2014年9月15日月曜日

宇都宮鎮房と天徳寺

宇都宮 鎮房(きい しげふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊前国の戦国大名。城井氏16代当主。城井谷城主。怪力無双の人物で強弓の使い手であったとも伝わる。 天文5年(1536年)城井長房の子として誕生。はじめ、貞房を名乗った。 父・長房が本家筋の下野宇都宮氏の内紛への介入に熱心であったため、領国の管理を早くから任されていたという。
最初は大内義隆に属していたが、義隆が陶隆房の謀反で殺されると、豊前国に支配権を確立した大友義鎮(後の宗麟)に服属。正室に義鎮の妹を娶り、義鎮から一字拝領し、鎮房と名を改めた。しかし、大友氏の勢力が天正6年(1578年)の耳川の戦い以降衰退すると(耳川の戦いには城井勢も参戦していた)、今度は薩摩国の島津義久に属するという巧みな処世術を見せている。
 
その後、宇都宮鎮房は秀吉の九州征伐に協力し、本領安堵を約束されていたが、九州平定が終わると秀吉はその約束を破り、伊予への転封(領地替え)を命じた河野や宇都宮などの中世武士団をきらった秀吉の執念で、殆どの中世武士団がほろぼされ、豊後森に移った来島氏だけが江戸時代をいきのびた。
そこで秀吉に反旗を翻し、城井谷に籠った宇都宮鎮房でしたが、黒田官兵衛の策略の前に降伏してしまう。
その時に和睦の証として黒田家に入ったのが娘のお鶴であったが、結果的に長政が宇都宮鎮房、官兵衛が宇都宮鎮房の息子・朝房を暗殺することになった。その場所は、中津城とされていたが、最近では馬ケ岳城ともいわれている。
 

馬ヶ岳城跡への登山口



城井谷の天徳寺に、二人の墓があり、静かに眠っている。
宇都宮鎮房の墓
 

天徳寺には鎮房の兜(下の写真)や肖像画、同氏の祖、藤原宗円(そうえん)が後冷泉天皇から与えられたというカエルの形をした香炉(町指定文化財)、鎮房が奉納したという十六羅漢図など計11点が保存されている。

 
 肖像画は、愛知県に住む同氏の子孫が昨年12月に寄贈し、制作年代は不明。香炉は大人の手のひらに載る大きさで、菊の御紋入りの木箱に納められている。






月光山天徳寺の縁起 説明板

宇都宮鎮房の長男朝房は肥後で加藤清正軍に殺されたが、清正はその地に宇都宮神社を建立している。


平成25年10月12日に求菩堤温泉にとまり、13日にそこの歴史資料館で如水の書を見る。

その後32号線で城井谷にでて、城井上城の巨岩をみる。3丁弓岩なども迫力があった。

東に下って天徳寺で宇都宮鎮房らの墓をおがむ。

さらに松丸の宇都宮館あとをみた。
宇都宮館跡

その近くに蔵内館があり、観光コースになっている。
蔵内は宇都宮の家臣であったことをしる。

豊津(みやこ町)にでて、馬ヶ岳の登山口まで行った。

この時の写真を整理した。

城井ノ上城跡への登り口

宇都宮鎮房の旗

三丁弓の岩

城井谷の古地図

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