2015年9月26日土曜日

お茶の心と「霽月」「耳庵」「碧雲荘」「柳瀬荘」など。

伊勢神宮の茶室「霽月」
 わたしの父は松下幸之助と生年月日が同じであった。大きな違いだなの苦笑していたが、二ヶ月ほど幸之助より長生きした。
 松下幸之助は生前、京都東山の松下の別邸真々庵のほか、松下電器産業や松下政経塾など自身が関係した施設に茶室を建設した。 
1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで財団法人伊勢神宮崇敬会の会長を務めた松下幸之助伊勢神宮に茶室の献納を思い立ち、構想約10年を経過して実現した。
 松下幸之助の米寿松下電器産業グループの創業65周年を記念して、1983年3月に建設に着手、「300年保ち、歴史的遺産となるものを」という要望から、約2年間の工期と総工費約10億円をかけて1985年(昭和60年)4月に完成した。伊勢神宮の茶室「霽月(せいげつ)」である。
 霽月とは雨が霽(は)れたあとにひときわ輝く月のことである。
 幸之助は神宮以外にも日本全国各地に以下のような茶室を寄贈している。 松下の名にちなみ松の字が使われている。
真松庵 - 1965年(昭和40年)高野山 金剛峯寺
豊松庵 - 1965年(昭和40年)大阪城公園 西の丸庭園
紅松庵 - 1974年(昭和49年)和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)
鈴松庵 - 1975年(昭和50年)椿大神社
松籟庵 - 1976年(昭和51年)追手門学院大学
宝松庵 - 京都国際会議場
松寿庵 - 中尊寺
和松庵 - 四天王寺本坊庭園
自宅の茶室授業やロボットのお点前


 わたしは企業の寮生だった頃、寮母さんからお茶のお手前を教えられたことがある。
 結婚後、家内がお茶の稽古をはじめて、長年続けていたいたので、古賀の家に茶室を作った。
家内が遊びにきた学生にお点前を教えたり、私はロボットにお手前をさせたりした。
 今は孫娘の一人が大学の茶道部でお茶をならっている。
卒業前に先生の免許を学割でもらうそうだ。
孫娘の京都府立大学茶道部

松下さんとは大きな違いだが、お茶のこころは通じるものがある。

九州に縁の深い松永安左エ門氏(1875~1971)は、長崎県壱岐に生まれ、慶応義塾に学んだのち、九州電灯鉄道・東邦電力等を率いて、戦前戦後を通じて電力界の重鎮でした。

晩年、耳順(したが)う」にちなんで耳庵(じあん)という号を名乗るようになります。


茶室の久木庵
埼玉県柳瀬村(現所沢市)に山荘「柳瀬荘」を営んで、益田鈍翁(ますだどんのう、1848~1938)や、原三渓(はらさんけい、1868~ 1939)といった我が国の近代茶の湯の主導者たちと広く交流をもち、古美術品の蒐集においても強く影響を受けました。

当時の数寄者たちは、蒐集した美術品を茶席へ惜しみなく用いて取り合わせを楽しむ茶の湯を展開し、耳庵氏もまた、古くからの概念にとらわれない、自由で豪快な茶の湯スタイルを受け継いでいきました。

彼の愛した茶器類は、東京博物館や福岡美術館に寄贈されています。
茶器の展示(福岡美術館)


昨日のテレビで、非公開の野村「碧雲荘」が紹介された。
南禅寺の近くに、野村徳七翁によって建てられた別邸。
当時、廃寺となった南禅寺の塔頭子院の跡地に数々の別荘群が作られた。碧雲荘もそのひとつで、風光明媚な東山を借景に雄大な園池を築いた。
そして琵琶湖疏水の水を引き込んで池を造り、その周囲を木造平屋建や桟瓦葺を基本に良材を用いた大玄関、能舞台、書院、洋室、書斎、茶室などが囲んでいる。
「藤原時代の絵巻物をみるような豪壮快闊な庭園」と評価されている。


碧雲荘の敷地図

利休は侘び茶の精神を突き詰め、茶室の面積の狭小化を試み、天井高も頭がつかえるほど低くし、そのデザインも高低に変化を持たせ、材も杉板、網代、化粧屋根裏にするなど工夫をこらした。
採光のための唯一の開口部であった縁の引き違い障子を排して壁とし、そこに下地窓、連子窓や躙口をあけた二畳の茶室を造った。
主客が近距離で交流し、一期一会、一座建立のできる環境作りの思想である。
これはまさに三密の環境であり、コロナの時代には不適な構造である。


