2018年9月30日日曜日

こもの釣鐘の歴史






《4830》〝平和と繁栄〟願った鐘
「お宝のわけ」「どんな鐘」「作者」「大願主、信女の正体」の4つの構成による29日〝天降神社の釣り鐘〟の土師武氏講話。365文字の鐘銘文を幾度も読み解かれただけの明快な解析と想像力豊かに鐘がひめる歴史的背景の紐解き、文化的価値が極めて高い評価が語られました。

刻まれた「君臣道合 児孫長久」の8文字こそ乱世戦国時代に女傑ともいいうべき大願主の平和と繁栄の願いが鐘の奉納の目的だとし、「戦時中の供出を免れた鐘は、戦後これらの価値が知った誰かがこの場所から持ち出したと思われ、どこかにある可能性は高い。」と締めくくられました。2018.9.30.8:26
吉住市議のFBを記録:

2018年9月28日金曜日

丁子家紋〔改訂)

わが家の家紋は違い丁子である。

丁子紋: 違い丁子 (抱き丁子)


 丁子はときに丁字と書くこともある。そこで「十字の間違いかな?」とか「沈丁花のこと?」と勘違いするひとも ある。
また紋章を見て「大根の一種?」と間違うひともあり、わたしも若い頃はそう思っていた。
大根の家紋を使っていた旗本もいたようだ。

丁子はインドネシアのモルッカ諸島が原産の輸入植物で、 日本でも古くから知られていたようで、五~六世紀頃には日本に輸入され。
正倉院御物の中にも当時輸入された丁子が現在も保管されている。中世の貴族はこの花のつぼみを干して香料に していたようだ。また薬としても役立てていたともいう。
時代が下ると、丁子から採れる油が日本刀のさび止めに効果があると重宝され、他にも生薬や漢方として用いられるようになる。
 また名前の由来は、丁子の花のつぼみが釘に似た形をしているので、中国で釘を意味する「丁字」の文字が当てられ、日本では「丁子」という字になった。
中国では磁器の壺や絵皿にたくさん見られる吉祥文様の雑宝のひとつであり、日本でも非常に縁起がよいとされる宝尽文様のひとつに数えられている。そのため瑞祥的意義をもって家紋に用いられるようになった。

英語ではClove(クローブ)というようだ。




【主な使用家】

 丁子は高貴薬で香料であることから、七宝のひとつになっている。これにちなみ紋章としても人気が出たようだ。
 三条西、押小路、甲藤、新庄、松村、竹尾の藤原氏流の諸氏。源氏系では真崎、志村、幡野、石崎の諸氏。ほか菅原氏系の 来栖氏、滋野氏系の望月氏などが使用している。
 藤野姓だから藤原氏流れということかな。武士にはあまり使われていないようだ。
家紋の分布としては九州がほとんどだが、遠く離れた富山県でも使用が多くみられる。
もしかすると、富山の名産である薬のひとつとして、丁子が扱われていたのかもしれない。

デザインとしては、そのほか多くの種類がある。



2018年9月26日水曜日

「不惜身命」と「事実無根」





平成の大横綱貴乃花
伯父は横綱若乃花、父は大関貴ノ花。兄若花田とともに角界に入門した貴花田兄弟


平成7年一月場所を優勝で飾った大関貴乃花は横綱に推挙されました時、相撲協会からの使者を迎え、横綱に推挙されたことへの返礼口上に「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」という一言がありました。

さて、「不惜身命」は『法華経』勧持品第十三に、


読誦此経 持説書写 種種供養
不惜身命 爾時衆中 五百阿羅漢
得受記者 白佛言世尊 我等亦自誓願 於異国土 廣説此経
(この経を読誦し、持ち、説き、書写して、種種に供養し、身命をも惜しまざるべし。
〈後略〉坂本幸男訳―岩波文庫)


