2023年10月31日火曜日

鹿部山周辺「花鶴50年誌」

私が現在居住しているマンションからは、南側に鹿部山とその周辺の花鶴団地が一望できる。今年は花鶴開発50周年記念である。

私はその少し前に古賀に移住してきたが、花鶴の平野地区は、イチゴ栽培のビニールハウスが一面に広がっていた。 

「花鶴」という地名は伝教太師が地元の風景を見て表現したという通説と、布津留物部氏がいたので、華津留、華鶴、花鶴と変化したという説がある。

現在の花鶴団地地区は、50年ほど前に鹿部山の一部を削り平地化して造成された住宅地である。その造成時に下記図の9ヶの歴史遺跡が調査された。

5 田淵・神ノ上遺跡 6 鹿部・東町遺跡 7 皇石宮遺跡

8 鹿部山経塚      9 唐ヶ坪古墳群  10 浦口古墳群

11 日焼古墳群   12 権現古墳    13 播磨古墳群

花鶴団地の遺跡群


私が平成18年の古賀郷土史研究会で発表した「郷土の地名」の小字名には、古賀と鹿部の範囲に、これらの遺跡小字名が含まれている。花鶴団地地区の小字名は25ヶ位あるが、遺跡名以外で現在も残っているのは「石ヶ崎」位である。その隣の「唐ノ坪」は渡来人が住んでいたのか。「日焼」はまさにい南面の地形である。「古賀屋敷」「深町」「東町」あたりは、集落の繁華街であっただろう。

遺跡が多いのは、古代から花鶴川の河口地区に多くの住民が居住していた証拠である。

花鶴の小字名

花鶴団地の開発前は、JR沿線に製紙会社などの企業が存在していた時代があるが、移転のため環境が改善された。

それ以前の大正5年(1916)11月11日から14日にかけて福岡地方で陸軍特別大演習が行われた。
この演習に飛行機を参加させるために、埼玉県所沢から福岡県久留米に四機の飛行機を空輸による長距離移送に成功した。
大演習では、大濠城外練兵場と、古賀町花鶴の仮設飛行場の間で模擬航空戦が行われた。
古賀飛行場の詳細な資料は見当たらないが、いまのJR線沿いの花鶴団地あたりであったようだ。

現在の団地住民には、これらの歴史に関心を深めてもらいたいものだ。

参考資料西方浄土筑紫嶋: 鹿部山の歴史(皇石神社・浦口神社・鹿部山経筒):由緒石碑文と拝殿改修工事 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

2023年10月25日水曜日

イスラエルとパレスチナ

パレスチナは地中海の奥沿岸の地名であったが、いまはここに建国を希望するアラブ人の国名となっている。

 





そもそもパレスチナ問題はなぜ起きた?

パレスチナという土地には、2000年前に古代ユダヤ王国があったが、ローマ帝国に滅ぼされ、ユダヤ人は世界各地に離散した。その後16世紀頃にオスマン帝国領の一部になった。地区にはイスラム教のアラブ人が多く住んでいた。

しかし、第1次世界大戦後にイギリスとフランスによって委任統治領に切り分けられました。いわゆる植民地という位置づけになりました。こうした植民地は当時、パレスチナだけに限らず世界各地にあった。

特にアフリカ、アジア、中東といった場所に多かったわけですが、これらの国は第2次世界大戦後に植民地支配を脱して独立をしていきます。その際には、その現地の人々を主体とした国家が誕生するというのが基本的な流れでした。

19世紀末、欧州で迫害されたユダヤ人達は、パレスチナで国家再建を目指す「シオニズム運動」を起こし、イギリスはこれを利用して支持し、ユダヤ富裕層からの戦費を調達した。

このためパレスチナでは大量に流入してきたユダヤ人による国家が建設をされるということが国連の決議によって採択をされました。

パレスチナ全土ではなくて、パレスチナという土地を割って、分割をしてユダヤ人の国を作るということは,冒頭の記事のように、イギリスによる二重外交で決められたわけです。

アラブ人にも国家建設は認められたけれども、現地に、長らく暮らしてきたアラブ人にとってみれば、自分たちが植民地支配から脱したにもかかわらず、または脱する機会であったにもかかわらず、別の国家主体、自分たちの民族ではない国家が、アラブ地域に誕生してしまうことは不満でした。

