2015年5月28日木曜日

海軍記念日

日本海々戦で日本艦隊がロシア艦隊に大勝した5月28日。
私の子供のころは、多くの小学校の講堂に、東郷元帥が軍艦三笠の艦上で指揮をしている肖像画が飾られ、この日を記念して海軍記念日が行われ、福岡の箱崎八幡宮の海岸では毎年花火大会が開催された。
軍艦三笠と東郷元帥

大峰山東郷神社の地図
玄海灘に面した福津市の大峰山の東郷公園には東郷神社があり、軍艦三笠の砲頭型の記念碑があり、近くに当時の砲弾がかざられている。
北側の楯崎海岸は、江戸時代から風光明媚な場所で、筑前名所図絵にも描かれている。

軍艦三笠の記念塔




砲弾


筑前名所図絵 楯崎

私の父は当時10歳だったが、沖ノ島の方向からの砲声を聴いた記憶があるといっていた。
しかしこの大勝利は奇跡的なことだったのだが、日本海軍はその勝利の夢に酔いすぎて、日米戦争に突入してしまった。
この勝利でやっとロシアとの講和交渉に持ち込めた日本のは、最早戦争継続の余力はなかった。
この戦争では戦勝国も敗戦国もないというロシア側代表の言い分にたいして、日本は小村寿太郎の努力によってなんとか樺太南半分の領土と、捕虜7万人の返還経費5千万円を獲得できただけだった。
ただ日本の世論は、大勝利と思い込み、小村を国賊あつかいに評価したのが、その後の日本の進路を誤らせた。

南懐仁の大砲が筥崎宮に保管されている。


戦前は箱崎宮の海岸近くの参道に日露戦争に使われた巨大な大砲も備えつけられていた。
箱崎小では、この白浜で海水浴のときは、その大砲の前で記念写真をとっていた。




2015年5月24日日曜日

楫取素彦夫婦の銅像

製作された像
設置された像























 今年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主役である楫取夫妻の銅像ができたことは、以前ネットで知っていたが、その後どこに設置されのか、なかなか解からなかった。
 来月防府市を訪ねる計画をして本格的にしらべていたら、やっと今年3月29日に防府天満宮境内に設置されていることがわかった。老後を故郷の三田尻ですごし、近くの大楽寺境外墓地に二人の墓もあるそうだ。是非現地にいくことにしよう。
https://www.youtube.com/watch?v=-Gx3BWAKCq8

銅像設置の儀式
http://blogs.yahoo.co.jp/m_kobayashi_30/34788021.html

その後のニュースでは、前橋市のほうでも、楫取夫妻と地元の桐生市出身の星野長太郎・新井領一郎4人の銅像を年内に建設予定だという。
明治維新後に生糸産業やその輸出に貢献した人物としての顕彰の銅像のようだ。こちらは夫人が姉の寿ということらしい。

2015年5月17日日曜日

2015年5月14日木曜日

天保世代

            天保生まれの人物

天保元年(1830)     吉田松陰・大久保利通
   2年
   3年           坂本トメ(竜馬の姉)
   4年           木戸孝允        
   5年           前原一誠・近藤勇・岩崎弥太郎
   6年(1835)      坂本竜馬・小松帯刀・篤姫・土方歳三
   7年           井上馨 
   8年
   9年           大隈重信・山縣有朋
  10年                        高杉晋作
  11年 (1840)     久坂玄随
  12年           伊藤博文
  13年
  14年           杉文(松蔭の妹)
  
             その他の長州ゆかりの人物一覧は下記の表



長州の人物年表

2015年5月9日土曜日

松平秀康と忠直

家康の男子で跡をついだのは3男の秀忠。
長男信康は織田信長の意向で自害させられ、次男秀康は秀吉の養子を経て、関東の名族結城家10万石の当主となった。
九州には無縁の人物と思っていたが、その子孫は豊後に縁があった。
秀吉の没後秀康は家康に仕え、関ヶ原戦では、当初の会津攻めに参加し、小山評定のあとは宇都宮での防衛を命じられた。
当時はまだ家康は内心秀康に不安をもっていたし、秀忠に手柄をたててもらいたかったらしい。
だが秀忠が関ヶ原の合戦におくれる大失態を犯したので、兄の秀康の武功にたいし家康は、越前68万石の巨封を与え、松平姓が許された。
松平秀康
秀忠も兄のご機嫌取りに意を砕き、自分の娘を秀康の嫡子忠直の嫁とした。
かくして越前松平家は徳川御三家以外の「制外の家」との格付けとなった。
しかし秀康は悪病にかかり34歳で病死したので、嫡子忠直が13歳で後継者となった。
そのため、お家騒動が起きるなどしたが、大阪夏の陣では、忠直軍が真田幸村の軍勢を撃破し、城内に攻め込んで大成果をあげた。(今年の大河ドラマに登場するかな?)
ところが、家康からは初花の茶入れ、秀忠からは脇差と掛け物のみで、加増の恩賞がなかったため忠直はおおいに不満をもった。
平和な時代となり、江戸城内ではいつも御三家の風下に甘んじる待遇に不満がつのり、参勤交代を拒否したり、常軌を逸した行動が目立つようになった。
幕府もついに、家督を嫡子光長にゆづり、五千石で隠居することを言い渡し、豊後国萩原に配流された。
彼の賄領は府内藩のなかの大分郡の10村(秋岡・曲・津森・片島・羽田・下郡・千歳・山津・三川・乙津)と速見郡の2村(鉄輪・北石垣)であった。1村500石平均の時代だから此れ位だったろう。
のちにはさらに奥地の津守に移されて、27年におよぶ配流生活をおくり、57歳で没した。
松平忠直
ただし秀康のほかの子供たちはいずれも大名に取り立てられ、松平や結城の藩は、最終的には8藩あり、江戸時代をささえた。(越前・川越・糸魚川・津山・明石・松江・出雲広瀬・母里八幡)