また、『法華経』如来寿量品第十六にも、


一心欲見佛 不自惜身命
時我及衆僧 倶出霊鷲山
(一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまざれば、時にわれ及び衆僧は、
倶に霊鷲山に出ずるなり。)


とあります。

引退後、相撲協会の改革にも、この「不惜身命」の精神で取り組んでいたのですが、日馬富士の事件以来、旧態以前たる組織の壁にはねかえされて、引退声明となりました。

いま相撲界では「事実無根」の言葉がとびかっています。事実を隠す陰湿な体質があるようです。
「事実有根」か否か外部の人間には不明ですが、喧嘩両成敗で組織の立て直しをする必要があります。

2018年9月24日月曜日

池田武邦

池田武邦(いけだ たけくに)
1924年静岡県生まれ。建築家、日本設計創立者



2歳から神奈川県藤沢市で育つ。湘南中学校を卒業後、超難関の海軍兵学校へ入学(72期)、江田島へ。翌年、太平洋戦争勃発。1943年、海軍兵学校卒業後、大日本帝国海軍軽巡洋艦「矢矧」の艤装員として少尉候補生で佐世保へ着任。1944年6月「矢矧」航海士としてマリアナ沖海戦へ、10月レイテ沖海戦へ出撃。1945年第四分隊長兼「矢矧」測的長として「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄特攻へと出撃。
大和、矢矧ともにアメリカ軍に撃沈されるが奇跡的生還を果たす。同期の中でマリアナ、レイテ、沖縄海上特攻のすべてに参戦して生き残ったのは池田さんただ1人。生還後、1945年5月、大竹海軍潜水学校教官となる。同年8月3日広島に原子爆弾投下。遺体収容、傷病者の手当ても行う。同年8月15日の終戦以降は復員官となり、「矢矧」の姉妹艦「酒匂」に乗り組み復員業務に従事。
1946年、父親の勧めで東京帝国大学第一工学部建築学科入学。卒業後は山下寿郎設計事務所入社。数々の大規模建築コンペを勝ち取る。1960年、日本初の超高層ビル・霞が関ビルの建設に設計チーフとして関わる。
1967年退社し、日本設計事務所を創立。設計チーフとして関わった霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルが次々と完成。1974年50歳の時、超高層ビルの建設に疑問を抱く。
1976年日本設計事務所代表取締役社長に就任。1983年長崎オランダ村、1988年ハウステンボスの設計に取り組む。1989年社長を退き、会長に。
1994年会長辞任。池田研究室を立ち上げ、21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。

味はヨット。1985年、61歳の時には小笠原ヨットレースに参加して優勝している。
『軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社)、『建築家の畏敬―池田武邦近代技術文明を問う 』(建築ジャーナル)、『次世代への伝言―自然の本質と人間の生き方を語る』(地湧社)など著書、関連書も多い。

2018年9月22日土曜日

元治・慶応・明治初期の年表



日本史の年表で、もっとも記載項目の多いのは、慶応・明治の革命時代であろう。




大河ドラマでいまやっているので、明治維新関連の事項を、私流に整理してみた。長州・薩摩が主役だが、福岡県に視点をおいてすこし追加・記載する。
( )は月。


文久3年(1863)

(3)将軍家茂が攘夷運動抑圧のため上洛するが、勅許を得られず、5月10日を攘夷決行日と決定する。
4)福岡藩黒田長溥も須崎に台場をつくり大砲を設置しはじめる。
(5)10日、長州藩が下関通過の米商戦を砲撃。23日仏軍艦を砲撃。26日蘭軍艦を砲撃。この月に伊藤博文、井上馨ら5人がイギリス留学のため密出国をする。
(6)1日米軍艦が長州砲台を攻撃。7日高杉晋作が奇兵隊を編成する。長州藩が小倉藩砲台を一時占拠する。
(7)2日、生麦事件への報復として、英艦隊が鹿児島湾に侵入し、城下町を攻撃する。薩英戦争
(8)13日天誅組が大和で挙兵した。