2015年9月21日月曜日

下関市豊北町の中山神社

中山忠光が暗殺された場所は、現在の下関市北端にある豊北町田耕の長瀬の渓谷であった。
(綾羅木の中山神社からは約40Km離れている。)

2015年9月20日日曜日

下関新地地区の遺跡

下関の港町は江戸時代は萩の毛利領と長府領と清須領に分割して利用されていた。
江戸時代の下関地図
新地地区は萩の毛利領で、白石邸や奇兵隊決起の場所や晋作の終焉の場所がある。
白石邸・奇兵隊決起の地


高杉晋作終焉の地
その少し山手に奇兵隊が立て籠もったという了円寺があり、ここは家内の母方の菩提寺である。近くの桜山神社には奇兵隊関連の397人の招魂碑がずらりと並んでいる。

愛新覚羅社

 下関市綾羅木の中山神社の境内には、この近くで暗殺された中山忠光の墓があり、戦後に愛新覚羅社がつくられた。昨日はじめてお参りをした。


 (その後NHKのテレビで紹介されたので、その写真を追加している。)
 忠光の曾孫娘になる浩(ヒロ)が、日中の架け橋となる覚悟で、愛新覚羅溥傑と結婚したのは、昭和12年2月であった。。

彼は清朝最後の皇帝溥儀の弟で、愛妻・嵯峨浩(ひろ)と新婚時代の半年間を千葉県稲毛区稲毛浜で過ごした住居が今ものこっている。








稲毛浜の住居


中山家の系図
溥傑(1907-1994)は、日本の学習院に留学し、卒業後は旧陸軍士官学校に進んだ。満州建国で帰国し、即位した兄・溥儀を助けたが、昭和20年にソ連が満州に侵攻し、逃れる途中、兄とともに捕虜となった。浩らも中共軍に囚われたが2年後に釈放され、帰国した。戦後中国に送還された溥傑は、昭和35年まで戦犯として服役し、その間二人が交わした往復書簡は55通になっていた。
二人の交わした往復書簡
釈放後にようやく妻との再会を果たし、晩年までむつまじく暮した。

平成6年に北京で亡くなるまで、その一生を日中友好に捧げ、両国の架け橋となった。
二人で何度かこの中山神社をおとずれたことがあるから、その遺言で愛新覚羅神社ができた。
社殿は中国の方向にむかって西向きに建てられている。
中山神社


愛新覚羅社正面
愛新覚羅社入口
その奥の宝物殿には、愛新覚羅溥傑と浩の肖像画や、二人の間に生まれた慧生の写真などが展示されている。
戦後、慧生の心中事件は有名であり、昭和史の社である。
二人の肖像画
慧生の幼児の写真




2015年9月18日金曜日

古賀市鹿部観音堂の聖観音立像


古賀市の鹿部山の南麓にある観音堂はおとずれる人も少なく市民もあまりしらない。
古賀の千人参りという行事が春と秋に行われるが、その時の一番札所になっている。鹿部山公園に登る手前の変電所の付近である。
観音堂全景
鹿部観音堂の場所










九州歴史資料館の学芸員の
井形進氏がここの聖観音立像を精密に調査された。
聖観音立像


その結果は
 九州歴史資料館の特別展 福岡の神仏の世界「九州北部に
 華ひらいた信仰と造形」のなかで詳しく公表された。
 
また今日は古賀の市民講座で1時間半の講演をされ、調査の裏話をまじえて紹介された。
鹿部聖観音立像
像の側面


鹿部の聖観音立像は平安初期の作品で、98cmの小柄なものだ。
特長は頭部が大きい、耳が縦長、翻波式衣紋の衣装で、鞍手の長谷寺や志賀島の荘厳寺の聖観音立像に通じるものがある。
使用された木材は楠で内部に節が有ることから、御神木を素材として仏像を作った神仏習合時代の作品である。

宗像神社、宮地岳神社、志賀島神社などの神官と周辺の僧侶の絆が強い時代であったことが判明した。
 
その他福岡県内に伝わる古代~中世の仏像や神像の重要作例を紹介し、それらの信仰の場の風景を解明する話であった。

具体的には若杉霊峰会千手観音像、谷川寺薬師如来像、浮嶽神社如来形像、鹿部観音堂聖観音像といった9~10世紀の彫像群はやはり存在感があって「九州仏」の魅力を示し、大祖神社・飯盛神社の宋時代の石造獅子や朝鮮半島伝来の古代~中世の金銅仏など地域性を明確に示すものであるという。

