2018年12月11日火曜日

西南戦争の敗走路:天の古道と湾洞峠

大河ドラマの影響で、この一月位の間に、西南戦争の番組をいくつも見た。
熊本城、田原坂の戦くらいは知っていたが、7ヶ月にわたる戦で、熊本、大分、宮崎、鹿児島の各地に戦争の痕跡が残っている。
西郷が軍の解散を決意したのは、延岡市外の北川町俵野という説と高千穂峡という説があった。敗戦経路には、高千穂峡(三田井)や椎葉などの山奥がふくまれているのは驚きであった。
武士である私学校党が、軽蔑していた庶民の徴兵軍に破れ、西郷の死後四ヶ月で木戸が病死し、翌年5月大久保が暗殺され、維新の3傑の死で「維新」は終結した。


宮崎県で、いま天の古道が脚光を浴びています。西郷どんの大河ドラマで、西郷軍が延岡から高千穂へ敗走するとき通った山道として、放送されたからです。


 昭和31年まで、日之影町見立地区と高千穂町岩戸地区は、同じ岩戸村でした。町村合併により、岩戸村はなくなり、岩戸地区は高千穂町へ、見立地区は日之影町へ、それぞれ分村されました。

 その当時、岩戸地区と見立地区を結ぶ峠道が五本在りました。
そのうちの一つ、『湾洞越(わんずごえ)』(全長11km)を復元し、観光資源にしようという両地区民の願いが形となったのが、「天の古道」です。

全長11kmの行程です。(見立地区仲組川中より湾洞峠までが、約4km。湾洞峠より岩戸地区赤水までが、約2km。赤水より天岩戸神社までが、5km)
天の古道という名は、この道が、天岩戸神社に繋がる参道であることから、新たに名付けられました。

湾洞越は、分村後、県道の開通などもあり、山師や猟師が使うぐらいでほとんど利用されませんでしたが、それまでは貴重な生活道でした。村役場などは、岩戸地区にありましたし、郵便配達、保険の営業、子牛競り市など、頻繁に使われていたそうです。

 同村ということで、両地区民には、親類も多く、天岩戸神社の氏子や、お寺の檀家など、当時を偲ばせる繋がりが未だにあります。
湾洞峠は山中の地名としては不釣り合いな名前ですが、山の谷間が入江のようになっている地形からでしょうか?
天の古道の開通祝いの行事のブログから写真などを転載させてもらいました。


わたしが訪れたころは無かったが、今は田原坂や各地に、遺跡の記念碑や説明板が設置されているようだ。


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