8月18日の政変三条実美ら長州系の倒幕派公卿を、薩摩・土佐・会津藩など雄藩が中川宮と組んだ参与会議で追放。七卿落ち七卿は長州藩に保護される。
(9)高杉晋作は奇兵隊総督を免じられる。
(10)澤宜嘉、平野國臣らが但馬生野で挙兵するが壊滅。


文久4年・元治1年(1864)

(1)朝議参与メンバー徳川慶喜・松平容保・山内豊信・伊達宗城に、島津久光が加わる。西郷は岩山糸と結婚。
(2)文久から元治に改元
(3)27日水戸藩天狗党が筑波山で挙兵した。朝議参与が分裂し、廃止となる。
(4)仏国ロッシュ公使が着任。
(5)神戸の海軍操練所が発足、勝海舟がリーダーとなる。

(6)5日京都で池田屋事件発生。尊攘激派が多数死亡。15日函館五稜郭が完成。
(7)11日佐久間象山が京都で暗殺される。
19日禁門の変」(蛤御門の変):尊攘激派の長州藩兵士と浪士が、文久3年8月18日の政変の処分撤回をめざして、京都回復を試みたが、薩摩‣会津との戦にやぶれ、久坂、来島、真木らが死亡。幕府は江戸・京都・大坂にある長州藩邸をすべて没収。江戸藩邸の長州藩士を2年間拘束した。平野國臣ら京都で処刑。24日幕府は長州征伐の勅許を得る。
(8)5日英・米・仏・蘭の四国連合艦隊17隻が、長州藩の攘夷決行の報復として、下関砲台を攻撃し、占領した。
日,連合艦隊と長州の講話談判に高杉晋作がでる。
23日、長州征伐軍には、徳川慶勝が総督、西郷隆盛が参謀役となる。30日長州藩主は官位称号を奪われる。
(9)22日幕府は下関事件賠償の約定に調印する。
25日井上馨襲われて重傷を負う。
勝海舟と西郷隆盛の最初の会談がおこなわれる。
(11)西郷らの説得で長州藩が恭順し、長州3家老が切腹し、4参謀が斬首された。
高杉晋作、筑前に亡命。12日から20日平尾山荘に滞在。早川勇から長州の恭順の情報を聞き、帰国して挙兵を決意する。
(11)美濃から越後に抜けた天狗党が討伐軍に降伏した。
(12)15日高杉晋作が下関功山寺で挙兵し、下関の藩内保守派を襲撃する。。

徳川慶勝は27日、征長軍の撤兵を命じる。
福岡藩の斡旋で、三条実美ら五卿の大宰府移転が決まる。

元治2年・慶応1年(1865)

(1)長州:高杉晋作の挙兵軍が、長州藩の主導権を握る。
15日五卿ら黒崎湊に上陸、18日赤間館に到着し滞在した。

(2)12日赤間宿を出発した三条実美ら五卿大宰府に到着。その後坂本、西郷らの志士が訪問する。

(3)長州藩は山口に移り、諸隊を再編成し軍制改革を行う。

薩摩:五代、寺島、森ら19名がイギリス留学に出発。
薩摩藩も倒幕の意向が高まり、西郷も大宰府に五卿や蟄居中の岩倉と接触を行う。
(4)年号を元治から慶応改元。
(5)英国公使パークス赴任。下関で木戸・伊藤らと会見。

 将軍家茂、2次長州征伐の勅許を求めたが、衆議をつくせとの勅旨。福岡藩など諸藩は協力せず。
長州藩は藩主の江戸登城命令を拒否する。
土佐:武市瑞山が獄中で切腹を命じられる。竜馬は大宰府の五卿を訪ねる。
(6)隆盛と竜馬が京都で会見。長州の武器を薩摩名義で買う協定を結ぶ。
(7)長州の井上馨、伊藤博文が薩摩を訪問。グラバーの斡旋で鉄砲を購入。
(8)幕府による横浜製鉄所が竣工。
薩摩:家老新納刑部が仏人モンブランと貿易商社設立の契約をむすぶ。
(9)英・米・仏・蘭四ケ国の公使が兵庫開港をもとめて、艦隊で大阪湾に回航。
21日将軍家茂は再度上洛し長州再征の勅許をもとめ、ようやく許可された。