 
福岡県で仏像をみるには九州歴史資料館のほかは、大宰府の観世音寺である。
 

2015年9月9日水曜日

石丸安世

先日佐賀市の歴史博物館などで石丸安世の資料をさがしたがみつからなかった。わたしの専門分野の技術者として、もっと有名にしたい人物だ。
石丸安世は佐賀藩士の四男として現在の佐賀市本庄町に生まれた。
青年期に佐賀藩蘭学寮、長崎海軍伝習所などで学んだり、国内初の電信機実験に立ち会った。
32歳の時、藩主鍋島直正の意向を受け、じかに西洋の学問に触れるため、英国貿易商人グラバーのあっせんでイギリスへ密航留学。
電信(電気通信)など当時最先端の科学技術を吸収した。

帰国後は、科学知識を生かして佐賀藩の炭鉱開発などを手がけ、明治に入ると政府の工部省に入省。
初代電信頭として、電信の敷設にまい進し、数年で全国に電気通信網を張り巡らせ、日本の情報伝達の礎を築いた。
 その後、大蔵省で造幣局長に登用されたほか、造船業の普及に努めるなど、明治政府の中枢として活躍した。
また私塾東京経綸舎を開き、日本初のエ学博士となった多久市出身の志田林三郎ら後進を育成した。
また沖電気の創業時には自宅を使用させて支援していた。
多久島澄子著の伝記が出版されたことは、喜ばしいことだ。
佐賀の有田焼を、電信用の碍子に使用したことも、石丸の功績であった。わたしの学友が社長の佐賀有田の深川製磁では、碍子も製品の一つである。



深川製磁の碍子


第一章 石丸虎五郎の生い立ちから長崎伝習時代まで石丸虎五郎の出自
経綸之碑
弘道館蒙養舎・内生寮に学ぶ
義祭同盟
佐賀藩蘭学寮へ
兄と父
佐賀藩の長崎警備
長崎海軍伝習所の開設
佐賀藩の蒸気船伝習準備
飛雲丸と晨風丸
長崎海軍伝習生となる
安政六年虎五郎の伝習
長崎海軍伝習所閉鎖後
電流丸に乗り込み伊万里へ
虎五郎の英語稽古
英語教師三島末太郎
他の伝習生の記録
オランダ教師団の帰国
グラバーとフルベッキの来日
海軍伝習生佐賀へ帰る
三重津の海軍伝習
万延元年本野周蔵との出会い
伊東次兵衛に泊めてもらう
英学稽古の継続
壱岐・対馬・五島巡視
プロイセン・ドイツの写真師、虎五郎を撮るか
数学はフルベッキとパーカに習う
長崎海軍伝習生の海外渡航
文久二年野村文夫との出会い
石丸嘉右衛門安積
文久三年攘夷派に狙われる
元治元年の虎五郎
久富与平と虎五郎
虎五郎は道楽先生
直正の通訳としてイギリス艦へ
大殿へセコンドを贈る
母の死
フルベッキとフレンチを佐賀へ案内

第二章 イギリスへ密航留学慶応元年十月十七日長崎港出発
広島藩士野村文夫の渡航費用
野村文夫の出版物
乗槎日記
いざイギリスへ
イギリスの土を踏む
アバディーンでの生活
イギリス留学の成果
パリ万国博覧会へ
長州藩留学生山尾庸三・竹田庸次郎
手塚五平の手記
慶応四年帰国
佐賀藩の軍制改革
小出千之助
有田郷・山代郷での貢献

第三章 明治三年から明治四年上京まで小城藩の炭坑開発
久原の異人屋敷
虎五郎の私塾経綸舎
久原経綸舎の塾生
中野宗宏
モリスの蒸気機械
江越禮太と田尻禮造
佐賀藩木須炭坑の契約書

