2013年7月2日火曜日

古賀の船原古墳出土品は国宝級(改訂)

2013年に、古賀市谷山の船原古墳周辺で出土した国宝級の馬具などが、古賀市を有名にした。

とくに今回、玉虫の羽で装飾された金銅製の馬具であったことが、国内で初めて見つかったことで、全国紙に一斉に大きくとりあげられた。各紙の概要をを抜粋する。

玉虫を使った装飾品は国内では4例のみで、そのうち法隆寺の「玉虫厨子(たまむしのずし)」と福岡県宗像市沖の沖ノ島の「金銅製帯金具」は国宝である。













同様の馬具は、朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ)の王陵クラスで出土したものがあり、両地域の親密な関係を裏付けた。
          皇南大塚出土品の玉虫装飾

 

当時の大和政権は新羅のライバル・百済(くだら・朝鮮半島南西部)と同盟関係にあり、船原古墳の被葬者が大和政権とは別に、独自外交を展開した可能性が浮かび上がった。同古墳が築造された6世紀末~7世紀初めは、朝鮮半島の勢力図が大きく変わる転換点にあった。半島北部の高句麗(668年滅亡)と百済(660年滅亡)が衰えはじめ、新羅が勢力を伸ばした。

 大和政権は百済と密接な関係を保つなか、新羅は北部九州の勢力に接近。半世紀ほどさかのぼる527年には九州の豪族・磐井(いわい)が新羅を後ろ盾に大和政権に反旗を翻す「磐井の乱」を起こした。磐井は敗れ、大和政権は九州の統治を強化したが、その後も新羅は大きな脅威となっていた。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「大和政権は国家レベルで百済と同盟を結んだが、北部九州の勢力は朝鮮半島の複雑な力関係を見極めながら、独自につながりをもったことが考えられる」と話す。

福岡県粕屋郡にはヤマト王権の支配拠点「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」があり、外交窓口の役割も担った。当時は新羅との緊張関係が続いた時期。朝鮮半島では王陵級でしか出土しない玉虫装飾と確認されたことで、福岡大の桃崎教授は「船原の主は外交のキーパーソンであり、新羅からも一目置かれていた存在」とみる。また美術工芸の分野においての意義も大きい。新羅発祥の玉虫を使った馬具装飾技術は、次第に玉虫厨子(7世紀中ごろ)といった仏教美術、工は、芸にシフトした。今回の玉虫杏葉はその転換期のもので「空白を埋める資料」。謎の多い玉虫厨子の来歴を考える上でも価値が高いと、桃崎教授はいう。






 杏葉の装飾に玉虫の羽が敷き詰められていたことについて、船原古墳の遺物調査などに助言する今津節生・谷山北地区遺跡群調査指導委員会会長(奈良大教授)は「装飾の材料としての玉虫は、国内では超一級、最高級の工芸品に使われている」と意義を説明。

田辺一城市長は玉虫が幸運を呼び込むとされていることに触れ、「世界の状況が厳しい中、社会に明るいメッセージを発することになる。今回の発見をこれからのまちづくりにもつなげていきたい」と声を弾ませた。


国宝に認定されるにはまだ20年ほどかかるらしいが、現在地元に保存・展示する場所がなく、九州歴史資料館などに保管されることになるらしい。

奈良県の藤ノ木古墳などは、結構辺鄙な田舎にが記念館が出来ているらしいが、国が直接管理するか否かで、扱いが大きくかわる。

古賀市に記念館が出来る可能性はどの程度だろうか。これ以外の出土品についても、大いに検討し、PRしていかなければならない。
















玉虫羽の発見が、発掘当初の2013年から7年後になった理由について、会場におられた歴史資料館長にお尋ねした。土豪の中に埋もれていたため、損傷がひどく、注意深く処理する必要があった。2015年にエックス線撮影によって、鳳凰の形の模様が発見された。この時は、玉虫羽は不明であった。



桃崎教授らにより、玉虫羽の可能性があることが、2016年に予言された。
小郡市にある九州歴史資料館で、目立たたない縁の下のクリーニング作業にあたられた研究員の紹介もされ、その結果玉虫羽の発見につながったのだと思います。
 今ではお目にかかることがまずない、本物のタマムシを敷き詰めて再現にも挑戦されました。。


 その後さらに詳細な観察と、断層撮影(CT)による検査で、上の図の丸印の部分に玉虫羽が確認され、今回の発表になったという説明をうけた。科学技術の進歩のおかげである。










ここ数年の調査結果の報告をみると、従来のスケッチ図や写真による説明でなく、若手研究者の西さんらは、最新のCGアプリで、3Gでの回転や、接写拡大、色分けなどを駆使して、埋蔵状況や、素材のクリーニング法やその材質などが詳しく説明された。
また福大の桃崎教授は流暢な講演で、2014、16、につぎ、19年に3回目の受講をしたが、出土した部品の類似品を多数紹介されるのに驚いた。
また金属やガラスなどの素材から、埋蔵物の製作年代を推測する技術内容も詳しくしめされた。
最近1年間中国各地の史跡調査をされてこられたそうで、豊富な資料収集の成果から、西暦600年前後のものと判定された。
教授の持論である粕屋屯倉は、上宮王家、山背大兄に仕えていた乳部や「つきしね」らと可能性があることは、前回同様にレジメで強調されていた。これは私も以前から調査していたことで、一度先生に報告したいと思う。
このような推測の内容を積極的に発言されるのは、筑波大学院で学ばれたからで、旧帝大系の先生では見られない。





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