(10)開港問題は公卿・幕閣の大会議を慶喜が主導し、安政修好通商条約の勅許を得たが、兵庫開港の件は延期となった。

福岡藩は保守派家老が復活し、家老黒田播磨は蟄居、加藤司書・月形洗蔵ら尊攘派を処分し、野村尼を姫島遠島、早川勇を入牢にした。(乙丑の獄)
(11)幕府は長州再出兵の命令をだすが、様子伺いの藩が多い状態だった。
在京の西郷は雄藩主を集めて、長州再征の阻止を計り、薩摩の精兵を入京させる。
(12)神田真道、西周がオランダから帰国した。

慶応2年(1866)

(1)21日、年末から行われていた薩摩・長州の同盟が、竜馬の仲介で、京都の小松邸御花畑屋敷で成立する。

24日寺田屋事件がおこり、竜馬が負傷する。
(2)長州藩は決戦を覚悟し、四方面の守備体制を固める。
(3)17日坂本竜馬、お龍と霧島に登る。
(4)薩摩藩は、長州再征への出兵拒否の意見書を提出。
(6)7日幕府軍艦が周防大島を砲撃して長州再征伐開始。芸州口、石州口、小倉口ともに長州藩が優勢で、大島上陸部隊も撤退。
英公使パークスは長州や薩摩を訪問。仏公使ロッシュも長州を訪問し、幕府の老中板倉とも面会。安芸・備前・阿波の3藩主は、征長軍解兵の意見書を提出。

福岡藩は2日に3500の軍隊が福岡を出発し、中間に本陣、黒崎、大倉、枝光、中原、戸畑、若松などに派兵したが、参戦はしなかった。熊本藩も同じ行動だった。
(7)20日将軍家茂が急死し、喪は1月間伏せられた。

長州軍は小倉藩に侵入、単独で戦った小笠原軍は小倉城を脱出し田川を拠点とする。
 小倉藩側が出した結論は「開国」策であった。「開国」とは、小倉藩が自領を全て放棄して、藩士とその家族全員が他国に移住する案である。 
(8)小倉落城自焼。この報告で、慶喜は征長を断念し、将軍死去を理由にして解兵の勅をあおぎ、21日に勅を得た。(9)勝海舟が安芸宮島で、長州の廣澤真臣らと休戦締結。

16日野村尼、姫島から救出され、大島経由で長州へ保護される。
(10)蟄居中の岩倉具視の意向をうけて、倒幕や朝廷改革案を提出していた中御門、大原らの22人の公卿に対し、27日孝明天皇は慶喜の意向を聞いて閉門を申し付ける。
(12)慶喜は家茂の死後、徳川宗家を相続しただけであったが、5日15代征夷大将軍に命じられた。
グラバーが福岡藩を訪問し、黒田長と懇談した。
12月22日未明、小倉藩生駒主税は田川郡香春の長州陣所に出向いて、人質要求は受諾できないこと、「開国」することを申し入れ,同年暮れから翌年正月にかけて、一部の藩士とその家族は肥後国熊本や豊後国日田に移住した。長州藩側は小倉藩領である豊前の地を長州藩が『侵掠』したと世間で取り沙汰されると武士道に外れるので、小倉藩と改めて交渉することにした。
 25日孝明天皇が急死した。暗殺説が流れた。

英国軍艦が博多湾に入港。能古島で大砲の試射を披露。箱崎はまで歩兵操典を行う。


慶応3年(1867)

