2023年11月28日火曜日

国家安康 その2

国家安康ではないが、義一、藤野で、異論をはさむような言葉はない。


ぎり‐いっぺん【義理一遍】 

の解説
[名・形動]世間体を飾るため形式的に物事をすること。また、そのさま。通り一遍。「—な(の)あいさつ」

藤野 芸術 の 村

国家安康と文英清韓

 どうする家康」でも取り上げられた方広寺の鐘銘問題の実態。




当時は、鐘銘は天海などの五山閥の僧が書くのが当たり前だった。

奈良の大仏の鐘そのままに文面を用意すれば良いものを、当時の学閥、五山閥にも宗閥にも無関係な人間である、文英清韓という学者(加藤清正の家臣の息子)を片桐且元が登用し、文面を用意しているのはおかしいという指摘があった。
奈良の大仏の鐘銘の写しを片桐且元に見せて「無案内の田舎集に、いらざる事を書き付けている」のを問題にしている。つまり、当時の最高学閥を、何故無視したのと指摘している。
ちなみに、片桐が清韓を選んだ理由は分かっていない。


金地院崇伝(以心崇伝は、徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受けが、当時の手紙では、俗説の様に国家安康が、家康の字を分断したから良くないと主張してはいない。

金地院崇伝


天海


②国家安康が家康を分断したことではなく、家康の諱を書いた事を問題視している。
当時は相手の名前を呼び捨てにしたり、書き捨てるのは許されぬ無礼とされていた。
例えば、片桐且元は、片桐市正殿と書かなければならない。
この指摘に対して、天海、崇伝、羅山に呼び出された清韓との話し合いで、
①については天海達は清韓自身を不問とした。
 (当人が決めた訳じゃないんで)
②についての清韓の回答
●諱、字については中国、韓国流の学系統にある自分と和風漢語の武家との解釈違い(日本と中国で姓名の形が違うので和製英語みたいな事が起きた)
 →羅山等も、これに関しては解釈違いと問題にはせず。
●「国家安康は家康の名前を用いた。名前を隠し題に入れて、縁語にするのは良くあること。名前を分けて縁語にするのは別に問題ないだろうに。過去に事例があるから言ってやろうか。」
→勝手に使っても問題なかろうと開き直り、堂々言われて、流石に羅山等はちょっとキレかかる。



●「君臣豊楽、子孫殷昌。」これは豊臣を隠し題にした。豊臣の繁栄を願って問題なかろう。
徳川の繁栄を願う必要はなかろう。

本人にその気はなくても、徳川家を君とはしないと公言した様なもの。

家康も相当不快だった様で、後々清韓を迫害している。
実のところこの様な流れであった様だ。

清韓の真意がいずれにせよ、事態は鐘銘問題から徳川家と豊臣家との対立に発展。
大坂の陣の遠因となった。

この責任から、清韓もまた連座となる形で南禅寺から追放され、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあっている。
8月28日、天下一の茶人で交友が深かった古田織部が清韓を茶席に招いて鐘銘事件について慰めるも、それが幕府側の耳に入る所となり叱責されてしまった。

その後、大坂の陣にあたっては行き場のない身だった事から大坂城に篭もり、戦後には命辛々逃亡したが、結局は捕らえられ、駿府で拘禁の身となる。

しかし、蟄居中に林羅山と知り合った事が命拾いとなり、後に羅山や自身を糾弾していた本多正純の父・本多正信の取りなしにより許され、元和7年(1621年)に没している。 

墓所は津市上宮寺。
文英清韓の墓

2023年11月26日日曜日

アーネスト・フェノロサ と 岡倉天心

 

フェノロサ


アーネスト・フェノロサは1853年にアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム市で、スペインから移民した音楽家の父とその教え子のイギリス系アメリカ人の母のもとに生まれました。

大学は、アメリカ最古の歴史をもつ名門校、ハーヴァード大学に入学します。哲学を専攻し、大学および大学院を優秀な成績で卒業。卒業後は、当時新設されたボストン美術館付属の絵画学校に入り、油絵の技術や絵画理論を学びました。

その後、東京大学初代理学部教授を務めていたエドワード・モースの推薦によって、設立2年目の東京大学の法理文学部教授に就任、明治11(1878)年に来日しました。

大学では政治学、理財学(経済学)、哲学などの授業を担当する傍ら、日本美術に関心を示し、日本画の蒐集と研究を開始。次第に日本美術の世界に没頭するようになり、来日した翌年には狩野派の総帥、狩野永悳(えいとく)について、日本と中国の絵画の鑑定法を学び始めました。

岡倉天心

そんな折、フェノロサは東京大学で一人の学生と出会います。それが岡倉天心(覚三)。天心は明治10(1877)年、東京大学開校時に森鴎外らとともに文学部一期生となり、大学二年生の時に教授として来日したフェノロサと出会いました。

