2022年9月11日日曜日

エリザベス女王の若き時代

 後にエリザベス女王となる女児の誕生は、1926年4月21日 午前2時40分。

大英帝国の王、ジョージ5世の次男に娘が生まれたことは、もちろん祝賀として扱われたが、さほど重視はされなかった。それは、ヨーク公には、兄君プリンス・オブ・ウェールズ皇太子がおり、ヨーク公の継承順位は兄より下位にあったからだ。


女王の両親


ただし、 「夫人、プリンセスとも、御経過は極めて順調であられる。この出産にあたって、ある種の施術が成功裏に行われた」 という新聞記事。


女王の誕生




ヨーク公夫人は、長らく妊娠できなかった。不妊の原因は、夫のヨーク公が虚弱体質神経過敏、言語障害まであったことなど、健康上のトラブルを抱えていたことによる。

英国王の次男であるヨーク公には吃音があり、公の場ではまともに話ができず、おまけにX脚であることも周知の事実であり、結婚に至るまでに、妻から2度プロポーズを断られたなどということまで、王族の噂の種であった。

しかし、利発なヨーク公夫人は、夫を励まし、数人の信頼できる産婦人科医に相談。

最後に夫妻は、人工授精という新しい医学技術を受け入れた。この結果、ヨーク公夫人はようやく妊娠できた。ヨーク公夫人の熱心な取り組みで、この日、第一子エリザベス王女(現女王陛下)を出産することができたのだ。

小柄な母体の安全を考えて、出産は帝王切開。母であるヨーク公夫人は「王族の義務」を受け入れ、跡継ぎを産むことによって国民の信頼を勝ち得たのである。

赤子は洗礼を受け、「エリザベス・アレキサンドラ・メアリ」と命名された。この命名についてヨーク公は、父親のジョージ5世に特別に許可を求める手紙を書かなければならなかった。エリザベスとはエリザベス1世、アレキサンドラはエドワード7世妃から、メアリとはジョージ5世妃、いずれも偉大なる英国王族女性の名であるから。

「どうかこの命名をお認めください。一家にエリザベスがふたりいても決して混乱は生まれないと確信しております。エリザベスという名を、私たちはなんとしても子どもにつけたかったのです」。

それに対して「私も好きな名前だし、可愛い名前だと思う」と国王は返事を書いた。 

まだ目も見えない「エリザベス・アレキサンドラ・メアリ」が、その後25年たって、英国を統治するエリザベス2世となることを、誰が予見していたのだろうか。

兄であるエドワード8世が王位を捨て、吃音のある弟ヨーク公が即位することに。

1939年、13歳になったエリザベス王女は、名門イートン校の副校長サー・ヘンリー・マーチンについてイギリス憲法史の特別授業を受けるようになった。マーチン先生の研究室を訪れる人は部屋の床に山のように積まれた本の間をすり抜けて着席する。王女は1週間に2回、その研究室を訪れ、イギリス憲法に記された王室の役割について学んだ。

そしてこの夏、父と母、それに妹マーガレット王女とともに王室のヨット、ビクトリア&アルバート号で国王の母校、ダートマスの王立海軍大学を訪問した。

案内役としてその場に現れたのは健康な青年、18歳になったばかりのギリシャの王子フィリップ・マウントバッテンであった。

彼は1921年、マウントバッテン卿の姉のアリス王女とギリシャの王子との間に生まれ、士官候補生として海軍大学に入学していた。スカンジナビア風の金髪と碧眼、長身。端正な顔立ちの海軍将校に13歳のエリザベス王女は一目惚れしたという。初恋だった。

同行した家庭教師マリオン・クロフォードが王女の様子を間近で見ていた。
「王女さまはフィリップ殿下から目を離しませんでした。青く澄んだ瞳。バイキングのような金髪の海軍将校。この方は国王のまたいとこであるマウントバッテン卿の甥、フィリップ・プリンス・オブ・グリースでした。彼は王女にむかって『テニスコートに行ってネットを跳び越えて遊びませんか。楽しいですよ』と王女さまを誘ったのです」。