(1)睦仁親王が9日に践祚(せんそ)され、関白二条斉敬が摂政となる。

22日長州藩と小倉藩の和議成立。長州藩側は「朝廷や幕府の処置、すなわち長州藩主父子が赦免されるまで企救(きく)郡を預かりたい」と申し出、小倉藩側はそれを了承した。

(2)将軍慶喜が大阪城で四国の公使と会見し、兵庫開港の実施を討議した。

(3)兵庫開港の勅許は不許可となったので、慶喜は四国公使に開港の延期を伝えた。

朝廷は昨年10月に閉門されていた織仁親王、晃親王ら皇族や公卿の罪を免じ、岩倉具視らの入京を許す。王政復古派の力が増す。
小倉藩は藩庁を香春に定める。
(3)26日、オランダに注文していた開陽丸が、留学生榎本武揚らをのせて横浜に帰国した。
(4)薩摩の小松と土佐の板垣が京都で会談し、倒幕の盟約を結ぶ。土佐藩が坂本竜馬が亀山社中を配下にいれ海援隊とする。14日高杉晋作が病死
(5)将軍慶喜の努力で、24日に兵庫開港が勅許された。
(6)坂本竜馬が、「船中八策」を後藤象二郎に示し、二人は上京して西郷、大久保らとこの公議政体の盟約を結んだ。
西郷と山縣は倒幕の戦略をねる。
(7)中岡慎太郎が陸援隊を組織した。
(9)薩摩・長州・安芸の三藩が倒幕を盟約する。島津珍彦(藩主弟)が藩兵を率いて入京する。

(10)大政奉還論を練っていた土佐藩主の山内容堂が、老中板倉に建白書を提出。これを受けて慶喜は13日、在京の諸藩重臣を二条城に集めて諮問の上、14日に大政奉還の上意を朝廷に提出し、翌日許可された。
一方では、岩倉具視が、13日に薩摩宛の倒幕の証書を大久保に手渡し、また長州藩主父子の官位復旧の宣旨を廣澤真臣に渡した。(一般には、薩摩・長州に倒幕の密勅が下されたとされている。)
朝廷は慶喜にしばらく庶政を委任すると沙汰し、公家たちは倒幕実行猶予の沙汰書を薩長両藩につたえた。
薩摩藩相楽総三らが江戸にはいり、薩摩御用盗といわれる江戸攪乱作戦をはじめた。
(11)6日野村尼病死13日島津忠義、西郷、大久保らは、兵を率いて京にはいる。15日坂本竜馬と中岡慎太郎が、京都の近江屋で暗殺された。
(12)9日薩摩、尾張、越前、土佐、安芸の諸藩兵が警護する宮中で、その各藩主による小御所会議が開かれた。
一般には王政復古の大号令が出されたというが、公議政体派の4藩と倒幕派岩倉・薩摩の議論は年末まで混沌。
将軍の辞官納地は、諸藩の版籍奉還を前提に実施することを、松平春嶽が慶喜に伝えることのみ決定。幕府や摂政の廃止などは保留。有栖川宮を政府首班の総裁とし、松平春嶽・山内容堂らを議定、岩倉や大久保らを参与とする新政府案が樹立される。 23日薩摩浪士が三田の庄内藩邸や江戸二の丸に発砲し、二の丸が炎上。25日庄内藩を主とした幕府軍が、三田の薩摩藩邸を攻撃し、焼き討ちにより薩摩藩士50名が死亡した。この情報が京都にとどき、戊辰戦争の導火線となる。
19日三条実美ら五卿は大宰府をたち、京都へ向かう。慶喜は二条城より大阪城に移る。
岩倉が議定となり、新政府は大久保の意見で倒幕決戦の意向を決定する。

慶応4年・明治1年(1868)