第四章 工部省電信頭時代明治四年直正薨去
工部省へ出仕
石丸安世と電信修技の学校
東京経綸舎のはじまり
東京経綸舎の入塾者
田中林太郎
石丸邸の寄留者
手塚輝雄と手塚五平
異色の経綸舎塾生
経綸舎から四博士誕生
電信修技校出身者
石丸安世電信頭と電信寮のひとびと
電信寮はじまりの頃
電信線の延長・電信の普及
電信寮建築掛の記録
石丸電信頭と有田の碍子
田中久重に上京を促す
電信線増架願い
第五章 大蔵省造幣権頭・造幣局長時代大坂に造幣局建設
馬渡八郎(俊邁)
明治十年二月御行幸
造幣寮と大隈財政
造幣局長石丸安世
貿易銀の変遷
直大の印章
香港・天津のできごと
明治十三年の貨幣大試験
大坂川崎日進学舎
上海輸入石炭表
石丸安世邸で沖電気創業

第六章 明治十四年の政変から明治十五年
明治十四年十月十一日
大隈重信の政変談話
石丸安世の辞職
牟田口元学
久米桂一郎
石丸農場開設
石丸家別荘跡
鍋島幹と深川亮蔵
伊万里銀行へ出資
櫛屋前田家の石丸安世書簡

第七章 神陽先生の碑建立から晩年帰郷
神陽先生の建碑発起人となる
海軍省出仕
小野濱造船所長として神戸へ
明治十八年湊川神社に石燈籠を奉納
賢崇寺の石燈籠
造船所見学の石丸安世
元老院議官となる
大隈重信の案内に応える
フルベッキ墓碑建設発起人のひとりとなる
櫻水遺稾
石黒直寛
江口如心三酌翁
篤友吟社
櫻水の終焉
櫻水の親友たち
西岡逾明冝軒
牟田口元学鷹村
長森敬斐学稼
原田種成蘿径
久米邦武易堂
遺言

第八章 虎五郎(安世)の家族青山の墓所
妻阿以
長男龍太郎
佐賀本行寺の墓所
本野季雄を養子に
季雄の中国土産
季雄の実父英吉郎
石丸家と本野家
盛亨と總子
盛亨の息子達
讀賣新聞と本野家
早稲田大学と本野家
龍太郎の妻トクとその父園田実徳

おわりに

資料編  
年譜・系図
 イ 石丸安世年譜
 ロ 石丸家系図
 ハ 石丸安世をとりまく人物年表
 ニ 石丸家と本野家、中村家、園田家、西郷家の関係
 ホ 蔵春亭久富家系図
 へ 田中久重・石黒貫二・中村奇輔の関係
一 石橋家文書
 解説
 (一)海軍伝習ニ付詰中着到
 (二)口達録
 (三)覚八枚
 (四)蒸気船御願其外御奉行所御届写
二 「船長浜野さん」について
三 明治五年電信機掛文書
四 造幣寮文書二部
五 造幣局長石丸安世の書簡
六 明治十七年の石丸安世書簡
七 経綸之碑
八 光吉元こと光吉元次郎について

史料・文献・論文目録
人名索引
謝辞

2015年9月4日金曜日

飯塚市 山王山古墳 (改訂)


福岡県教育委員会は県の文化財保護審議会の答申に基づき、飯塚市西徳前(九工大飯塚校の南側)にある「山王山古墳」を貴重な文化財として史跡に指定しました。(これで、県指定文化財は計689件)
「山王山古墳」は、6世紀末期に作られたと見られる直径20メートルを超える大型の円墳で、
近くを流れる川を見渡せる丘の上にあります。



 2009年度から始まった発掘調査では、石室に巨大な石が用いられており、壁面には、固いもので何度もたたいて浮かび上がらせる「敲打」と呼ばれる技法を使った文様などが確認されました。

石室の中からは銀の象眼が施された大刀の柄頭つかがしら(握り手)や金銅製の馬具なども出土、これらはどれも希少性が高いものばかりで、地域の歴史的特性を顕著に示す重要な資料です



古墳がある場所や出土品などから、6世紀末に築かれた首長墓とみられています。

県内には、こうしたした技法で装飾された石室を持つ古墳はおよそ60基が残っていますが、当時は80基ほど作られたとみられていて、これは熊本県に次いで2番目に多いということです。
「山王山古墳」は、地域の歴史的特性を顕著に示す重要な資料であることが評価され、新たに史跡に指定され、保護をされるようになりました。

 

2015年9月3日木曜日

真田信繁(幸村)@九州(改訂版)


