2014年12月23日火曜日

軍師官兵衛の最後

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の最終回はおかしな幕引きであった。
予告編では「天下を取る」と叫ばせて、本番では「左手は何をしていたか?」と言わせ、死後の大阪夏の陣の後藤又兵衛まで登場させた。
日本の平和を望み、戦の無い世界を夢見ていた如水が「天下を取る」と急にいいだし、家康暗殺を考えていたような筋書きをラストシーンに入れたのは、なぜだろうか?
14日が総選挙で放送中止となり、ストーリー短縮のため可笑しな繋ぎになったのかもしれないが、まとまりのない結末である。
最後までキリシタンのシメオン如水であり、秀吉や家康と異質の世界観に悩んだ結果の苦悩として描けば、もっと九州での戦いが一貫して活きてきたと思われている方も多いようだ。
画像は「居士姓橘氏俗諱孝高」とある。黒田官兵衛「龍光院殿如水円清居士寿像」朝倉市・円清寺蔵されたあ跡。(『杷木町史』)




この大河ドラマが始まる前に、郷土史家石瀧氏が「官兵衛の福岡城場面は最終回の10分ぐらいだろう」と話されていた予言は見事に的中した。

2014年12月19日金曜日

妙興寺

妙興寺山門
今の福岡市の地名のルーツは、備前の
長船町の福岡の市である。
昨夜のBSテレビで、歴史ガイドと女流写
真家が、福岡の市を取材してくれた。




妙興寺には黒田如水曽祖父の墓があり、黒田ブームで大勢の参拝客が見受けられた。

概要は岡田先生のFBで拝見していたが、さらに
詳細をしることができた。



如水曽祖父の墓



備前一文字の日本刀が有名だが、それに
あやかって一文字うどん、どどめせなどの郷土料理が紹介された。



国宝の日本刀の半分は、備前という話
に驚いた。



備前一文字の刀紋






岡山・吉備路
郷土料理は武士と関係のある名前や
逸話があって、城下町かと思えるし、街道に
も隠場所があって、中世の雰囲気が強い街
である。









2014年12月17日水曜日

歴史とは選択の教え(石垣原合戦)

吉弘統幸(よしひろむねゆき)は、義統が改易された後、官兵衛に招かれ官兵衛の臣・井上九郎衛門に仕えていたが、その後、従兄弟にあたる筑後柳川の立花宗茂の家臣になっていた。




世の中が関ヶ原の合戦に向けて動き出すと、統幸は大友義統の子、義乗が家康の下にいたことから東軍に味方しようと江戸を目指す。江戸への途上の毛利領内で、統幸は豊後上陸への準備を進めるかつての主君義統に会い,,大友の当主を継いでいる義乗が家康の下にいることを考え、東軍に味方することを義統に説く.
しかし容れられぬことを知ると覚悟を 決めて義統に従うことにする。
豊後上陸後、義統が九州東軍の官兵衛と雌雄を決することになる石垣原では,右翼の将として戦陣を張り、大友軍有利の緒戦を牽引する。石垣原の合戦を東と西で対比すると、総大将は黒田如水と大友義統、武将は井上九郎衛門と吉弘統幸。
総大将と武将の間で選択の違いがあったのは西側で、吉弘は東軍に付くべきだと思っていた。これが西軍の敗北の一因となっていた。
朝鮮の役の失敗で改易された義統は、徳川家康、佐竹義宣、毛利輝元と預け先を流転したあと、関ヶ原の合戦時には、毛利輝元の下にあったことから、輝元から兵や資金の援助を受け旧領奪還を目指して、中国地方から九州の豊後へと上陸した。

しかし、大友敗勢を知ると、数騎を率き連れ、かって世話になっていた井上九郎衛門の陣へと斬り込み討たれるという最期を選び、その生を終える。
吉弘統幸は過去と未来の変化を読み、選択する能力をもっていた。
しかし長年大友家の家臣として仕えてきた家柄であり、立花宗茂とは従兄弟になるから、過去の恩義を絶ちきることが出来なかった。そこに彼の限界があった。
歴史を学ぶのは、過去に重きをおくか、未来に重きをおくかの判断と選択の事例の勉強である。
黒田如水などは、常に未来に重きをおいて行動した。しかし天下をとるまでの器量と幸運を持たなかった

