幼名は弥七郎、初め吉弘鎮理(しげまさ)と名乗り、のち高橋氏を嗣いで高橋主膳兵衛鎮種と改名します(以下紹運で統一)。
紹運は寡黙沈着で勇気があり、口数は少ないが言うべき時には自分の意見をはっきり相手に伝えて納得させたと伝えられ、大友宗麟からも厚く信頼されていました。
九州関連地図 |
宗麟の乱脈に反抗した反乱ですが、後に鑑種は誅殺されます。
このとき紹運は宗麟の命で高橋氏の跡を嗣ぎ、立花道雪とともに大友氏を支えました。
大友氏は天正六年(1578)十一月の耳川の戦いで島津氏に大敗して以来凋落の一途をたどりますが、道雪や紹運の踏ん張りで何とか持ちこたえます。
しかし同十二年三月、肥前島原沖田畷に龍造寺隆信を滅ぼして一気に勢力を強めた島津氏は、次の矛先を豊後・筑前に向けられました。
そして当時筑前岩屋城(福岡県太宰府市)を守っていたのが紹運だったのです。
島津氏は島津忠長・伊集院忠棟らの五万の大軍で筑前に向かって押し寄せ、各地で勝利してました。
対する紹運は千にも満たない寡兵で島津勢を迎えます。家臣たちは口々に援軍を求めるよう進言しますが、紹運は頑として受け付けませんでした。なぜなら敵は薩摩の強兵五万、少々の援軍など意味のないことが紹運にはよくわかっていたのです。
玉砕を覚悟した紹運は、開城を勧告する島津の軍使に対してもかたくなに拒絶しました。そして戦国期に存在した数ある壮絶な戦いのうち、その筆頭と言える戦いが始まりまりました。
岩屋城地図 |
しかし所詮は多勢に無勢の悲しさ、とうとう城兵は一人残らず玉砕し、紹運もこの日に切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。
さすがに島津の強兵たちも紹運の凄まじい働きには言葉を失い、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したと伝えられます。
墓場入り口 |
紹運の墓 |
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