今年の大河ドラマは真田丸。


その主人公の真田信繁(幸村)は九州とは無縁の人物に思れているが、秀吉の朝鮮出兵の時期には九州の地を踏んでいるのは確実だ。
さらに大阪夏の陣のあとの逃亡伝説を、信じている人が九州には結構多いようだ。

天正19年 (1591)幸村25歳 9月
秀吉、諸大名に朝鮮出兵を命じる。
文禄1年 (1592)幸村26歳 2月上旬
昌幸、信幸、幸村、朝鮮の役に参陣する。肥前名護屋に赴く。
真田親子で500騎をそろえ、幸村は馬廻り(親衛隊)をつとめる。

文禄2年 (1593)幸村27歳 
6月 秀吉、和議7ヶ条を明使に示す。 8月
昌幸、名護屋より大坂に帰り、ついで上田に帰る。

慶長2年 (1597)幸村31歳1月
秀吉、朝鮮再征のため出兵、この時は真田勢は伏見城の築城に従事。
慶長3年 (1598)幸村32歳
8月18日豊臣秀吉病死。
11月朝鮮からの撤兵完了。

大阪夏の陣で真田幸村は、事前に自分が掘ったトンネルで豊臣秀頼、淀を連れて大阪を脱出して九州の島津氏まで逃れたという、良くある英雄不死伝説があり、秀頼の墓もある。

豊臣秀頼をともなって大坂城を脱出して鹿児島に逃れた
真田幸村は、頴娃町の雪丸に居宅を与えられたという。

さらに島原の乱の総大将・天草四郎が豊臣秀吉の孫で、
秀頼の子というウワサが天草にある。

また、真田幸村が鹿児島の谷山の木下郷に
豊臣秀頼を逃がしたというウワサもある。

ちなみに、秀頼の長男・国松は、
北の政所・ねねの実兄で立花藩(大分県)主・木下氏に
預けられた後、木下氏の実子ではないことから、
立花藩から分家して、日出(ひじ)藩主となったのは
公然の史実である。





別説1: 翌年5月7日の大坂夏の陣最後の決戦では、ここかしこに「真田左衛門佐(幸村)」を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み、あと一歩のところまで家康を追い込んだが、精根尽き果て、田の畔に腰を下ろしているところを、越前藩・松平忠直隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首をとられた(『慶長見聞書』)。

この幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』であるが、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には幸村の兜首が3つも出てきたが、西尾久作のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされたという。


しかし、『真武内伝追加』によると、実は西尾のものも影武者望月宇右衛門の首であったとのことで、西尾の主人・松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男であり、その忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかったと記している。


豊臣秀頼の薩摩落ちを伝える『採要録』は、秀頼とともに真田幸村や木村重成も落ち延びたと記し、幸村は山伏姿に身をやつして、頴娃(えの)郡の浄門ケ嶽の麓に住んだという。


幸村の兄・信幸の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説について調査を行い、その結果報告を見せてもらった肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山は、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。鹿児島県南九州市頴娃(えい)町には幸村の墓と伝える古い石塔があり、その地名「雪丸(ゆんまい)」は「幸村」の名に由来するという。 


(大阪城天守閣研究主幹 北川央)


 別説2:日出藩主だったわが木下家には、まったくちがうストーリーが代々伝わってきました。捕らえられて斬首されたといわれている秀頼の息子・国松に関するものです。

 国松は真田幸村の嫡男・大助らとともに薩摩の伊集院(現日置市)に逃れた。恐らく、島津家の軍船で落ち延びたのでしょう。その後、薩摩でもかくまいきれなくなったのか、国松は日出藩に来ます。

国松は、2代・俊治の弟として延由と改名し、羽柴の姓を与えられ、日出藩3万石のうち5千石を分封され立石藩主になった。これが口伝で伝えられてきたのです。うちの分家ともいえるその家は、明治時代まで続きました。

わが家の言い伝えは、秀頼に関しては触れていません。ただ、鹿児島市の木下郷と言われていた集落には、こんな話が残っていたそうです。大坂夏の陣が終わると200人以上の集団移住があった。移住してきた人々は、どことなく高貴な人たちで、農業や商売をすることもなく、飲み食いをしても、その代金を払うこともなかった。あとから島津家の者がやって来ては、その分のお代を払っていったことを考えると、移住者たちは秀頼とその家臣たちだったのではないか──。

現地には、秀頼のものとされる墓もあります。歴史には表があれば裏もある。私は、そう考えています。

( 横山 健)