この出会いが天心の人生に方向性を与え、同時にフェノロサの人生と近代以降の日本美術史をも変貌させることになります。

西洋美術に傾倒していた日本の美術界に警鐘

横浜の貿易商の子であった岡倉天心は幼いころから外国人と関わる機会が多く、10歳前後から外国人居留地に開校されていたアメリカ人宣教師の英語塾に通い、東京外国語学校、開成学校に進学、東京大学でも群を抜いて英語力に秀でていたそうです。

語学に長けた天心とフェノロサは自然と親睦を深め、次第に天心はフェノロサの右腕となり、通訳兼助手の役割を担うようになりました。

フェノロサは来日2年目の明治13(1880)年、天心を通訳にして、奈良の正倉院、法隆寺、唐招提寺、京都の東福寺、大徳寺などを巡り文化財の研究調査を行っています。

この時、二人は当時廃仏毀釈で危機に瀕していた日本の仏教美術を実際に目の当たりにして、その素晴らしさに衝撃を受けたのでした。

天心は東京大学卒業後、文部省に入省。このころ、フェノロサは来日以来取り組んできた日本美術の研究を通じて、西洋美術に圧迫されて衰退の一途を辿る日本美術の状況を憂い、日本美術再興の必要性を唱え、美術研究家としての活動を活発に行うようになります。

明治15(1882)年には、日本の伝統美術保存を目的に、明治政府の官僚を筆頭メンバーとして結成した美術団体「龍池会」で講演を行い、日本ではじめて「日本画(Japanese painting)」という言葉を用いて、「油絵(oil painting)」と比較して、日本画の優位な点を論じ、西洋文化に傾倒していた日本美術界に警鐘を鳴らしました。そして、この講演は書籍『美術真説』として和訳出版されました。

「日本人が思っているより、西洋画と比べても日本画には多くの美点がある。artとしても、applied art としてもすぐれており、このまま廃れてしまっていいのか?」というフェノロサの問いかけは、日本の美術界や政府関係者を中心に大きな波紋を広げ、明治政府の方針が急激な欧化政策に対する揺り戻しの時期を迎えていたという時流も受け、日本美術再興の機運が一気に高まっていきました。


明治15年に龍池会が『美術真説』というタイトルで売り出した書籍は爆発的な売れ行きを見せた。「日本画」(「Japanese painting」の翻訳語)という言葉の初出と言われる。 

フェノロサはこの講演によって一躍有名になり、日本美術振興の指導者的な立ち位置に至ったのでした。

岡倉天心とともに、東京美術学校創立に奔走

明治17(1884)年には、フェノロサは岡倉天心らとともに新しい美術団体「鑑画会」を発足。

当初は、刀剣商・町田平吉が会主となり、狩野永悳やフェノロサが持ち込まれた古画の鑑定をしたり、フェノロサら外国人コレクターの蒐集した絵画を展示したり、といった活動内容でしたが、町田が退会し、フェノロサが会の中心人物になると、「鑑画会」は西洋画の要素も取り入れた新時代の日本画家の養成と作品発表の場へと変化しました。

後に東京美術学校の日本画教育の礎を築いた狩野芳崖、橋本雅邦らも作品の創作や出展に励み、この団体の活動が東京美術学校創立の母体となりました。

文部省内では岡倉天心の働きかけによって「図画調査会」が設置されます。これには、鑑画会メンバーも委員として名を連ね、後にフェノロサも委員に任命されました。「図画調査会」では、公立学校における日本式美術教育の採用が決定され、翌明治18(1885)年には、東京美術学校設立のための組織として、「図画取調掛」に組織変更されます。

フェノロサは、岡倉天心、狩野芳崖らとともに「図画取調掛」の委員になり、東京大学を退職。正式に文部省に雇い替えとなり、同時に宮内省の博物館美術事業も兼任する行政官となりました。以後、天心とともに東京美術学校の開校に向けて準備に奔走します。『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵 アーネスト・F・フェノロサ資料』(村形明子編訳)には、このころのものと見られるフェノロサの手紙の草稿や学校構想のメモが遺されており、美術学校設立のため政府要人との交渉にあたり、学校の組織や校舎、予算などを構想するフェノロサの姿が見て取れます。明治22年(1889)、念願の東京美術学校開校が実現すると、フェノロサは幹事事務取扱に任命され、教育カリキュラムの作成や「画格」「美学及び美術史」などの科目を担当しました。

また、明治20(1886)年には、フェノロサと天心は、宮内省の九鬼隆一、内務省の丸岡莞爾、文部省の浜尾新らとともに、大規模な関西古社寺文化財調査を行っています。この調査の後、フェノロサは膨大な調査報告と文化財保護政策に対する提言を行い、これが今日の日本の国宝・重要文化財指定制度を含む文化財保護行政へと繋がっていきました。

