2013年12月13日金曜日

一光三尊と一光寺と咸臨丸


善光寺の一光三尊


一般の一光三尊
私の菩提寺は一光寺というが、その語源は一光三尊らしい。三体の仏像の背後を、大きな1枚の舟形光背がおおっているのを、一光三尊という。

善光寺式と一般の一光三尊像の比較 :


中尊の阿弥陀如来、両脇侍観音菩薩勢至菩薩の3体とも立像である。
多くの阿弥陀如来は、左手が「与願印」で法衣は「片方の肩」であるが、善光寺式の阿弥陀如来は左手が「刀印(下げた左手の人差し指と中指を伸ばし、他の指を曲げる)」で法衣は「通肩(両方)」である。 両脇侍は胸前で両手の掌を水平にして重ね「梵篋印(ぼんきょういん)」、独特の宝冠をかぶっている。

一光寺の本堂で確認したら、現在の三尊は上記の一般のものだが、光背は一つでなく、三尊に個別についている。

一光寺は、創設時の名島地区からの移転や、箱崎千軒地区の大火による消失などで、本尊も作り変えられたようで、当初のものや名称とは無関係になったらしい。

一光寺の本堂

一光寺の460年史にも記載されている歴史で有名な事件:

黒田11代藩主の黒田長溥は蘭学に熱心で、蘭学者永井青崖をかかえていた。

若き日の勝海舟は、その永井に蘭学を学んだ。辞書を借りて2冊の写本をつくり、1冊を売って学費とした話は有名だ。

藩主はこの経緯をしっていたので、長崎海軍練習所時代の勝海舟に、博多湾に寄港するように要請した。

1866年に勝の咸臨丸が博多湾に寄港したとき、黒田藩は乗船員を、秀吉も利用したことのある「箱崎御茶屋」で歓待した。
咸臨丸

その時、幹部にはオランダ人やイギリス人もいたので、博多の聖福寺に泊め、下士官は近くの箱崎一光寺に泊めたとい
う。

彼らは一光三尊や阿弥陀如来像をどのようにながめたであろうか?


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