2014年12月12日金曜日

蛍の光の歌詞

1)
蛍の光、窓の雪、
書読む月日、重ねつゝ、
何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。
2)
止まるも行くも、限りとて、
互に思ふ、千萬の、
心の端を、一言に、
幸くと許り、歌うなり。
3)
筑紫の極み、陸の奥
海山遠く、隔つとも、
その眞心は、隔て無く、
一つに尽くせ、國の為。
4)
千島の奥も、沖繩も、
八洲の内の、護りなり、
至らん國に、勲しく、
努めよ我が背、恙無く。
4番の歌詞は、領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されている。
千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期の案)
千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり(千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて)
千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり(日清戦争による台湾割譲)
台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)
敗戦後の改変はなく、抹殺されてきたが、そろそろ考える時代になっている。
「宗谷の果ても、尖閣も 八洲の内の 守りなり」

2014年12月10日水曜日

豊臣秀吉の子供

 豊臣秀吉には実子がいなかったとよくいわれていいます。
淀殿との間に生まれた二人の子、三歳で病没した鶴松と大坂城に滅ぶ秀頼は有名で、秀吉の実子らしいですが、それ以前に秀吉に実子があったことはあまり知られていません。
秀吉の子供で「秀勝」を名乗った人物は3人存在しました。
「初代」秀勝は秀吉が長浜城主時代に誕生したとされる石松丸のことで、側室の南殿なる人物が母と言われています。南殿は天正二年(1574)にも女子を産んだとされていますが、その素性は明らかではありません。この「初代」秀勝は同四年十月にわずか七歳で亡くなります。
織田信長は悲しみに沈んだ秀吉を見て、四男の於次丸を秀吉の養子として与えました。これが「二代目」秀勝で、同十年の中国攻めには十五歳で出陣、初陣を飾っています。
 間もなく本能寺の変で父信長が滅ぶと、「二代目」秀勝は十月に秀吉が主催した京都大徳寺での葬儀において喪主を務めました。以後明智光秀の旧領丹波が与えられ、亀山城主となって二十八万石を領す一方、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の役にも参陣、同十三年には従三位左近衛権少将のち正三位権中納言となり、丹波少将あるいは丹波中納言と呼ばれました。
しかしそれも束の間、病を得てこの日に亀山城で十八歳の短い生涯を閉じました。
翌年、秀吉は姉・とも(日秀尼)の二男で秀次の弟である小吉を養子とし、二代目秀勝の旧領をそのまま引き継ぐ形で与え亀山城主としました。これが「三代目」秀勝です。残念ながら三代目も朝鮮役の最中、文禄元年(1592)九月に異国の地で病を得て二十四歳の若さで陣没しています。
後継者にめぐまれなかった秀吉が最後の秀頼に執着した気持ちがわかりますね。

