2013年8月27日火曜日

安川敬一郎の時代

大河ドラマ「八重の桜」は幕末明治を敗者の立場で描いたものだ。 
主人公の八重子は、安川敬一郎より4年前にうまれ、4年後に死亡している。ほぼ同じ時代の人物である。 


そこで敬一郎の本などを読み直して、当時の地元の動きをしらべてみた。
 黒田藩は勤皇の志士を皆殺害して、佐幕体制であったため、戊辰戦争が起こってはじめて3人の家老を切腹させ、戊辰戦争への兵隊を送った。
 敬一郎も戊辰戦争に出兵予定だったが、安川家の養子となり中止となった。
 明治になり江戸への派遣留学生にえらばれ、上京する舟のなかで、長州武士にあい、はじめて西郷や大久保の名前を知ったという。
 勝海舟にあって、西郷や大久保や佐久間などの人物像をきいたという。その後薩摩藩士の事件にであい、薩摩や長崎にもでかけた。これにより敬一郎の世界がひろまったようだ。 
再度上京し福沢諭吉の門下生となる。
しかし長兄が贋札事件の責任者で切腹し、次兄が佐賀の役で戦死したため、帰郷して炭鉱経営を引き継ぐこととなった。 
頭山満の父は、戊辰戦争に参加した人物だから、病で死亡するときは、畳の上では死ねないといって、庭の土の上に移させたという時代である。
 戊辰戦争では、会津藩は壊滅状態にされたが、庄内藩は最後の交渉で、多額の献金条件を提示して殆ど無傷の条件で、明治をむかえている。新政府の弱点をうまく利用した藩もあった。 
安川敬一郎は、苦しい炭鉱経営を見事に立て直し、さらに紡績業や鉄鋼業にも手をひろげた。
その利益を國家に還元するために、会津藩出身の東大総長だった山川健次郎の力をかりて、戸畑に明治専門学校を設立したことは有名である。
 それ以外にも大河ドラマの人物と接触したことがありそうだ。 
頭山満や玄洋社のメンバーとは親しく交流して、中国の孫文を支援したりし、衆議院議員にもなっている。
グラバーの子息の「倉場」の日本名を提案したという話もある。

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