2020年7月20日月曜日

中野正剛(生誕・幼少・学生・評論家・政治家)



福岡藩士・中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町58番地(現・中央区荒戸)の伯父・中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。

中野家は代々福岡藩の御船方であり、父・泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で
質屋を家業としていた。母・トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。
荒戸の師範・付属校の地図

幼少時より腕白坊主で、
福岡師範付属小学校時代は同級生に緒方竹虎の兄・大象がいて、一年下に竹虎がいた。


付属小・中の正門

師範学校の跡の石碑

 
師範附属小学校の高等科で教えていた柴田文城先生は、頭山満の縁戚で、学校へ白馬で通っていた
中野の組は非常に悪かったそうで、柴田先生はある日、中野を呼んで「君は元気があっていい。君は将来偉くなると思う。でも、今のようなことではつまらん。弱い者は助けなければならない。君があの子を守ってやれ」と言われ、それから人間が変わったように、強い者には立ち向かうが、弱い者は助ける、というふうによくなったという。
正剛が好んだ漢詩、「欲 窮 千 里 目 更 上 一 層 樓」や「豪傑之士雖無文王猶興」などを柴田先生は小学校で教えたという。



14歳で福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学したが、幼少時から家業の質屋を毛嫌いし“質屋の甚太郎”と呼ばれるのが不快で、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛(まさかた)と改名する。
明治時代の修猷館


自分の生涯を正しく剛毅に行く抜こうという意志の表れだったが、“まさかた”と呼んでくれたのは母親だけで周囲は皆“せいごう”と呼んだ。
中学校の柔道教師は飯塚国三郎で、柔道部に入部した中野は同級生の宮川一貫らと稽古に励んだ。学校で柔道をやるだけでは飽き足らなかった中野は市内に土地を買い、「振武館」という道場を旗揚げして生徒仲間らと共に毎晩9時頃まで汗を流すという、到底14歳とは思えない行動力の持ち主でもあった。資金は玄洋社に無心したようだ。

1905年(明治38年)、修猷館を卒業後は早稲田大学政治経済学科に進学し、上京している。 修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。


彼のジャーナリスト、政治家としての活動は著名であるから、省略する。
中野正剛の壮絶な切腹死は大戦末期(1943年10月27日)で、西公園にあった平野国臣の銅像が廃された頃である。その頃は中野の居は鳥飼神社の横に移していた。
その居住地あとに、正剛会有志により銅像が建てられたのは、国臣像の再建と相前後してである。

近くにある平野国臣の像


中野正剛の碑と銅像
この石碑の文字は緒方竹虎の書である。この二人は親交があったのは前述の通りである。
二人は、小学校、中学(修猷館),早稲田、朝日新聞社と行動をともにした。
私が付属小学校6年で座った机の上板には、初代に中野正剛、二代に緒方竹虎の名前が墨でかれていた。20代くらいまで名前があったが、私の書くスペースはもう無かった。机は空襲で焼けてしまったのが残念だ。
東條英樹の終戦処理不在に反対し、憲兵隊に逮捕されたが、国会会期だったので拘留はまぬかれた。しかし戦局末期の不安や兵役中の子供らへの心配もあって、自宅で自決した。





自決時の遺書



私は小学5年生の時に中野正剛が母校訪問にきて講演をしたことを覚えているし、100周年記念誌にも記載されている。
中野、緒方の偉大な政治家との、わずかな絆が私にあるのは有難い。
緒方竹虎生誕地の石碑

福岡市の主な銅像

東京・多磨霊園に眠る中野は、果たして、今の政局をどう見ているか。





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