2014年12月6日土曜日

キリシタン如水-

大阪城天守閣主任学芸員 跡部信 氏の講演メモ: 
「キリシタン書簡集から見るシメオン如水の人間像」 (11月29日福岡市市民フォーラム)
1)キリスト教との出会い
*如水が洗礼をうけたのは天正13年 1585 40歳の頃
*高山右近・蒲生氏郷・小西行長らが導いた。
2)九州攻めとキリシタン禁令
*豊後から避難する司祭たちのため、毛利領内に司祭館を建設するように、豊臣政権の重臣として毛利家と交渉し、イエズス会のため働く。
*小早川秀包・大友義統らをキリスト教に勧誘。
*秀吉は高山右近・蒲生氏郷・小西行長らには棄教を命じたが、如水には多大な功績に遠慮して、命じなかった。
*如水は長崎・浦上・平戸などの領主にイエズス会司祭を推奨し、京都のキリシタンを庇護する活動をした。
*イエズス会巡察師が来訪(1591)したとき、秀吉に会見をうながすが、拒否された。
3)如水の失脚から関ヶ原
*文禄の役で全羅道・普州城攻撃を延期する許可をうるため帰国したため、秀吉の勘気にふれ失脚。
3年後の和議破局後に許された。秀吉との関係は薄れていった。
*関ヶ原の戦が起こると、長政とともに東軍につき、十字架の旗印を揚げて戦った。
*キリシタン大名の有馬晴信・大村喜前らを東軍に勧誘した。
*もともとキリシタンの大友義統を捕虜とし、信仰の道につれもどした。
*キリシタン大名の小早川秀包の妻を弟の直之に救出させた。
*加藤清正に抑留された小西領の司祭たちの開放に尽力した。
4)筑前での隠居生活と昇天
*長政はキリスト教と距離をおいたが、如水は公然と庇護した。
*59歳で死去するまでキリシタンとしての信仰を保つた。
*信仰上側室をもたなかったが、妻は浄土宗の熱心な信者だった。
九州を平定してキリシタン王国をつくる夢を持っていたのではないかという話もでた。
講演会の掲示板
日本の歴史書にない話が多くみられ、熱心なキリシタンだったということですが、いくらか割り引く必要があるかもしれません。
明日12月7日の大河ドラマにどれだけキリシタン色がでるか?楽しみだ。
黒田如水

街歩き教室「黒田官兵衛・長政のキリスト教と家康」(清田清)
2時間歩き、2時間喋った。皆さまお疲れ様でした。
画像は官兵衛洗礼名シメオンの言われ「シメオンの讃歌」を描いたレンブラント画。



以下、街歩きコース点景と最後は、赤頭講師と博多遺跡群出土の十字架鋳型までの画像。

官兵衛寄進のイエズス会教会跡・勝立寺

→福岡藩最初の宗門改があった智福寺跡水鏡天神





→アクロス下に遺る、福岡惣構え第二の守りとして福博を遮る石垣




→孫文演説の県公会堂



→11代長溥設置の藩理化学研究所・福岡藩精錬所跡碑



→中洲のビル群谷間の国広稲荷




→道真使用鏡が神体・鏡天神





→綱首の町跡の綱敷天神




→イエズス会本部所収のコーロス徴収文書にパルタザル神屋彦右衛門尉とサインをする彦右衛門は宗湛親類か?/神屋宗湛屋敷跡の博多小学校と豊国神社




→ 福岡惣構え第一の守り石堂橋門跡の石堂





→崇福寺・黒田墓所官兵衛墓碑



→そして千代公民館の赤頭講師、




博多遺跡群出土のメダイと十字架鋳型  

 

 


お終い、、 — 場所: アクロス福岡

2014年12月3日水曜日

日蒔野(ヒマキノ)という地名

福津市の福間駅東や福間南の町名であった地区が開発されて、日蒔野1丁目から6丁目に整理されたそうだ。まだネットでの地図にはでていない。
昔は四角とか両谷とよばれていた地域で、日蒔という地名はしらなかった。
福間町史などにも見あたらなかったので、古賀の美明のような創造名かと思ったが、やっと古い地図に日蒔橋という名前をみつけた。字名として存在していたのだろう。全国的にも珍しい地名だ。
中世から田畑に蒔く種籾の量で耕地の面積を表した。一段は五升蒔き、一石蒔きが石巻になったという。日蒔は一日で蒔ける田畑の広さを表したのだろうか?
この西郷川地区は戦国時代に河津氏一族が支配していた場所で、その史跡の亀山神社、正蓮寺、井原屋敷、竹尾古墳、栗島神社、深川屋敷、八龍神社などをあるいて回ったことがあるが、日蒔という地名はしらなかった。
開発の事前調査で、上西郷ニホンスギ遺跡がみつかり、亀山城関連の建物跡であることが平成22年に発表されたときの説明会には出かけた。
このあたりもすっかり住宅街に変わっているだろう。
上西郷ニホンスギ遺跡