これは認められないということで、ユダヤ人とアラブ人の間での民族的な対立というものがパレスチナの地で深まっていきます。

これに周辺のアラブ人を主体とするアラブ諸国が加勢する形で始まっていくのが、1948年の「第1次中東戦争」です。第1次中東戦争の結果、新たにできたユダヤ人国家、イスラエルは領土を確定させ、その領土の中にかつて住んでいたアラブ人たちが難民になるということで、戦争の結末を迎えたわけです。

この難民たちはパレスチナ出身のアラブ人でしたが、だんだん呼び方が変わっていって、パレスチナ人と自称するようになっていきました。当初はこのイスラエルの建国に対して、周辺のアラブ諸国が何度か争いを仕掛ける、挑みかかっていくということになりました。

1956年の「第2次中東戦争」、1967年の「第3次中東戦争」、そして1973年の「第4次中東戦争」と、国家同士の争いが続いていきます。しかし徐々に周辺のアラブ諸国というのは、イスラエルとの敵対関係というものを実動レベル、行動レベルでは示さなくなっていきます。

それは、イスラエルという国家が軍事的に非常に強固であること、また1979年にはエジプトがアメリカの強い仲介姿勢によってイスラエルと単独和平を結び、アラブ諸国の中での足並みが乱れてしまったという事情がありました。

この頃から、パレスチナ人が自ら政治組織を率いてイスラエルに対して闘争を挑むという時代が訪れます。その時に中心になったのは、パレスチナ人の代表組織PLOです。当初はヨルダンを拠点にしていましたが、1970年、ヨルダン政府がこのパレスチナ人の勢力が国内で活動することによって、国内情勢が悪化するということを理由に国外に追い出すということがありました。これは「ヨルダン内戦」と言われています。

ヨルダン内戦



それから1982年までの間、PLOはイスラエルの北にあるレバノンを拠点にしながら、イスラエルに対してゲリラ兵士の潜入であるとか、越境攻撃などを行っていたわけです。そして1982年、イスラエルはレバノンに部隊を派遣し、「レバノン戦争」と呼ばれるものが起きます。

この時にイスラエル軍は、首都ベイルートを包囲し、PLO部隊に対して同国からの退去を要求しました。このあとPLOの部隊は、イエメンやチュニジアなど、中東各地に散らばっていくことになります。結果として、パレスチナ人が続けてきた対イスラエル闘争というのは、大きな打撃をここで受けることになったわけです。

ところが当初想定していなかったことが起きます。イスラエルが第3次中東戦争で占領した地域である「ガザ地区」と「ヨルダン川西岸地区」に住んでいたパレスチナ人の市民たちによる大規模な大衆蜂起=インティファーダというものが イスラエルに対して起こされたのです。

ハマスが設立を宣言するのもこのタイミングです。人々が武器ではなくて、石などで、イスラエルの重火器を持った兵士に対して、戦いを挑んでいく事態にイスラエルは直面をしていきます。

これを解決する方法として編み出されていくのが、パレスチナ人に対して自治を認め、そこにある自治区と、自治区が将来的にパレスチナ国家になっていったとして、イスラエルと共存する政治体というものを近くに作るというものでした。これが公の形で宣言をされたのが1993年の「オスロ合意」でした。

この「オスロ合意」によって、PLOは、パレスチナ人の代表としてイスラエルを承認し、イスラエルもそれまでテロリスト集団であると言っていたPLOを政治的なパートナーとして承認し、今後は武力ではなくて、話し合いによって問題を解決していこうということが決定づけられました。

話し合いの期間は5年間と決められ、パレスチナ暫定自治がここから始まっていきます。ところが、この暫定自治を脱することができないまま、現在を迎えているというのが実際のところです。

将来的にパレスチナという国家ができるということを期待した人も多くいました。ところが、ヨルダン川西岸地区の中にはイスラエルの入植地が残ったままになります。

つまり、領土的な統一感というものが得られないまま現在まで来ているのです。オスロ合意が結ばれた段階で、東エルサレムを除くヨルダン川西岸地区にはイスラエル人の入植者がおよそ11万人いたと言われています。その人数は現在は50万人を超えたと言われています。

パレスチナの自治というものが行われている間も、イスラエル人の入植者は増え続け、入植地の建設が続けられていたわけです。これは逆にいえば、パレスチナ人にとっては明らかに土地を奪われていく、そうした30年間だったわけです。

ハマスとイランの関係は?