(1)2日幕府軍15000が大阪を出て夕刻に淀に到着。淀藩は入城を拒否。兵庫沖で幕府海軍が薩摩藩船を砲撃。
3日鳥羽、伏見の両街道で薩長軍4000と遭遇し、夕刻には新式武器の薩長軍が幕府軍の先鋒を圧倒する。
4日に任和寺宮を征討大将軍として錦旗を掲げた。
「鳥羽、伏見の戦い」
この初戦で西郷従道が負傷する。反対していた山内容堂もあとは朝廷次第と引き下がる。
6日津藩兵が寝返って、敗走する幕府軍を攻撃。
戊辰戦争の始まり
幕府軍は撤退し、慶喜は6日夜大阪城を脱出し、7日開陽丸にのり江戸に向かう

三条実美を議定とした新政府は7日、徳川慶喜追討令を出し、25日諸外国公使に、王政復古の国書を手交した。15日相楽総三ら赤報隊を結成し、美濃に向かう。
14日福岡藩家老久野将監が新政府との交渉に上京したが、追い返された。
29日新政府は京阪の豪商に数十万両の献金を要求。
久留米藩尊攘派が参政不破美作を暗殺し、倒幕派になる。松平春嶽と姻戚だった柳川藩も倒幕派になる。
佐賀藩は鳥羽・伏見の戦いの時に藩主も家老も京都に不在だったため不参加だったが、薩長側が勝利に終わって以降は上京して新政府軍に加わり、最新式の兵器で活躍した。(2)3日有栖川宮が東征大総督に任命される。東海、東山、北陸の3道軍にわかれて、江戸にむかう。

江戸では恭順派が勝ち、慶喜は寛永寺に蟄居する。

各国公使が京都で天皇に謁見するが30日京都御所に参内途中のパークス公使が刺客に襲われる。
福岡藩は28日保守派久野、野村、浦上の3家老を罷免、切腹。尊攘派を再登用し、新政府軍に参加。2370人。

(3)9日山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛との事前会談をする。
14日江戸での勝海舟と西郷隆盛の最終会談で江戸無血開城となる。この日新政府は五か条の誓文をだし、基本方針を示す。

赤報隊の相楽は偽官軍とされて惨殺される。慶喜は水戸に移る。
(4)旧幕府に代わる新政府は三条・岩倉二人の太政官のもとに、七官(内国・外国・軍事・会計・制度・刑事・神祇)をおき、立法・行政・司法の三権分離をきめたが、地方制度の藩は保留された。
この頃福沢諭吉は慶応義塾を開設。
20日新政府軍参謀世良修蔵、会津藩士に殺害される。
(5)上野の彰義隊が敗北。
新政府は徳川家達に駿府70万石を与え、慶喜も駿府に移る。

陸奥、出羽、越後の25藩が反政府同盟を結ぶ。
(6)英船が博多湾ひ停泊し、英人が祇園山笠を見学した。
(7)15日大阪を開港場とする。
(8)16日河井継之助戦死。19日榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川を出港し、奥州、蝦夷に脱出。
27日明治天皇の即位式。

(9)8日明治と改元、一世一元の制度となる。
 14日会津若松城総攻撃。22日降伏。
 20日明治天皇は京都を出発し江戸に行幸。江戸を東京と改名。22日会津藩が降伏。
(10)東京を皇居とさだめる。25日榎本が五稜郭を占領。
(11)新政府成立の書を対馬藩より朝鮮に持参。受理されず。三池藩が再度成立する。

明治2年(1869)

