011年8月8日月曜日

九州学

九州嶋を研究する九州学という言葉があり、研究団体がある。
別のブログに紹介したことがある。
http://ereki.blog.ocn.ne.jp/441/2011/06/post_2e0d.html

2011年8月5日金曜日

筑前藩主:黒田長政(改訂版)

2011年8月4日木曜日

筑紫と天下人(改訂版)



筑紫の地から、倭国や日本の天下人とのつながりを眺めてみる。

古代:

神話や魏志倭人伝の中の天下人は筑紫の地から始まっている人物が多い。

天照大神、神功皇后と仲哀天皇、卑弥呼などなど。

日本史最初の大乱は、磐井の乱で、磐井の君と継体天皇の戦い。

奈良時代:

ヤマト朝廷の九州本部が大宰府に設置されてから、天下人やこれに準ずる人物が筑紫や大宰府までやってきたのをあげると、まず斉明天皇と中大兄王子の百済支援の出兵で、斉明天皇はこの地でなくなっている。聖徳太子の話もあるが、道後温泉までが確実らしい。

平安時代:

平清盛は大宰府の大弐になり、晩年には平家の本部を九州に置きたいと2回も足をはこんでいる。

源頼朝の意思で、範頼は九州まで源氏の軍をすすめ、義経は壇ノ浦まで軍をすすめて、平氏を全滅させ、安徳天皇を入水に追い込んでいる。

鎌倉時代:

元寇の国難に際に多くの武家、豪族が集結したが、北条時宗が筑紫まで出陣したという史実はないようだ。

室町時代:

足利尊氏は新田とあらそい、一時敗れて筑紫の立花城や多々良浜までのがれ、兵を立て直して京にのぼり、新田や楠木を破って室町幕府をつくる。

安土・桃山時代:

豊臣秀吉は島津軍の九州北上を鎮圧するために、博多まで出陣して、博多の街の再建をおこなった。

また朝鮮出兵の際には、多くの大名を従えて唐津の名護屋城に陣取り、総指揮をとった。

徳川家康もこのとき唐津まできているが、徳川幕府を開いてからはきていない。

江戸時代:

幕末の混乱期に、岩倉具視・三条実美らの五卿が大宰府にのがれてしばらく滞在した。

明治以降:昭和で広田弘毅、平成で麻生太郎が総理となる。