しかし、東京美術学校が開校した翌年には、フェノロサの文部省との契約期間が終了。フェノロサは東京美術学校と帝国博物館を退職し、明治23(1889)年、12年間に及ぶ日本での生活にピリオドを打って、母国アメリカへと帰国しました。この年、政府はフェノロサに勲三等瑞宝章を贈っています。

帰国後、ボストン美術館の東洋部初代部長に就任

日本を離れたフェノロサは、アメリカでボストン美術館に新設された東洋部の初代部長に就任。このボストン美術館には、フェノロサが日本滞在中に蒐集した日本画のほか、フェノロサを東京大学に推薦したエドワード・モース、フェノロサと親しかったアメリカ人医師で日本美術コレクターのウィリアム・ビゲローのコレクションも寄託され、日本国外随一の日本美術コレクションを収蔵していました。フェノロサはキュレーターとして、これらの膨大なコレクションの整理と陳列を受け持ち、また全米各地で日本美術に関する講演を行いました。

5年間のボストン美術館との契約を終え退職したフェノロサは、その後も日本美術の研究を続けながら、日本に二度滞在しており、生前日本への永住を希望していたと言われています。

しかし、明治41(1908)年、ヨーロッパ渡航中にロンドンで急死。遺体はロンドンで火葬され、遺骨は本人の希望に沿い、フェノロサが受戒を受けた滋賀県大津市の園城寺(三井寺)法明院に運ばれ、埋葬されました。



2023年11月24日金曜日

田辺市長の講演と写真

 



2023.11.24.    庄北公民館にて市長と市民の対話集会が開かれた。

「市長からの報告」
1)今、激しく動いているライドシェア導入に向けた首長有志の取り組みに、2年前から国会議員並みの活躍をしていられる状況の解説。
2)チルドレンファーストの理念に基づく子ども・子育て支援の強化や18歳までの医療費無料化などを、周辺自治体より先駆けて実行している状況の説明。
3)シェアリングエコノミーの重要性に着目し、小・中学校のプール13か所の老朽化対策として、民間プールを活用する計画を検討し、多額の経費節減を可能にできることで、共創の実現を進行している。
4)中心市街地や古賀駅東口開発と未来を見据えた公共施設の可能性や、広域交通の要衛としての6つの開発などの説明。
5)市役所業務のDX化で、紙資料をゼロにして業務の高速化をすすめ、政府のディジタル庁に職員を派遣して、行政のディジタル化に即応できる体制をすすめている。
などなどの報告。

最期に、最高令者として、並んで記念撮影をしてもらった。


2023年11月23日木曜日

フィールズ賞 森重文氏の 美しい数学

 フィールズ賞(フィールズしょう)は、若い数学者のすぐれた業績を顕彰し、その後の研究を励ますことを目的に、カナダ人数学者 ジョン・チャールズ・フィールズ (John Charles Fields, 1863年 - 1932年) の提唱によって1936年に作られた賞。数学分野のノーベル賞といわれている。




 日本人の受賞者は、2020年現在、小平邦彦1954年)、広中平祐1970年)、森重文1990年)の3人(国籍別では5番目に多い)であり、1990年以降受賞者は出ていない。

今日は、その受賞者森重文氏の、「役に立つ数学・美しい数学」という記念講演をきいた。


数学といえば、微分、積分、幾何、代数、などが一般人の知るところだ。

「役に立つ数学」

フーリエ変換は波の重ね合わせで、多数の楽器の重ね合わせの音を分析することや、MRIのように、水素の場所や大きさの分布を解析できる。

リーマン幾何は、アインシュタインの相対性原理の解明に役立った。

平面幾何学は平面のまがり、負の曲がりなど、非ユークリッド幾何学につながった。

代数幾何学は巡回セールスマン問題や、IC,LSIの接続回路問題にやくだった。

「美しい数学」


絵として描けないものを描いたものが、印象派の絵である。ピカソの絵のように数か所からみた形を一箇所に描くキューイズムの絵もある。




ネットには高校数学の美しい物語は難波博之 が運営している数学の解説を行うウェブサイトである。

講演では、代数的図形にならないものの役割を記述した数学があることを紹介された。

それは数学における概型あるいはスキーム (scheme) で、可換環に対して双対的に構成される局所環付き空間である。

二十世紀半ばにアレクサンドル・グロタンディークによって導入され、以降の代数幾何学において任意標数代数多様体を包摂し、係数の拡大や図形の「連続的」な変形を統一的に取り扱えるような図形の概念として取り扱われている。

さらに、今まで純代数的な対象として研究されてきた環についてもそのアフィンスキームを考えることである種の幾何的対象として、多様体との類推にもとづく研究手法を持ち込むことが可能になる。

このため特に数論の分野ではスキームが強力な枠組みとして定着している。

キュービズムやスキームのように見えないものを見えるようにするするのが、芸術や数学である。

概型については、理解不足であった。

0/2000

コンテンツに移動