(1)5日横井小楠が京都で暗殺される。
20日薩長土肥の四藩が版籍奉還を上奏する。他藩も同調して同じ趣旨を上奏しはじめる。
(2)黒田長溥は隠居願いが認められて、長知が家督を継いだ。 
(3)7日明治天皇は再度東京へ出発。太政官も東京に移り、遷都決定となる。
三条実美は右大臣のち太政大臣となる。岩倉は病のため官を辞してしばらく療養にはいるが、年末には復帰する。
(5)18日榎本武揚が函館で降伏。戊辰戦争の終結。黒田清隆が助命嘆願し、榎本は下獄した。土方歳三は5月に戦死。
「戊辰戦争の終了」
(6)17日土地、人民を新政府の統治下におき、公家と諸藩主は華族とし、旧藩主を知藩事に任命。
佐賀の鍋島直正は6日、蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、7月13日には初代開拓使長官に就任した。
大村・木戸の国民徴兵論と大久保らの薩・長・土3藩兵常備論が対立。
(7)官制を改革し、神祇官・太政官の2官、民部・大蔵などの6省という古代体制とした。蝦夷地を北海道と改称。
東京、京都、大阪の三都市圏を府としそれ以外は県と改称。
(9)4日大村益次郎が京都で襲われ重傷、11月に死亡。
(11)山口藩諸隊より精鋭の常備軍を編成。(以降諸隊の反乱がおこる。)




「参考文献」

読める年表「日本史」 :自由国民社
幕末史  半藤一利  :新潮文庫
日本史要覧      :文英堂
幕末歴史散歩 一坂太郎:中央公論社
幕末長州史跡散歩 一坂太郎:羊泉社
幕末・維新のしくみ 童門冬二:日本実業出版

幕末・維新事典 奈良本辰也監修:三笠書房 
日本の歴史 別冊年表 児玉幸多:中央公論社
NHK 西郷どん ガイドブック
福岡県の幕末・維新   :海鳥社     








2018年9月18日火曜日

織田信長の本廟 阿弥陀寺

石碑(阿弥陀寺)
信長の本廟であることをしめす石碑

京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町にある阿弥陀寺は、織田信長を輩出した織田家の菩提寺で、織田信長の本廟がある寺院です。本能寺の変で織田信長が打たれた後、当時の住職であった清玉上人(せいぎょくしょうにん)が織田家家臣の遺骸を引き取り供養したと伝えられています。
阿弥陀寺は、1555年、織田信長の命により清玉上人が開いた寺院です。清玉上人は織田家ゆかりの人物で、信長と兄弟のように育ち、寺院は創建した当初から織田家の保護を受けていました。

創建当初、寺院は近江坂本(滋賀県大津市)にありましたが、織田信長の上洛と共に京都市の今出川大宮(いまでがわおおみや)に移り、織田家の京都における菩提寺となります。やがて、13の塔頭寺院(子院)をもつ大寺院となりました。当時の本能寺の近い場所にありました。
1582年、本能寺の変が起こります。清玉上人はいち早く本能寺へ駆けつけ、織田信長や織田家家臣の遺骸を寺院へ持ち帰って供養しました。織田信長の一周忌に、豊臣秀吉は信長の遺骨を引き渡すように要求しましたが、清玉上人はこれを断ります。秀吉は一旦は引き下がりますが、天下人になった後で阿弥陀寺の寺領をほとんど没収し、当時は京都のはずれだった現在地へ移転を命じました。
地図の左上部にある阿弥陀寺

このような仕打ちを受けながらも、阿弥陀寺は織田信長と織田家ゆかりの品々を守り続け、現在まで続いています。現在は毎年6月2日の信長忌の時だけ本堂と寺宝が公開され、信長ゆかりの寺院として人気です。
阿弥陀寺には、織田信長と長男信忠の木像をはじめ、織田家の紋である織田木瓜(おだもっこう)が描かれた旗など、織田家ゆかりの品が複数所蔵されています。これらは6月2日にだけ一般公開されます。
中でも織田信長と信忠の木像は没後1年後に作られたと伝わるもので、信長の像や肖像画の中では一番本人に似ているといわれています
阿弥陀寺の境内にある墓所は、森蘭丸をはじめとする織田家家臣のものです。清玉上人は、織田信長だけでなく家臣たちの遺骸も引き取って供養しました。この他、織田家家臣の合祀墓もあり、戦国史ファンなら一度は見ておきたいスポットです。
織田家家臣の墓所(阿弥陀寺)
織田家家臣の墓所