ハマスにとっての外交的な展開というのは、諸外国を拠点としながらハマスの正当性というのを国際的に高めようとする活動になると思います。イランとの関係に関していえば、イスラエルとハマス、イスラエルとイランの関係を抜きにしては考えられない、考えてはならないものだと思います。




イランとイスラエルは敵対関係です。そして、ハマスとイスラエルも敵対関係ということになります。ある意味で『同じ敵』を持っている、共通の敵を抱いているこの2つの主体というのは、同じ陣営に属しているという認識になります。だからこそ、イランとしてはハマスの行動に対して支援する、支持するというふうな言い方になりますし、ハマスとしてもイランの政府関係者と面会をすることができる。つまり対イスラエル関係でどういった協力があり得るのかといった点などについて、イラン政府の高官と、ハマスの幹部が会談を持つことができる、そうした関係にあります。

ただ、これはあくまでイスラエルとの対抗という点での関係性です。イランがハマスを使ってイスラエルを攻撃するとか、イランが自らの駒としてハマスの行動を指示するといったような関係性ではありません。あくまでハマスはイスラエル・パレスチナの文脈の中で行動していますし、イランもハマスという組織が自分たちの陣営の側にいるとは意識しつつも、やはりイスラエルとの関係では国家同士の関係のところに注力をせざるをえません。

その時にはアメリカという要素が関わってくるので、政治的にレベルを上げた政策が取られてくるということになります。この点は、意識しておくべきだと思います。

北から攻撃するレバノンのシーア派組織「ヒズボラ」との関係は

これもイランとの関係と類似して考えた方がいいと思います。ヒズボラはイスラエルがレバノンに対して侵攻してきた時代に誕生した組織です。つまりレバノンにやってくる、イスラエルにやはり抵抗する組織であるということになります。抵抗という面でイスラエルは共通の敵で、両派の間での共通性を生んでいるんです。




ただ、ヒズボラとしては、イスラエル軍がレバノンの領内に入ってくるような行動がない限り、大きな形での軍事行動ということは基本的には取らないところです。このため、この2つの組織が同じ指示系統の中にあるのかというと別です。

ヒズボラはレバノンの抵抗運動組織として、ハマスはパレスチナの政治組織として、それぞれ行動しています。だからこそ、今回のガザ地区に対してのこれからイスラエルによる軍事侵攻が起きるかもしれないという段階でも、ヒズボラとしては、若干関わろうとする姿勢は示すわけですけれども、自分たちの組織の命運をかけてでもイスラエルに挑もうといった動きは今のところ見せていないのです。

今後の展開は? 今、伝えたいことは?

今後の予測は難しいところではありますけれども、過去の事例を見る限り1~2か月ほどでイスラエル側の軍事作戦は完了する可能性が高いです。その後、散発的な戦闘が続き、停戦に至るという形が考えられます。

ただ、イスラエルとパレスチナの衝突のなかで、命の危険・尊厳に対する脅威を抱えているのはそこに住んでいる人々です。それはイスラエル人かパレスチナ人かということにかかわらず、そこに暮らしている人達の命が、そして生活が脅かされています。

このことをやはり私たちは真剣に考えなければならないと思います。それに対して、日本社会、国際社会としてどういった対応をするべきなのか。どういったアプローチができるのか。これを模索する努力を忘れてはならないと思います。



2023年10月22日日曜日

古代人の飾り文化






 九州歴史資料館で、船原古墳と輝く馬具の精華の展示が行われている。






古代人は、馬を制御する馬具をいろいろ開発したが、そのうえに馬具にいろんな飾りをとりつけた。そのすべてが船原古墳から出土した。










飾り文化の専門家、辻 惟雄(つじ のぶお:東京大学名誉教授多摩美術大学摩川美術大学学長)氏によると、日本人の縄文土器や貝輪装飾は、飾り文化として、世界的にすぐれてた水準のセンスをもっているという。

そのセンスが、馬具にたいしても発揮されたのであろう。
馬も人間のセンスに敏感な動物であり、飾りの馬具に対して、喜びの感情をもっていたのかもしれない。