フィリップ殿下の叔父にあたる海軍大将マウントバッテン卿も甥のフィリップ殿下とエリザベス王女の男女の将来に縁を感じたようだった。ふたりの年齢差は5歳。後にエリザベス王女の祖母であるジョージ5世妃、メアリ皇太后は若い2人が共通の祖先をいただいていることを大変喜んだ。メアリ皇太后の調査によれば2人はヴィクトリア女王から士3代目のいとこ同志で、申し分のない結婚相手であった。

フィリップ・プリンス・オブ・グリースは1921年にギリシャの王子として生を受けた。フィリップ殿下が産声をあげたのは病院ではなく、イオニア海コルフ島の別荘、モンルポのテーブルの上だったといわれている。 

1922年、クーデターが勃発。時の英国王ジョージ5世の救出作戦により、イギリス海軍の巡洋艦の艦長が、オレンジの箱で急造したゆりかごに押しこまれたフィリップ王子を救助する。

フイリップ王子の幼年時代

腕白な少年時代をパリで過ごしたフィリップ王子は、その後、親戚を転々とし、1938年春、海軍受験の少年として叔父のマウントバッテン卿に引き取られた

由緒正しい家系に生まれたとはいえ、あまり幸福ではない少年時代をすごしたフィリップ殿下であったが、叔父のバックアップにより進路が定まり、ダートマス王立海軍大学に学んだ。

彼は、海軍士官としての文武両道の課題を次々にこなし、成績優秀者に贈られる国王下賜の短剣をゲットするなど、実力を発揮した。そんな甥を、マウントバッテン卿は誇りに思っていた。

第二次世界大戦中の1941年、フィリップ王子の祖母が、彼をエリザベス王女の祖母・ジョージ5世妃メアリ皇太后の元に連れて行き、3人でアフタヌーンティーを楽しんだことがある。金髪で青い目をした若い海軍軍人の第一印象は素晴らしいものであった。一目で彼を気にいったメアリ皇太后はフィリップ殿下の海軍での軍功をたたえ、自分の「編み物リスト」に彼の名前を加えた。「編み物リスト」とはお気に入りの親族の名前を書いたノートで、皇太后はそのリストに書かれた人に肩掛けやセーターなどを編んで贈っていたのだ。

今に残るフィリップ殿下の軍功を紹介しよう。当時フィリップ殿下は地中海でイギリス海軍の戦艦バリアントに乗り組み、1941年3月、マタバンの海戦でサーチライトの操作を担当。当時の緊急電報の中にフィリップ王子の奮戦の記録が残っている。艦長は「彼の的確な情勢判断により5分間でイタリア巡洋艦2隻を撃沈」と打電した。

まれに休暇で帰国すると、エリザベス王女の住むウィンザー城にも出向いている。王女の父君、海軍出身のジョージ6世は、フィリップ王子からじかに地中海海戦の情報を聞き、情勢分析に役立てた。国王もフィリップ王子も当面、戦争にのみ没頭しており、王女の初恋はひそやかに心のなかで大きく育っていった。

海軍将校時代

第2次大戦中は、女王も軍服姿で女子軍隊の先頭にたち、軍事訓練のリーダーを務められた。



婚約発表(1947年7月)

婚約発表後にバッキンガム宮殿で撮影された1枚は、幸せムードいっぱい!




結婚式の日(1947年11月)

結婚式を挙げ、夫婦になったばかりの女王と殿下。







バルモラル城でピクニック(1960年9月)

チャールズ皇太子、アン王女、アンドルー王子とバルモラル城の庭園でピクニック。ペットのコーギーも一緒に。




ウエストミンスター寺院での国葬の際の、参列者の座席の配置図


英国王室の保有資産とエリザベス女王の遺産



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