阿弥陀寺の山門は、四脚門で歴史の風格を感じさせます。山門前に建っているのは、織田信長公本廟と刻まれた石柱です。6月2日の信長忌では、ここに織田木瓜(おだもっこう)の家紋が染め抜かれた垂れ幕が下がります。
山門(阿弥陀寺)
阿弥陀寺の山門


阿弥陀寺の本堂は入母屋造りで本瓦葺の屋根を持ちます。大寺院だったころの面影はなく、落ち着いた佇まいです。信長忌当日には、ここで住職によって寺院の歴史や織田家との関わりが説明されます。本尊は阿弥陀如来坐像で、この他に祀られているのが信長公と長男信忠の木像・織田信長と織田家家臣の位牌です。
本堂(阿弥陀寺)
阿弥陀寺の本堂


信長公本廟は、長男信忠の墓所と森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓所に挟まれるようにして建っています。信長公の墓所と称する場所は全国にたくさんありますが、清玉上人が織田家ゆかりの人物だったこと、そして、信長や家臣たちの遺骸を引き取って供養したという資料が残っていることから、この地に遺骸が埋葬されているという説が有力です。ちなみに本廟と称しているのはここだけで、その他の墓所は供養塔という名称になっています。
信長公本廟(阿弥陀寺)
信長公本廟

2018年9月17日月曜日

源頼朝・北条義時の墓と島津氏



史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

国指定史跡。正式名称は見出しのとおりで、読み方は「しせきほっけどうあと(みなもとよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)」です

50m程の小道を挟んで別々の階段の先にある源頼朝墓と北条義時墓が合わせて1つの国指定史跡に指定されています。




鎌倉市の白旗神社奥にあるこの源頼朝の墓には、島津家の轡十文字の家紋がきざまれています。

文部省唱歌「鎌倉」の歌詞に、
 歴史は長き七百年 興亡すべて夢に似て 英雄は墓は苔むしぬ
とあるように、
江戸時代には鎌倉はすっかり寂れて、頼朝の墓も荒れ放題になっていました。
島津重豪が、1779年にこれを整備したついでに、家紋を刻んだということです。

島津氏の祖先の島津忠久は、頼朝の隠し子という説があり、惟宗(注1)の養子に出され、やがて薩摩に移って島津氏を称したらしいです。
注1:惟宗氏 
家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また伊統これむねと称するものもあるが、中でもよく知られるのは惟宗直宗直本兄弟らに始まる惟宗朝臣である。彼らは讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、本貫を京に移し、883年に同族の秦宿禰秦忌寸とともに惟宗朝臣の姓を賜った。惟宗直本は『律集解』と『令集解』の著者として名高い。彼の子孫は明法家あるいは医家として知られ、『本朝月令』を書いた惟宗公方、『政事要略』を書いた惟宗允亮(律令にちなみ「令宗よしむね朝臣」を賜った)が有名

また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」にちなんで島津氏と名乗るようになったとされる。ただし忠久は源頼朝落胤と自称して(後世の伝承)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている。

忠久の墓も頼朝の墓の近くに同じ時期につくられています。
また側近だった大江広元やその子孫の毛利季光の墓も近くつくられており、幕末の薩長同盟への路線の下地が、鎌倉の地で行われていたようです。




この地区は、16m程度の石段を上がった先にある770平方メートル程度の平場で、2005年の発掘調査で、この平場の地下から墳墓堂(法華堂)の遺構が発見されました。

発見された遺構の位置が、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位と地形と一致したことから、遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されています。

遺構は現在の地表より下にあるため、保護するために調査後は埋め戻しを行い、草地として維持管理しています。遺構の真上には、調査でみつかった(柱の位置関係から割り出した推定も含む)法華堂の礎石や柱の跡、雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示しています。