2015年4月16日木曜日

朝鮮通信使の歴史と国交回復

秀吉の没後に天下をとった家康が、朝鮮との国交を回復し、江戸時代には朝鮮通信使の交流が十数回行われた。














この国交回復にはその交渉役の対馬の宗家やその外交僧たちが、国書を偽造してまでして、両国の国王の面子をたてるよう努力した。

また、両国王もうすうすそれを感じつつも黙認して、国交の回復を承認した。また後に偽造が暴露されても、宗家を厳罰にはしなかった。
要するに国交回復による通商復興の利益が大きければ、国交の条件はかなり緩和されるものだ。


花鶴浦と朝鮮通信使
△△△近世にみる4自治体連携の足跡△△△
古代ばかりか近世約200年間(1607~1811)も、隣国朝鮮半島との友好関係が持続していました。その史実は朝鮮通信使に絡む足跡から明らかです。
花鶴浦の漁業権放棄は1658年。「江戸後期に花鶴浦から瓦を出荷していたのは確か」の証言とも合致。
私は黒田藩が莫大な費用でもてなした相(藍)島に宗像、福間、花鶴浦から人と物資が運ばれたと仮説。
朝鮮通信使と「しこふむ」4自治体の関わりを広域調査中。

いま米国とキューバ国が55年ぶりに国交回復をはじめた。

江戸時代のような国書の偽造はないだろうが、解釈のあいまいな表現の文言で、両国の面子をたてれば、回復は可能である。



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