2014年8月21日木曜日

石垣原の古戦場跡(改定編)

isi
杵築城天守角






九州の関ヶ原といわれる「石垣原合戦」は、黒田如水軍と大友義統軍の戦いではじまった。
石垣原の決戦図

8月に現地を見学し、12月7日に大河ドラマで放映されたので、画像を追加し再編集をおこなった。




義統は石田三成や毛利輝元の支持で、旧領地奪還をめざして国東半島南岸に上陸し、まず杵築城(木付城)を攻めた。

石垣原の合戦の前哨戦が行われた杵築城の戦跡は、天守閣が復元されている。島津軍が2ヶ月攻めても落ちなかったし、大友軍も攻めきれなかったので、勝山城とよばれている。
写真の説明はありません。
 
 しかし 中津城周辺を制覇した黒田軍が出軍してきたという情報がはいり、城攻めを解いて南下し、立石城に本陣をおき、別府の石垣原で戦陣をひいて待ち構えた。
別府市の小高い実相寺山の西側の公園に黒田如水本陣跡の石碑が立っている。2Kmほどはなれた立石山の中腹に大友軍の本陣跡がある。


石垣原古戦場址の石碑

黒田如水は実相寺山の西側に本陣をおいて対戦した。



黒田如水本陣跡の石碑
黒田軍は井上九郎衛門などの活躍で勝利し、大友側の武将吉弘統幸は討ち死にした。
(統幸は立花宗茂の従兄弟であり、叔母が義統の妻である。また井上と吉弘は旧知の仲であった。)








吉弘統幸墓場の説明板

 統幸が討ち死にした場所に吉弘神社に彼の墓があり、辞世の歌の石碑もある。拝殿の再建は子孫の寄付金で行われたという。



碑文の読み方





吉弘神社拝殿

  



大友義統本陣跡

  
石垣原合戦古戦場の説明板
海雲寺




宗像鎮続の課箇所のある天満天神宮
実相寺山
石垣原の軍団
戦場跡の石碑
 

勉強会での私の姿

大友義統と母里太兵衛の妻は兄妹であったので、母里太兵衛が講話交渉の主役となって、
大友義統の降伏条件を緩やかにして終戦が成立した。


黒田官兵衛軍はそのあと関ケ原から逃げ帰って柳川城の立花宗茂を、加藤清正と鍋島直茂と組んで、降伏させた。さらに島津を攻めるための軍隊を編成し、立花宗茂を先頭に立せた。
しかし徳川家康からの停戦命令がでて、島津攻撃は中止となった。

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