2014年7月10日木曜日

肥後国人一揆(隈部親永達)

 豊臣秀吉は九州へ軍を進めて島津氏征伐を行い、九州を平定して改めて国割りを行った。
その結果、佐々成政に肥後一国が与えられることになるが、成政はいきなり難しい局面に立たされる。
佐々成政
 肥後は元々菊池氏が治めていたが、戦国期に入ると力のある家臣たちが次々と独立して国人化し、菊池氏の存在は有名無実化していた。
こうして地域ごとに独立した国人衆がそれぞれの地域を支配し、有事の際にはそれぞれの判断で進退を決めていた。
当時、肥後中央部に隈本城主・城久基、北部に隈府城主・隈部親永、北西部に筒ヶ岳城主・小代親泰、南部に人吉城主・相良長毎といった国人衆が割拠していたが、このうち隈部親永が成政に対して公然と反旗を翻す。



隈部親永の銅像
隈部親永銅像



 秀吉は成政を肥後国主として任じた際、「五ヶ条の制書」と呼ばれる朱印状を下すが、その中に「三年検地有まじき事」という一条がある。それに反して成政が性急に検地を行ったため国人衆が反発したとされるが、実態はもう少し複雑な事情があったようだ。
 肥後の国人衆たちは秀吉の九州平定後、旧領は安堵されたものの、所領は大きく減らされた。
 細かく言えば、菊池氏支配当時の所領に戻されたわけで、その後戦国期のどさくさに紛れて押領した分はすべてカットされた。
 隈部氏の場合を例に取れば、千九百町あった所領が八百町に減らされた。これでは国人たちが反発するのは当然。
 しかし、国人たちにも問題があった。彼らは本領安堵の意味を従来の大友・龍造寺・島津氏による肥後争奪時代と同様に考えていたようで、成政から通達された際にも「我々は秀吉公から所領を安堵されている。貴公(成政)から指図を受けるいわれはない」といった態度に出た。
 国人衆にすれば秀吉の家臣ということでは成政とは同格であり、その下に入ることが納得できなかった。
 ともあれ隈部但馬守親永は、子の山鹿城(熊本県山鹿市)主・式部大輔親安(泰)と籠城し、成政に反抗した。


真っ先に兵を挙げたのは、六万石以上の大名に匹敵する勢力を持っていた隈部親永であった。佐々成政が、隈部氏の居城の菊地城を攻めると、菊池城はあえなく落城。隈部親永は息子の親泰とともに山鹿の城村城に立て篭もる。

岩野川をへだてて日輪寺の向いにある城村城を、佐々成政が攻めている最中、手薄になった隈本城を益城方面の国衆が攻め立て、隈本城は危うくなる。成政は城村城に城兵が外に出られないように門に城をを築く、いわゆる付城をして、ひそかに隈本城に帰ります。この時、佐々宗能を影武者に仕立て植木方面を帰らせる途中、内空閑氏の兵士によって宗能は殺されてしまうが、成政は無事隈本城に帰還した。

隈本城は落城寸前でしたが、秀吉が隈本城に人質にとっていた阿蘇大宮寺家の阿蘇惟光、惟義を成政は巧みに利用し、益城の国衆を同士討ちにし、難を逃れる。

その間、城村城の付近(成政軍)の食糧が底をつき、成政は、柳川藩の立花宗茂に援軍を頼む。和仁の田中城(現三加和町)に立て籠もっていた国衆の和仁親実や、大田黒城に立て籠もっていた大津山家稜は、立花氏の軍勢とも一戦を交えた。しかし、成政軍は守勢一方であったため、ついに秀吉に援軍を頼む。


十月一日から京都で大茶会を催していた秀吉は、急ぎ茶会をとりやめ、肥後国衆一揆勢に対して、九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り込む。隈部氏をはじめ武士農民が一万八千人立て籠った城村城、さらに一万数千人が立て籠った田中城の攻防は、実に半年にわたって続いた。
秀吉は「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、徹底的に弾圧しました。ついに田中城は落城し、和仁一族は討滅され、城村城は停戦開城。
隈部一族は、翌年になって殺された。

佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹。秀吉は、加藤清正や福島正則らの武将を派遣し、反抗した国衆を処分し、検地、課税額の決定を強行。かくして肥後の中世を支配してきた国衆のほとんどは滅びた。

国衆一揆の翌年の天正十六年(一五八八)、肥後の新領主として北に加藤清正、南に小西行長が任命され、ここに肥後の中世は終焉を迎えた。そして、国衆たちの支配下にあったとはいえ、中世期のもつ自由を帯びていた民衆も、農耕にのみ専従させられる近世的社会へと移っていった。


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