2015年8月29日土曜日

肥後国人一揆の山鹿城村城要図の詳細


天正十五年(1587年)7月10日、肥後・隈府城の隈部親永が、領主の佐々成政に反発して挙兵・・・肥後国人一揆が勃発した。
山鹿市の城村城周辺の戦闘状態の要図と、これを詳細に記述した古文書を個別にみつけた。
少し食い違いもあるが、同じブログに記述してゆっくり対比してもらう。
山鹿城村城の両軍配置図
隈部式部太輔親安は混引に引て山鹿城村の城に楯籠る。
其人数男女壱万五千余人 男八千余人、女七千余人、 内侍ハ八百余人也 ・鉄炮八百三拾挺内七百三拾挺ハ方々ノ持口、百挺ハ浮武者ニ付 
大手の大将は山鹿彦次郎重安搦手ハ有働の一族有働志摩・同甲斐・同玄蕃・同掃部・同大膳・同左京・仲光五郎・山崎三郎・鉄炮百八十挺・弓百張、大手原口ヲ固めけり、
同能登・同将監・筒間土佐・出田弥三郎・岡田三郎兵衛、鉄炮七拾挺・弓五十張、
保柳口には隈部次郎親房を大将として、有働伯耆・高浜武蔵・進ノ惣兵衛・木原紹宅・冨田主膳・野田蔵人・宗利主水・角田河内・松尾源三郎・木原次郎・須賀山七郎、鉄炮百挺・弓七拾張、
旧尾口にハ有働駿河・同蔵人・村神軍次・高木万力、鉄炮六十挺・弓三拾張、
出丸妙見口ニハ北里与三兵衛・常陸入道万鉄・千葉新助・有働左助・同帯刀、鉄炮百五十挺・弓百張、
円通寺口には隈部五郎兵衛・大塚平次・関部玄蕃・木済少二郎・上科備後・関佐渡・同隼人・池部弥三郎、鉄炮百弐拾挺・弓五十張、浮武者頭有働孫市・同又七・糸木宮内、鉄炮百挺・弓百張・鎗百筋、惣物頭有働大隅兼元也、
同八月七日佐々成政城村に発向し、日輪寺の上の斥候を上け、城の躰を見せ、大手原口より古閑の谷境ニ足軽を出し鉄炮せり合有所に、城村の足軽大勢打出候、是を見て成政の足軽大将相掛りに馳合、追手原口より半丁程近付ける、
有働左京・糸木宮内・小場二郎三十余人切て出て追返す、
同十三日佐々か兵庫口に攻懸、保柳口・円通寺口ニ押寄せたり、保柳口には数刻攻戦ひ相引にす、
円通寺口ニハ佐々右馬頭を大将として、大軍押寄、鬨を作懸々曳々声を出して攻立る、
味方も爰を専途と防戦といへども、ついには責破られ引色に成りける所に、大将親安鎗提け突て出れハ、持口の軍士立直し戦ふ半に、浮武者頭有働孫市・同又七・糸木宮内、尾崎より横合に懸り、際纔ニ五六間に成りし時、矢一筋・鉄炮一挺放すとそ見へし、鎗を揃へて突かゝる、寄手こらへ兼敗北す、右馬頭惣勢に後れ引けるを、隈部五郎兵衛か家人追懸けれは、右馬頭取て返し突伏せける、
有働孫市・糸木宮内ハ遁すましと追懸候、右馬頭ハ石原渕ニて追詰られ、引へき所なく岩の上より飛けるを、二人も続て飛下り、孫市右馬頭を押伏せ、首をは宮内取にける、
岩地蔵口ハ城第一の節所なれハ、はか/\しき兵もなく、防くへき方便もなき所に、成政か兵三百余騎にて押寄、責登り、已ニ危く見へける所に、円通寺の住僧は世に聞へし強勇にて、寄手大勢を物の数とも思ハす馳廻り/\坂を追下、岩の上より打落し、十死一生の働に寄手もあへて近付得す、
木原藤兵衛ハ兼て聞へし強弓の矢継はやなれハ、下り挙に散々ニ射る、
有働孫市・糸木宮内、岩地蔵口難儀なりと聞、敵の後陣より打て懸り、火花を散し責立れハ、流石の大軍なれ共我先ニと敗北す、成政か物頭赤沢左近・高木左エ門取て返し働きけるを、有働又七郎鑓を合せ、二人共に突伏ける、
親安か近習中原修理・河井権助・牧野主殿ハ群に抜て働ける、中原は城下の川中ニて太刀打しけるか、刀鍔元より打折けれハ、透さす敵を引組、水中ニて取て押へ、首搔切て立上る、
牧野主殿も川中ににて戦ひ、敵を組伏せ首を取、川井権助は能き武者三人、馬上より切て落す、
其外敵を討取者勝て記しかたし、
同十三日、敵円通寺口より押寄、鯨波を吐と上る、
城中よりも鯨波を合せ、互ニ矢合初り、夫より味方も城戸を開ひて打て出る、
味方陣中より木場太郎左衛門と名乗打てれハ、敵方よりも水野六左衛門と名乗切て出、互ニ秘術を尽し戦しか、ついに水野、木場を切伏せ首を取、
是を見て城中より三人切て出、水野を中に取込戦ひけれ共、勝成屑共せす、三人共ニ弓手馬手ニ切伏せ、暫く息つき居たりける、
勝成に続て道家次右衛門・鈴木小左衛門・浅井喜太郎・鬼田将鑑・原半左衛門各敵を討て首を得たり、
山田庄大夫ハ劣るまし進ミ出しか、城中より打出す鉄炮にて眉間を射れ、二言共なく馬より逆さまに落て死にけり、

城村城跡の記念碑と掲示板はつぎの写真にしめす。




      

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